第二章 第六話 |
あれ以来、襲撃などもなく、行程は順調に進んでいた。 さすがに輿より馬の方が速い。 驚いたのは猿飛佐助で、彼は馬を使わず木々の間を跳びながらを先導している。 たまにこちらに連絡があれば馬の横をその足で並走するので、は感心していた。 さらに甲斐に入ってからは他にも忍びが周りの木々の間を走っていると気付いた。 おそらく黄梅院の護衛なのだろうが、猿飛佐助といい、甲斐の忍びは身体能力も抜群のようだ。 「見えた、躑躅ヶ崎の館だよ」 猿飛佐助の声を聞いて、は手綱を引く。 高台から、甲斐の国、躑躅ヶ崎館とその町が見えた。 「これが・・・・・・」 大きな町だった。そして町の北側、山を背にする場所に、が見たこともないような大きな屋敷。目を細めれば武田菱とわかる旗が掲げられている。 甲斐国主、武田信玄の居館だ。 「あぁ、帰ってきちゃったわね」 腕の中で、黄梅院がどこか寂しげに言った。 大将が待ってるから、と猿飛佐助に言われ、と黄梅院は旅装束のまま、館内に通された。 小田原城のような壮大な天守閣や城壁があるわけではなかったが、躑躅ヶ崎館は立派な建物であった。そこここに美しい庭園があり、それらを眺めていたは、石垣や壁が一部崩れ修繕中の箇所があることに気づく。 戦でもあったのだろうか。 しかし甲斐の虎がその本拠地まで攻め込まれたという話は聞かない。 通された室で、黄梅院の後ろに控えて腰を下ろすと、どすどすという足音が聞こえ、平伏した。 気配だけで分かる、この威圧感。 「面をあげい」 「は、」 顔をあげるとそこには想像通り、武田信玄が腰掛けていた。 あの時と変わらず、すべてが見透かされるような目線だ。 「お父様、お久しゅうございます。この黄梅院、お役にたてずおめおめと帰ってきてしまいました」 黄梅院がそう言って、作法通りに頭を下げた。 「うむ、そなたが無事で何よりぞ」 それは娘を案じる父の顔であり、は甲斐の虎の人間性を感じていた。 「えぇ、道中危険はありましたが、このが私を守ってくれました」 「そなたが、黄梅院の供とはな。久方ぶりである」 そう言ってこちらを見た武田信玄に、は頭を下げた。 「は!先だっては無礼を働き、申し訳もござりませぬ。わたしは北条氏政が、」 以前は何も考えずとも口をついていた言葉が、喉にひっかかった。 は一度目を閉じ、そして開くと、まっすぐに武田信玄を見据える。 「――北条氏政が家臣、と申します。此度は黄梅院様の供を仰せつかりましてございます」 武田信玄もまた射抜くようにを見つめ、ひとつ頷いた。 「うむ。氏政公より、『腹心の部下』であると聞いておる。その若さで、なかなか見込みのある武士(もののふ)のようだな」 「腹心の部下」。 その言葉に、は拳を握った。何と答えていいか分からず言葉を探し、 「そうなの、このは忠義に篤い、とても優秀な武将よ。氏政公からは甲斐のお役にたつようにと申しつけられているの。ね、」 黄梅院がそう言って、背後のを振り返った。 虚を突かれたは、瞬きをし、そして頭を下げる。 「おっしゃるとおりにございます」 自分は黄梅院のためにここにいるので、黄梅院が甲斐に害を成そうとしない限りはその言葉は嘘ではない。 「――だからお父様」 黄梅院がそこで、声色を変えた。 「この関東一の漢でらっしゃるお父様がまさか、戦になったからってこのを斬って捨てたりはなさらないわよねぇ?」 冷たい刃を喉に突きつけられているかのような、声だった。 は内心、冷や汗をかく。「女性」はこのように、豹変するものであるのか。 「そなたの言いたきことはこの信玄、ようわかっておる。が、そうそうと他国の者にこの館をうろついてもらうわけにはいかぬ」 「まぁお父様、出戻りの黄梅院の言葉なんてもう信じてくださらないのね」 さめざめと、黄梅院が泣き出した。 「こ、黄梅院様」 がうろたえて声をかける。 そのようにおっしゃっていただかなくとも、自分はたとえこの場で手打ちになっても・・・・・・それははなにも言われたことだし少し困るのだが、とにかく疑われることは覚悟の上だった。 黄梅院の涙に、武田信玄も驚いたようだった。 「な、なに、この父がそなたを疑ったりなどするはずがなかろう」 そばに控えている猿飛佐助だけが白い目でこちらを見ていることを、も武田信玄も気づいていない。 「殿がどのような者であるかを真に確かめるため、――む、あやつはまだか」 武田信玄がそこで言葉を切り、室内を見回す。 「さきほど呼びに行かせましたんで、もう来るかと」 猿飛佐助の返事にかぶさるように、足音が近づいてきた。 「――遅れて申し訳ございませぬ、ぅお館さまぁッ!」 開け放していた障子の前、駆けてきた男がその場で膝をついた。 「あら弁丸、大きくなったわねぇ」 「黄梅院様?」 涙はどこへ行ったのか、ころりと笑って見せた黄梅院に、は思わず声をかけてしまった。 そして現れた男へ視線を移す。 「おお黄梅院様!お懐かしゅうございます!某元服いたし、幸村と名乗っておりまする!」 平時であるからか、あのときの奇抜な装束ではなかったが、やはり緋色の着物を着ている。 真田、幸村。 「あらそう弁丸。私出戻ってっ来ちゃったから、またよろしくね」 「ぅ、だから某のことは幸村と、」 「そうそう弁丸、相模で評判の団子を買ってきてあるから、あとであげるわ」 「まことでございますか!」 どう考えてもわざと「弁丸」呼ばわりしている黄梅院に一喜一憂している姿はまるで子犬のようだとは妙に冷めた心で思った。 先だっての桶狭間で見せた表情といい、が接したことがない部類の人間である。 妙な、男だ。 「あまり幸村をいじめるでないぞ、黄梅院」 見かねたのか武田信玄が割って入った。 「幸村よ」 「はッ」 声をかけられてがばっと平伏した真田幸村に、武田信玄が告げる。 「そなたも存じておろう、北条の殿だ。しばらくの間、そなたを付ける。甲斐の様式など慣れぬこともあるだろうから色々と教えてやるようにな。――殿」 「は」 「存じておられるとは思うが、これは儂の腹心、真田幸村と申す。そなたに付ける故、何かわからないことなどあれば遠慮のう申されよ」 「は、ご配慮、痛み入ります」 そう言って、は平伏した。 「幸村よ、我が武田は北条との同盟を破棄することと相成ったが、殿は黄梅院を危機から救った恩人である。客人としてよくもてなすようにな」 真田幸村はそう言われ、床に打つのではないかと思うような勢いで頭を下げた。 「はッ、この幸村、承知いたし申した!」 「うむ、頼んだぞ幸村ァ!」 「お館さまァ!」 ――え? 「幸村あアァァ!!」 なぜか二人は立ち上がり、 「ォお館さまあァァ!!」 互いに拳を握り、 「ゆぅきぃむぅらアアァァ!!!」 武田信玄の拳が、まともに真田幸村の顔をとらえた。 轟音。 「・・・・・・え?」 が目を丸くするその先、真田幸村は庭まで吹き飛んで、石垣に激突した。 石垣にはヒビが入り、ぱらぱらと小石が落ちる。 今、真田幸村は、なにか武田信玄の逆鱗に触れるようなことを言ったのだろうか。 が見た限り、そのようなことはなかったと思うのだが。 真田幸村は石垣から立ち上がると、一足飛びで室内に戻り、 「ゥォおやかたさむぁァァァ!!!」 主君の胴に、その拳を叩き込んだ。 今度は武田信玄が、襖を盛大に壊しながら吹き飛んでいく。 「まぁ、相変わらずなのね」 黄梅院が呆れたように嘆息し、猿飛佐助は指で顔を掻いていた。 「ったく、直す方の身にもなってほしいよねぇ」 言っている間に武田信玄が戻ってきて、そのままの勢いで真田幸村の首に肘をかける。 「ゆきむぅらアァァァ!!!!」 もしかして、先ほどからあちらこちらで見かけた石垣や壁の崩れた箇所は。 なんだかものすごいところに来てしまったのかもしれない。 は吹き飛んで行った真田幸村を目線だけで追いかけながら、そう思った。 |
20120608 シロ@シロソラ |
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