第三章 第五話

 の身体が、玉砂利をまき散らしながら転がって、石灯篭に当たって止まった。
 幸村はそれを見て、肺に溜まった息を吐き出す。
 右手で左頬を触る。
 ぬるりという感触。見ると指に血が付いている。
「そこまでだよ、旦那」
 すぐそばで聞こえた佐助の声に、我に返った。
「ッ、殿!」
 突っ伏したまま動かないに駆け寄る。
 仰向けにすると、息は、している。
「気絶しちゃってるね」
 隣から佐助が覗き込む。
「佐助、気付け薬を用意してくれ」
 そう言ってを抱きかかえて立ち上がり、
 ――その身体の軽さに驚いた。
 やはり食事が足りていないのだなと思いながら、力なく眼を閉じている顔を見下ろした。
 舶来の陶磁器のような、きめの細かい肌。
 睫毛が、長い。
 こうして眼を閉じているとまるで――
「旦那?」
「ああ、いや、とりあえず中まで運ぼう」
 そう言って踵を返すと、そこに黄梅院が降りてきていた。
「黄梅院様」
「ちょっと失礼」
 黄梅院はじっとの顔を覗き込み、
 その顔を掌で叩いた。
「こ、黄梅院様!?」
「起きなさい
 うろたえる幸村を無視して、黄梅院はの頬を叩き続ける。
「・・・・・・ッ、ぅ」
 が眉を顰め、薄らと眼を開けた。
 しばらく瞬きを繰り返し、幸村と眼が合う。
「――ぅあ!?」
「わ、殿、」
 は驚いたような声を上げて、幸村の腕から転がり落ちるように抜け出した。
、私の室まで歩ける?」
 黄梅院が着物を翻しながら、を振り返って言う。
「――は、大丈夫、です」
 はそう言って立ち上がり、
「ッ、」
 腹を押さえるような仕草を見せた。
殿、」
 幸村が声をかけると、すぅ、とがこちらを見る。
 腹に当てた手はすでに降ろされ、手合せを始める前と何も変わらないような無表情で。
「幸村殿。手合せありがとうございました。わたしは、これで」
 そう言って一礼し、黄梅院の後をついて行ってしまう。
 見かねた佐助が声をかけるまで、幸村はその後ろ姿を眼で追い続けた。





「こちらに座りなさい」
 室内に入ると、黄梅院は自分の前を扇子で指した。
「は、」
 言われたとおりには腰を下ろす。
 黄梅院の双眸が、射抜くようにを見据える。
 やはり甲斐の虎の血だな、とどこか他人事のようには考えた。
「あなた、無茶しすぎよ」
「申し訳、ござりませぬ」
 確かに無茶だった。
 自分はどうかしていた。
 何をされたというわけでもないのに、なぜあの男を憎いと思ったのだろう。
 そして幸村をあの場で殺していたら、のみならず黄梅院の立場も危うくなるところだった。
「・・・・・・なんか、見当違いなこと考えてるわね」
 黄梅院がこちらを睨んでくる。
 この方にはどうも、考えていることを見透かされているような気がする。
「・・・・・・まぁいいわ、で、。お腹大丈夫なの?それ自分で対処できる?」
「・・・・・・は、打ち身ですので、あとで湿布を」
「対処方法がわかってるならいいわ」
 遮るように言われ、は内心首をかしげる。
 黄梅院は何を言おうとしているのだろう。
 そう思っていると、黄梅院がこちらを見た。
「・・・・・・あなた、あまり薬師に身体見せたくないんじゃないの?」
「ッ!」
「それなら、無茶はほどほどになさい。薬師に見せなきゃいけないような怪我をするわよ」
 が眼を見開いた。
 その様子に黄梅院がひとつ嘆息し、立ち上がってに近寄る。
 そしての両肩に手を置き、顔を引き寄せる。
「こ、黄梅院、様?」
 うろたえた声を出すの耳元で、黄梅院がそうっとつぶやいた。
「あなた、女の子なんでしょう」
「――!!」
 びくりと肩を揺らし、そして口をつぐんだを見て、黄梅院は眉を下げると、の目の前に腰を下ろした。
「黙っていてごめんなさい。私は知っていたの」
 ――ほんとの殿方だったら私、好きになってしまうかも。
 甲斐に向かう道中、黄梅院が口にした言葉を思い出す。
「・・・・・・いつ、から」
「小田原を発ったあの日の朝。はなから、文をもらったわ」
 一瞬頭の中が空白になる。
「――な、それは、大変なご無礼を」
 家臣の侍女風情が、離縁されるとはいえ国主の正室に直接文を出すなど。
 慌てて平伏するに黄梅院は苦笑する。
「謝罪ならもうはなから聞いているわ。顔を上げなさい」
 が顔を上げると、眼前に一通の文が差し出されていた。
 震える手で受け取り、開く。
 そこには確かに、はなの流麗な手蹟。
 分をわきまえない文を送る無礼を謝罪する言葉から始まる文は、その後のこれまでの生い立ちを綴っていた。
 そして、混乱し、落胆しているであろうを、見守ってほしいとの嘆願が記されていた。
「なに、を・・・・・・」
 はなとて、突然奉公先を失った身なのだ。
 それなのに。
「よくできた侍女ね。羨ましいわ」
 が読み終えて丁寧に畳んだ文を受け取りながら、黄梅院は柔らかく微笑む。
「それにあなたも、いつも本当によく、がんばっているのね」
 はどういう顔をしていいかわからない。
 ただ手をつき、頭を垂れる。
「前にも言ったけど、私はあなたの味方よ、
「黄梅院様・・・・・・」
「出戻りの私には、あまり力はないけれど」
 でも、と黄梅院は続ける。
「はなの替わり、とまではいかないでしょうけど、あなたを守ることに尽力するつもりよ」
「恐れ多いことで、ございます」
 は額を畳にこすり付けるように平伏する。
「そのかわり、あなたは私を守ってくれるんでしょう」
 は顔を上げ、まっすぐと黄梅院を見つめる。
「は!この、黄梅院様を守るために心血を注ぐ所存、」
「――本当は、この甲斐のために、その力を使ってくれるといいのだけど」
 は表情を硬くする。
 自分はあくまで、北条の将だ。
 だが、今の主は、黄梅院である。
「・・・・・・黄梅院様の、お望みでしたら、」
「いいえ。これは命令しないわ。あなたに、自分で選んでほしいの」
「・・・・・・は」
「あなたが、自分で生きる道を選んで。それがこの甲斐ならば、私はお父様にあなたを取り立てる進言をするわ。もし、ここではない別の場所が望みなら、わたしはあなたを止めない」
 黄梅院が言う意味を、は図りかねる。
 自分の居場所はもはや黄梅院の傍しかないと思ったのに。
「いいこと、。春が来たら、おそらくお父様は相模に攻め込むわ。それまでしか、猶予はないけれど、よく考えてこたえを出しなさい」
「・・・・・・は」
 こたえ。
 自分が生きる道。
 黄梅院の言葉が、頭の中を巡る。
「それはそうと、
 黄梅院が声色をかえて、にっこりと笑った。
 あの、得体が知れない方の笑みだ。
「・・・・・・何でしょう」
「あなたやっぱり、弁丸苦手でしょう」
 は言葉に詰まった。
 もはや否定は、できなかった。
「・・・・・・そのような、感情を。他人に抱くのは、・・・・・・初めてなのです」
 は一郎やはな、ごく一部の人間に対して好意を持つ以外は、他人に対して関心を得たことがなかった。
 「御本城様」はもちろん大切であったが、北条氏政は次代までのつなぎとしか思えなかったし、北条家の他の家臣にはいくら蔑まれても何も感じず、「苦手」「嫌い」、そして「憎い」などという感情は一片も持ったことがない。
「初めて、ね」
 黄梅院がひとつ頷く。
、これは年の功だと思って聞いてくれたらいいけど、『苦手』という感情は、ある程度相手のことを知るからこそ生まれるものなのよ」
「知る、でございますか」
「そう。知らなきゃその人のことなんかどうでもいいでしょう?でも知れば知るほど、その人のことを『嫌い』になったり『好き』になったりするものよ」
 なるほど、とは頷く。
 確かに、北条家の他の家臣については、名前と領地や役割、その他戦略上必要な情報以外のことは何も知らない。
「あなた言ってたわよね、弁丸は『人から好かれる』って。それはきっと、あなたが知らない弁丸を、他の人は知っているからよ」
 は黄梅院が言っている意味を考える。
「それは、幸村殿のことをさらに知って、好きになれ、と」
 しかし黄梅院は首を横に振る。
「そこまでは言わないわ。ただ、どうせここにいる分には顔合わせなくちゃいけなくて、そのたびに目くじら立ててたら疲れるでしょ?嫌いじゃない程度には、弁丸のことを知っても損はないと思うわ。じゃないとあなた、また今日みたいな無茶をするでしょう」
 どう?と聞かれて、は少し考える。
 そして、頷いた。
「・・・・・・努力は、いたします」





 幸村は濡縁に腰を下ろして、佐助から頬の傷の手当てを受けていた。
「――ッ、痛!」
「はいはい旦那、動かないで」
「ものすごく沁みるぞ佐助!」
「我慢して。サンの方が、痛かったと思うよ?」
 そう言われて、幸村は大人しくなる。
「・・・・・・加減が、できなかった」
 槍を握っていた左手を見下ろす。
 最後の一撃。
 が狙いをずらしたのが見えたのに、自分はそのまま突きを入れてしまった。
「しょうがないでしょ。最後のは俺様もさすがに肝が冷えたよ」
 佐助が薬を片付けながら言う。
「で?どうだったの、『旦那にしかできないこと』の感想は」
「うむ」
 幸村は後ろ手をついて、足を投げ出す。
 動かした身体にはひやりと心地よい風が吹いている。
殿は・・・・・・、何というか、手負いの猫のようだな」
「へえ?」
 佐助が眉を上げる。
「その、弱み、だろうか、そう言ったものを俺に見せまいと、必死であるように見えた」
 幸村は今しがたまで手合せをして乱れた庭園の玉砂利を何とはなしに見つめる。
 そこに、が見せた、あの泣きそうな表情が重なった。
 年相応の、子どものような顔だった。
「何か、その身の内に秘めたものを。矜持で固めて隠しているように感じた」
 佐助はその言葉に、成る程と感心した。
 直感、あるいはそれに近いような形で、物事の本質を見極める眼を、主が持っていることを佐助は知っている。
「――やはり、男同士は拳で語り合うのが一番でござるな!」
「男同士、ねェ」
 両の拳を握って力強くうなずいた幸村に、佐助がぽつりとつぶやく。
「何か言ったか?」
「いーやなんにも」
「それに、殿は細すぎる。きっと食事が足りておらぬのだ!もしかしたら甲斐の食べ物が合わぬのかもしれんな、明日から俺も食事に同席させてもらえないか黄梅院様にお伺いしよう」
 善は急げだ、と立ち上がる幸村を、佐助は黙って見ていた。

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20120618 シロ@シロソラ
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