第二章 第七話 |
武田信玄のもとを辞去すると、黄梅院は旅装束から着替えると言って奥向きへ向かっていった。 は当然のように黄梅院に付いていこうとしたが、「ではまず、この館の中を案内いたそう」といつの間にか戻ってきていた真田幸村に言われてしまい、黄梅院の許可も得たので、今こうして二人で館の濡縁を歩いている。 「殿。――殿と、お呼びしてもよろしいだろうか」 先を歩いていた真田幸村が、こちらに向きなおってそう言った。 その顔に、見事な痣ができており、は遠くを見るような目でそれを見ていた。 「如何様にもお呼びいただいて構いませぬ、真田殿」 「では、某のことも幸村とお呼びくだされ」 「は」 返事はしてみたものの、がこれまで名前で呼んだことがあるのは一郎と小太郎だけだ。 一郎は兄弟も同然であったし、小太郎はどこか人間離れしたところがあったから(何しろ結局一言も声を聞くことがなかった)、何か新鮮な気がした。 ゆきむら、ゆきむら、と口の中で練習してみる。 なぜだかこそばゆいような感覚があった。 「それに、我らは歳も近うござれば、そう畏まっていただかなくともようござる」 そう言って、真田幸村は笑う。 黄梅院といい、真田幸村といい、「畏まるな」とは妙な注文だとは思った。 だが甲斐君主の姫君たる黄梅院とは違って真田幸村は武田信玄の家臣であるし、北条氏政の家臣である自分と家格はそう変わらないと思われるので、彼の言うことも一理あるのかもしれない。 そう思い至って、は小さく頭を下げた。 「それではこれよりよろしくお願いいたす、幸村殿」 「こちらこそ、よろしくお願い申す、殿!!」 ばん、と真田幸村がの肩をたたいた。 「え」 完全に油断していた。 肩に感じた衝撃は予想以上で、気づいたら自分の身体が横になって宙に浮いていて、 「殿!」 とっさに差し出された手をつかむ間もなく、最後の判断で頭を庇って庭の玉砂利に突っ込んだ。 「も、申し訳ござらぬ殿!」 慌てふためいた真田幸村がこちらへ駆け寄るのが見えたが、は玉砂利に突っ伏したままぼんやりと考えていた。 さきほどの殴り合いといい。 ここはなんだか、大変なところのようだ。 「良かったんですか、大将」 幸村、黄梅院、が出て行った室内には信玄と佐助だけが残っている。 「何かだ」 「見張るとか疑うとか、旦那はそういうの向いてませんよ」 佐助の声に、信玄はうなずく。 「だろうな。だが、がまこと黄梅院の申すような人物であるならば、おそらく幸村は信頼を勝ち取るだろう」 「――なるほど、敵だったとしても味方にしてしまおうってことですか」 の存在が、北条が仕掛けた罠であるのかどうか、今のところまだ判断はできない。 だがもし罠だったとしても、その段階で幸村との間に信頼関係が築けていれば、は動きづらくなるだろうし、万一のことがあっても手が打ちやすくなる。 そういう意味では、うってつけの人選だと佐助は納得した。 「まぁ、早々に化けの皮が剥がれることもあるやもしれぬし、幸村の手に負えないようであれば、その辺はお主に任せるぞ」 「御意」 そう言い残して、佐助は姿を消す。 信玄はひとつ息を吐き、開け放った障子から覗く空を見上げた。 「・・・・・・吉と出るか、凶と出るか・・・・・・」 |
20120608 シロ@シロソラ |
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