第三章 第六話 |
暗い天井を見上げて、は細く息を吐いた。 ・・・・・・眠れない。 常日頃から眠りは浅い方で、物音で目を覚ますことはよくあるのだが、今宵はどうも初めから寝付けなかった。 もう一度息を吐いてから、衾から身を起こす。 腹部に痛みを感じて、手を当てる。 湿布を当てているから、痛みはそのうち引くはずだ。 まさか、今日の幸村との手合せで身体が興奮状態になって、寝付けないのだろうか。 戦中に野営するときによくあることだ。 しかし平時の手合せでそこまで。 とりあえず寝付けないのは事実であるから考えても仕方がないと結論付け、は上掛けを羽織り、枕元に置いていた刀を持って立ち上がる。 に宛がわれたのは黄梅院が住む奥向きに近い一室。 私物をほとんど持っていないので、文机があるだけの、殺風景な室だった。 障子をあけると、外の冷気が頬をくすぐった。 濡縁に腰を下ろして、空を見上げる。 手を伸ばせば触れられそうな、星空。 そして大きな月。 こころが洗われるような、穏やかな光が、を照らしている。 館内にはところどころかがり火がたかれているようだが、人影はない。 皆寝静まっているのだろう。 気配を探ると、 「・・・・・・猿飛殿か?」 感じられた気配に、そう声をかけると、軒から忍びが顔をのぞかせた。 「相変わらず鋭いね、サン。こんばんは。寝れないの?」 「・・・・・・まぁ、そのようなものだ」 答えると、佐助は懐を漁り、 「ちょうど今、いい酒持ってるけどどう?寝付けるかもよ」 と言って、酒瓶をに見せた。 は少し目を見開き、そして口元に小さく笑みを作る。 「・・・・・・あぁ、ではいただこうか」 佐助は「そうこなくちゃ」と言いながら、音もなく濡縁に降り立っての隣に腰を下ろす。 そして懐から杯を二つ取出し、一つをに差し出した。 「どーぞ」 「・・・・・・貴方の懐には、色々なものが入っているのだな」 「ま、そこは忍びだから?」 そう言いながら、酒瓶を傾ける。 透明な液体が、杯を満たす。 「じゃ、かんぱーい」 佐助がそう言うので、は合わせて杯を少し持ち上げ、佐助が口をつけるのを見てから、自らも杯に口をつけた。 「・・・・・・こんな夜更けまでわたしの見張りとは大変だな、猿飛殿」 「そういうサンは疑わないんだね。これ毒かもよ?」 「貴方も口を付けたではないか」 「こっちの杯にはもとから毒消しを塗ってある、って言ったら?」 は佐助をひたりと見つめた。 「それで死ぬなら、わたしはそれまでの人間だったということだろう」 そう言って杯の中身を一息に飲む。 強くて、甘い。 佐助はの杯に酒を注ぎたしながら言った。 「サンは割と自分を大切にしないんだね」 「・・・・・・単に、優先順位の問題だ」 「ふうん?その割に、刀は離さないんだね」 が傍らに置いている刀を、佐助は視線だけで見る。 「貴方であっても他の忍びであっても、わたしが丸腰で勝てるほど甘くはないのだろう」 「俺様が、アンタを襲うって?」 「ありえない話ではない」 は冷めた眼を佐助に向ける。 「でもさっき、毒殺されても構わないみないに言ってなかった?」 「優先順位の問題だ、と言ったぞ」 の声はどこまでも平坦だ。 「武器を持って正面から向かってくる相手に丸腰で殺されてやるほど、わたしは甘くはない」 まるで、砥いだばかりの刀の切っ先のような、冷たい声だ。触れるだけで、切れるような。 佐助はその笑顔を一切崩さないまま、そう思った。 ・・・・・・そそるねぇ。 は一度杯を傾けてから、再び佐助に視線を戻した。 「それで、猿飛殿。わざわざわたしと酒を酌み交わしに来たわけではないのだろう?」 そう言うと、佐助は大仰に肩をすくめて見せる。 「まあね?聞きたいことは色々あるよ。例えば、サンはここに、何しに来たの?とか」 「――黄梅院様の供だ、それ以上でもそれ以下でもない。他には?」 即答されて、佐助は少し驚いたようだった。 「じゃあ、今すぐ武田が北条に攻め込んだら、どうするの?」 「黄梅院様がこちらに留まられるならば、わたしもそれに従う」 「・・・・・・じゃぁ。真田の旦那のこと、どう思う?」 「・・・・・・」 が杯を持つ手を降ろす。 「なぜ、そんなことを聞く」 「あ、困ったね。なんでって、うちの旦那が毎日すげなく振られてるのを見てちょっとかわいそうになっちゃたから」 「・・・・・・わたしが幸村殿をどう思うかなど、本人に伝えるべきであって貴方に言うことではないだろう」 「そっか」 佐助はそれ以上食い下がらず、杯をあおった。 「ちゃんは、俺様が相手ならちゃんと話してくれるんだね」 顔には、出さなかったと思う。 「・・・・・・誰だそれは」 が温度のない眼で佐助を見つめる。佐助はその眼を見つめ返す。 「・・・・・・、やっぱこんなカマかけには引っ掛からないか」 「何の話だ」 の声はどこまでも平坦だ。 「和重の子は、という名の姫だった。――アンタのことでしょ」 佐助は笑顔のままだが、その眼が笑っていないことにも気づいている。 そう、甲斐に来る道中で出会って以来何度か顔を合わせたが、猿飛佐助の笑顔はいつもそうだ。 黄梅院とはまた別の得体の知れなさを、感じる。 「・・・・・・姫は生まれて間もなく病で逝去された。わたしは養子だよ」 「それはないね、の家はどんな手を使ってでも一子相伝で血を守り抜いてきたんだから」 二人の視線がぶつかる。 佐助がついとの耳元に唇を寄せ、低い声でつぶやく。 「たったひとりの姫に、男として家督を継がせたり、さ」 「・・・・・・」 今度こそ、が押し黙る。 佐助がにぃ、と笑みの形に口を歪めた。 「安心しな、真田の旦那はアンタを男だと思ってる」 「・・・・・・何が、目的だ?」 「んー、こうやってたまに酒でも飲みながらお話してくれると俺様としてはうれしいんだけど」 はしばらく佐助を見つめる。 そして杯を空にした。 「そうか」 無理に聞き出そうとしてもこちらが躱すことをすでに気づいているだろう。 時間をかけても、確実な情報を得ようとしている。 は猿飛佐助について、そう理解した。 「――貴方は優秀な忍びなのだな」 その口元にわずかな笑み。 それを見て、佐助は嘆息する。 「ほんと、ちゃんは俺様が相手だと態度が違うね」 「貴方はどうしてもわたしをそう呼びたいようだな」 「いい名前じゃない。捨てちゃぁもったいないでしょ。で、そうやってお話してくれると俺様としてはいいんだけど、旦那きらいなの?」 なんだか今日はよくそう言われる。 はそれが少し面白く感じられて、口の端を上げた。 「強いて言うなら、貴方はわたしを疑っているだろう?」 佐助は少し驚いたように眼を見開く。 「・・・・・・そうだね」 「それが、わたしにとっての、幸村殿と貴方との違いだ」 敵意、侮蔑、猜疑――そういった感情を持っている人間の相手は、いつだってしてきた。 何を言われるか、どう答えるか、常に話題の先の先まで読んで対応する。 にとって、他人との会話とは、そういうものであった。 だが、幸村は違う。 彼の男が自分を見るあの眼には、否定的な感情が、ない。 だから。 「幸村殿は・・・・・・どうしていいかわからないのだ」 佐助は笑った。 「なぁるほど、ね」 そして、その顔から笑みが消える。 「本音を言うとね?旦那にさえ害がなければ、俺様としてはあとはどうでもいいんだわ」 口調はあくまでも穏やかだったが、その眼は底冷えするような昏い光を湛えての顔を覗き込む。 はそれを、まっすぐと受け止めた。 「そうだな。今日のことは・・・・・・謝罪しよう。貴方にも。主人を危険に晒した」 「忍びに謝るんじゃないよ」 苦笑する佐助に、は続ける。 「――それから、黄梅院様がそれを望まれない限り、そしてわたし自身に可能な限り。わたしは幸村殿を害さない。誓おう」 一瞬鼻白んだような顔をして、佐助は笑った。 「ちゃんは変わってるね。忍びに誓い立てなんかして」 「そうか」 忍びを人外のモノとして扱う向きは、小田原にもあった。 北条氏政は風魔小太郎を重用はしていたが、同じ人間としては扱っていなかったように思う。他の忍びたちについても、たかが忍び風情ととらえられている節があることを、も認識はしていた。 それでもにとって忍びとは小太郎のことであり、小太郎は尊敬すべき師であった。 「・・・・・・わたしも、相模では忍びに世話になっていたのだ」 佐助が眉を上げる。 「へェ?・・・・・・あ、お酒なくなっちゃった。ちゃんけっこう強いね」 酒瓶を逆さにして振っている佐助に、は杯を置きながら答える。 「飲めなければ切り抜けられないことがたくさんあったからな」 「残念な理由だね、お酒はおいしく飲まなきゃ」 そう言って佐助は立ち上がり、伸びをした。 「その忍びの話、また今度聞かせてよ。次は違う酒持ってくるから」 「・・・・・・それは、戦に絡む内容になるから、言えないな」 佐助が呆れたように眉を下げる。 「なんだ、全然酔ってもないしー。高いの用意して損した気分。次はもっと安いのにしよ」 対しては、にやりと笑って見せる。 「いいのか?不味いとわたしは口を割らないぞ」 「うは、鬼だねぇ」 そう言うや、佐助は屋根に飛び上がる。 「猿飛殿」 声をかけると、佐助が、顔だけこちらに向けた。 「美味い酒だった。――ありがとう」 佐助は一瞬口ごもり、そしてにへらと笑った。 「ま、その半分くらいでもいいから、旦那にも愛想振りまいてやってよ」 は、仏頂面で答える。 「・・・・・・あぁ、努力はしよう」 そうして、佐助の姿が消える。 はそのまま、月を見上げていた。 そういえば甲斐に来てから、黄梅院以外の相手と長く会話をするのは初めてだったと気付く。 少し、こころが軽くなったような気がした。 明日は、まず今日のことを幸村殿に謝ろう。 そう思って、立ち上がる。 ・・・・・・まずは、いつものように朝餉の後、声をかけてくるだろうから―― 幸村が言いそうな台詞、それに対する受け応えを何通りも考えながら、は室に戻った。 |
20120619 シロ@シロソラ |
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