第三章 第一話 |
「黄梅院様!殿!おはようござりまする!」 「おはようござりまする、幸村殿」 朝餉を終えた黄梅院に付いて濡縁を歩いていると、前方からやってきた幸村が満面の笑みで挨拶してきたので、は小さく頭を下げた。 朝からたいした元気の良さだと、どこか冷めた心で感心する。 「あらおはよう弁丸、今日も朝からうざいくらい元気ね」 「う、うざ?」 いつも通りの華やかな笑みで黄梅院が言った「うざい」という言葉に、幸村が首をかしげる。 もその言葉そのものの意味はわからなかったが、言葉の調子から何が言いたいかはだいたいわかるようになっていた。 「若いおなごの間で流行してる言葉よ、弁丸」 「あの、某元服いたして、」 このやりとりも、甲斐に来てからもう何度も繰り返されている。 おそらくわざと、黄梅院は幸村のことを幼名で呼び続けている。 「――、そうでござった、殿!」 突然こちらに声がかかった。 「何でしょう」 「今日は天気も良いゆえ、遠乗りに出かけませぬか!」 「遠乗り?」 「左様、雪が降る前に案内したい場所がいくつか、」 「――遠慮申し上げる」 幸村の言葉を遮って、は口を開いた。 「幸村殿、わたしは黄梅院様付きとはいえ、北条の将だ。甲斐の国内など、他国の人間においそれと見せるものではない」 まっとうなことを言っているはずなのに、幸村の表情が目に見えて暗くなっていく。 「そうで、ござるな」 気分を害したかもしれない、そう思うのに、何をどう言っていいかわからない。 捨て犬のような眼をしている幸村と、黙りこくってしまったを見比べて、黄梅院はぱらりと扇を開いた。 「、私これからちょっと用があるからついてらっしゃい。弁丸、そういうわけだからを誘うのはまた後にしてくださる?」 弾かれたように、幸村は顔を上げた。 「は、失礼いたし申した、それでは某はこれで」 そう言って立ち去る幸村の後ろ姿を、は何とはなしに見つめる。 「幸村様!」 各室の膳を下げているのだろう、たすき掛けをした女中が幸村に声をかけている。 「おお、さち殿!重そうでござるな、某お持ちいたしまする」 「何言ってンですか、お膳くらい運べないとウチの仕事がありません。それより今日お八つ時はこちらにいらっしゃるんですか?」 「む、そうでござるな、いると思う」 「でしたらちょうど市で評判の甘味が手に入ってますので、楽しみになさいませ」 「なんと、かたじけない!」 「――ああ、幸村ではないか」 女中が声に気づき、頭を下げて膳を運んで行く。 「山本殿!お久しゅうございます!」 現れたのは壮年の男性。 信玄に一度紹介されただけだが、あの男は確か武田軍の軍師であると、は思い出した。 「しばし見ぬ間にまた大きくなりよったようだな。しばらくこちらにいると聞いたが」 「は、冬の間はこちらで過ごす予定でございます」 「そうか、ではまた酒など飲みかわそうぞ」 「は!楽しみにしております!」 「――幸村様!」 「幸村様、おはようございます!」 軍師が去った後も、すれ違う侍女や、庭師、小姓たちが幸村を見るなり声をかける。 「・・・・・・」 幸村はそのすべてに笑顔で接し、会話の中には笑い声も漏れ聞こえる。 「?」 「申し訳ございませぬ」 少し先に行ってしまっていた黄梅院がこちらを振り向いたのに気付いて、は我に返って足を速めた。 最後にちらりと、幸村を囲む人たちを見た。 彼の周りにはいつも、人が集まる。 そしては心の中で、溜息を吐いていた。 懐に入れたままの手拭いの存在を思い出す。 ・・・・・・また、礼が言えなかった。 この躑躅ヶ崎館で生活を始めて、半月がたった。 は一日の大半を、黄梅院の小姓のようなことをして過ごしている。 広大な館内は、信玄に謁見するための室、厨、奥向きの黄梅院の室など、必要最低限の場所だけ覚えてその中で生活していた。 見張り役として幸村が付けられているものの、あまり一緒にいることがない。先ほどのように、やれ市場を案内するだの、馬舎を見せるだの、色々と声をかけてはくるが、そのほとんどを断っていた。断れば幸村は表情を曇らせて去っていくのだが、次の日にはそれを忘れたかのようにまた声をかけてくる。 見張りなのにそばにいなくてもいいのかと思ったが、すぐに自分を監視する別の視線に気づいた。忍びだろうと判断し、おそらく幸村が命じているのだと考えていた。 真田家は独自に優秀な忍隊を抱えており、武田軍でも重宝されているのだという。 が幸村の誘いを断り続けているのは、自分は遠からず甲斐と戦を交える北条の人間であり、戦の前に幸村の好意に甘えるような形で甲斐国内の情報を知りたくない、というのが自身で納得している表向きの理由だ。 自分はここに諜報活動のために来たのではない、主の最後の命令、黄梅院の供をするためにここにいる。 それが、の最後の矜持だった。 そして、あまり認めたくはないのだが、うすうす気づいていること――幸村の誘いを断る理由が、もう一つあった。 「は弁丸が嫌いなの?」 室に入るなり黄梅院にそう問われて、は鼻白んだ。 「そのような、ことは。彼は、人に好まれる人物であるかと」 そう、見かけや立ち居振る舞い、主君に対する態度、どれをとっても非の打ちどころがなく、ここに来てから幸村が上田城主であることを知ったが、さぞ領民に慕われているのだろうと容易に想像できた。 彼のような人に、世の人は好意を持つのだろう。 「あら、。一般論じゃなくてあなたの意見を聞いてるのよ」 「わたしの意見、でございますか」 は言葉を探してしばし考え、 「では、黄梅院様は幸村殿をどうお考えですか。・・・・・・その、いつも幼名でお呼びですよね?」 まあ、と言って黄梅院は脇息にもたれながら笑う。 「私のは愛情表現よ?弁丸ったら今も昔と変わらずかわいらしいんだもの」 「かわいい、ですか」 「えぇ。まるで子犬のようで、ついついいじめたくなっちゃうのよねぇ」 黄梅院のこの手の笑顔には、何か底知れぬものがあるとは理解し始めていた。 大人の女性とはかくあるものなのだろうか。それとも甲斐の虎の血だろうか。 「――ていうか、話を逸らしたわね?・・・・・・ま、でもわかったわ、あなた弁丸が苦手なのね」 「・・・・・・、いえ、そのようなことは」 「間空きすぎ。あなたむずかしいこと考えるのは得意なくせに、そういうところで嘘つけないわね」 切り捨てられるように言われてしまい、は吐息した。 この黄梅院も、が今まで接することのなかった部類の人間だ。 「苦手、と申しますか・・・・・・正直に申し上げますと、よくわからないのです」 「わからない?」 黄梅院が「にやり」ともとれそうな笑顔を浮かべて、脇息に肘をついて身を乗り出す。 「何何?どういうこと?」 「・・・・・・何か、面白がっておいでですか」 「あらそんなことないわ、私としてはに楽しく過ごしてほしいだけよ?それともこの黄梅院の気遣いなんて、ありがた迷惑だったかしら」 そう言って見上げられると、なぜだか逆らえない。 一回りも年上の女性に対して、何か庇護欲のようなものが生まれてしまう。 「い、いえ、そのようなことは!黄梅院様のお心遣い、大変ありがたく、もったいないことで」 「いーからいーから。で?弁丸よ弁丸。どうなの?」 「・・・・・・その。幸村殿とわたしは、あまりに違うと思われ、彼のことがよく、わからないのです」 ずいぶんと口ごもってから、はそう言った。 何事もはっきりと、自分の意見を述べられるには、歯切れの悪い言い方が珍しい。 自分でもよくわからないのだ。 ただできれば幸村と、あまり顔を合わせたくない。 それが、幸村の誘いを断り続けるもう一つの理由。 「――納得できない理由でここまで飛ばされてきたのに、空気読まずに超笑顔で接してくる弁丸が、ぶっちゃけうっとおしいって感じかしら」 補足のつもりで黄梅院がそう言うと、は先ほどまでの困り切った様子から一変、まっすぐと黄梅院を見つめた。 「いえ、甲斐に来たのは御本城様の命によるものです。この、黄梅院様の御為にここにおり、納得できぬことなど何一つございません」 「・・・・・・いや突っ込むとこそこじゃないんだけど」 黄梅院が扇で口元を隠しながら小さく言った。 「何か?」 「いいえ、なんでもないわ。あなたほんと、そういうところはすぐに割り切るわね」 「はあ」 どう答えていいかわからずがそう言うと、黄梅院は扇を閉じた。 そして物憂げに、息を吐く。 「・・・・・・弁丸は、本当に優しい子よ。私にとっては大事な弟も同然だから、が仲良くしてくれればいいのだけれど・・・・・・」 これ見よがしに涙を拭う真似をすると、は慌てて手をついた。 「は、もちろんわたしも、幸村殿と徒に諍い合うような意図はございませぬ、尽力いたしますゆえ、なにとぞご安心くださいますよう」 「・・・・・・も相当いじめがいがあるのよねぇ」 「は?何か」 「いいえこっちの話。でもわたしはあなたの味方だから、安心して」 「はあ・・・・・・」 なんだかよくわからないが、とりあえずはそう言った。 その様子を天井裏から見ていた佐助は、あーあと思いながら頬を掻いていた。 黄梅院サマは今日も絶好調っと。 |
20120613 シロ@シロソラ |
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