第三章 第八話 |
日が天頂を過ぎるころ、進む山道の風景が変わってきた。 ――緋色や黄色の葉が、残っている。 躑躅ヶ崎でもまだ葉を残した木があった。 それが、山に入ると、紅い葉を残した木が見受けられるようになり、その数が進むにつれ増えている。 ちなみに、の腹の調子はかなり悪くなっていた。 厳しい山道が故に馬の速度が出せず、ゆっくりと大きく揺れる馬上では時々口元に手を当てていた。 もちろんそれに幸村が気づいた様子はない。 「こちらでござる、殿」 道の先で、幸村が先を譲るように脇に馬を寄せた。 「どうぞ」 「・・・・・・は」 そう言われては断れず、は怪訝な顔をしたまま、視界を遮っている大きな木の下を潜るように馬を進め、 視界が開けた。 ――緋色が、躍る。 「・・・・・・なんと・・・・・・」 山中にあって開けた土地であるそこには、太陽の柔らかな光を受けて、視界を埋めるほどの紅葉が帯のように連なっていた。 京の都の姫君が着るような最高級の打掛でも、この錦には敵うまい。 絶句しているの後ろから、幸村が馬を進めてくる。 「すばらしいでござろう?」 そう言いながら馬を降り、手近な木の幹に手綱をくくっていたので、もそれに倣った。 「ここは某の秘密の場所でござる」 幸村が落ち葉の上に腰を下ろす。 「もう見ごろを終えてしまうゆえ、その前にどうしても殿に見せたかったのだ」 は立ち尽くしたまま、幸村を見据える。 「・・・・・・秘密の場所に、なぜ、わたしを」 問われて幸村はうむ、と一つうなずく。 「ここは特段、甲斐攻めの要地とはなり申さぬゆえ、安心召されよ」 確かに、北条と武田が戦を交える前に、甲斐の国内を自分に見せるなと言ったのはだ。 「それは、そうだが、・・・・・・そうではなくて」 言葉を探す。 「その。貴方の、秘密なのだろう。秘密を何故、わたしに明かしたのだ」 風が吹く。 ざあ、と木々が揺れ、紅葉の葉が舞う。 幸村はまっすぐとこちらを見つめている。 この視線が、苦手だ。 敵意がなく、睥睨するでもなく、ただ見られるのが、苦手だ。 が耐え切れずに視線を外すのと、幸村が口を開いたのが同時であった。 「――紅は、武田の色にござる」 「え?」 「この、光景は。某の大切なものを思い起こさせて――そして、某を奮い立たせてくれるのだ」 そう言う幸村の、なんと穏やかな笑顔。 「ここを殿に見せようと思うたのは・・・・・・それを、殿に知ってもらおうと思ったからでござる」 「・・・・・・なぜ」 「せっかく甲斐にいらしたのだ、甲斐のこと、某のことを知っていただきとうござる。某もまた、殿のことを知りとうござるよ」 が驚いたように目を開く。 なぜ、この男は。 そう言ってこちらを見て笑うのだ。 なぜ。 「・・・・・・幸村殿は、わたしをお嫌いではないのか」 「は?」 思わず口を付いて出た疑問に、幸村が首をかしげる。 「だから!わたしはいつも貴方の気分を害するような物言いしかしないだろう、なのになぜ、そんなことを言うのだ」 なんだかいたたまれない気持ちになって、言葉が速くなる。 幸村はしばし呆気にとられたように眼を見開き、そして笑む。 「もとより殿を嫌うようなことはございませなんだが、昨日の手合せで確信いたしたのだ」 そう言って、自らの左頬を指さす。 「そなたは悪人ではない、とな」 は言葉を飲み込む。 「昨日、やろうと思えば某の眼を突けたものを、殿は最後に狙いを逸らした」 はうろうろと目線を動かし、そして拳を握った。 今しかない。 昨日のことを謝るのは、今しかない。 ざくざくと落ち葉を蹴立てて進み、幸村の眼前に乱暴に腰を下ろす。落ち葉が舞い上がる。 「殿?」 驚いたように幸村がわずかに上体を逸らせ、は構わず拳を地に付けて頭を下げた。 「申し訳なかった」 「え?」 「昨日のことだ、手合せだというのにわたしは貴方の命を狙った。――申し訳、なかった」 さらに、とは懐から手拭いを取出す。 もう勢いででも言ってしまうしかない。今を逃したら、次にいつこうやって幸村と会話がきちんとできるかわからない。 頭を上げる、間近の幸村と眼が合う。 「ッ」 予想以上に近くて、顔を逸らしてしまう。そのまま、手拭いを持った両手を突き出す。 「これは」 「その、礼、礼を!言おうと、ずっと思っていたのだ」 「礼?」 「桶狭間で、わたしを助けただろう!その、独眼竜から!・・・・・・助かった。・・・・・・ありがとう」 幸村がこちらをじっと見つめているのが気配で分かる。 どうしていいか分からず、の声はどんどん小さくなっていった。 幸村が、小さく笑った気配。 「これは、よければ差し上げまする」 幸村の声がして、差し出した手拭いをの手が握るように、手が添えられた。 「・・・・・・殿は、礼を申されるときも某を見ないのでござるな」 「いや、その」 「殿こそ、この幸村をお嫌いなのでござろう」 「ッ、そうではなく!」 弾かれたようには顔を上げ、 「そうでは、なくて」 幸村と眼が合って、顔を伏せてしまった。 「殿?」 「・・・・・・貴方は、眩しすぎる」 「は?」 「わたしのような、者には。貴方は太陽のようで――眩しくて、見ることが、できないのだ」 その笑顔に、いつも自分の卑しさを思い知らされるような気がした。 自分にはないものを全て持っている。 言うなれば、それは嫉妬。 小田原にいたころ、あれほどくだらなく醜いと思っていた感情を、自分が持っていること。 幸村の眼はそれを全て見透かすようで。 だから苦手だ。 だから顔を合わせたくなかった。 だから、憎いと、思った。 幸村が息を吐いたのがわかった。 「失礼、」 という声がして、地を睨んでいるの顔の両側に、大きな手が触れる。 「――ッ!?」 そのままがっしとつかまれて、無理やり頭を上げさせられた。 幸村と眼が合う。 慌てて頭を動かそうとするが、両側から押さえつけられて動かせない。 こちらをまっすぐと見据える幸村の、その鳶色の瞳に、自分の顔が映りこんでいる。 ああ、なんて間抜けな顔。 「殿はおかしなことを申される。この幸村、誓って太陽などではなく人でござる」 「いやその、例えというかッ、」 「よく見てくだされ、殿」 顔をそむけようとすると、その顔を押さえている幸村の力比べが続く。 「ほら、某を見たからとて、そなたの眼が眩しさでつぶれることなどなかろう」 全身の力を使って顔を引こうとしているのに、幸村の腕はびくともしない。 どれくらいの間、そうしていたか。 にとっては途方もなく長い時間に思えた。 「・・・・・・ッ、そう、だな・・・・・・ッ」 ようやくそれだけ絞り出すように言うと、唐突に手が離れる。 「ッ!」 勢い余って、は横向きに顔から落ち葉に突っ込んだ。 「いや、すまぬすまぬ、大事ないでござるか」 笑いをこらえたような声がして、手が差し出される。 はその手を無視して身を起こした。 眼前の幸村の楽しそうな顔。 「殿はまこと、かわいらしゅうござるな」 「ッ!?」 「いや男子に対してかわいらしいとは失礼でござるな、うむ」 一つ頷いて、幸村がこちらを見る。 「まるで弟ができたようで、某は楽しゅうござるよ」 そう言って頭を撫でられたので、は自分の頬が熱くなるのを感じた。 父が他界して依頼、頭を撫でられた記憶がない。 「殿」 声をかけられて、そちらを見る。 「この幸村を兄と思って聞いてくだされ」 幸村が穏やかな眼で、こちらを見ている。 「おそらくこれまで、色々な苦難を乗り越えられたゆえの、その難儀な性格なのでござろう」 「な、難儀!?」 さらりと失礼な発言をされて、が目の色を変える。 しかし幸村はそれに気づいていないように続ける。 「それでも、人は変われるものでござるよ。殿はもうしばし、素直になられるべきであろうな」 そう言う、優しい声色。 つきり、と。 胸の、奥の奥が、わずかに痛むような感触が、あった。 ・・・・・・なんだ? 胸元を見下ろしたに、幸村が声をかける。 「・・・・・・殿?」 「あ、いや、」 慌てて顔を上げると、幸村が背負っていた小包から握り飯を出していた。 「そろそろ腹も空くころではござらぬか?」 差し出された握り飯を見て。 「〜〜ッ!!」 吐き気を思い出した。 口元を押さえ、一挙動で立ち上がる。 そのまま落ち葉を撒き散らしながら、木々の間へ走っていく背中に、幸村がのんびりと声をかける。 「あまり遠くまで行かんでくだされよー」 まるで子供を相手にしているかのような声に、は喉元をせり上がってくるものと戦いながら、眉間に深く皺を刻んでいた。 いったいなんなのだ、あの男は! |
20120620 シロ@シロソラ |
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