第二章 第四話 |
小田原城を発って数日、たちは甲斐との国境に近いところまで到達した。 今は、相模国内での最後の休憩をとっている。 水筒の水を口に含んでいると、輿を担いできた兵士たちと目があったが、すぐに逸らされてしまう。 「・・・・・・」 出発以来この調子で、彼らはほとんどに声をかけてこなかった。こちらも何もなければ話しかけないので、休憩中はずっと無言だ。 御本城様に捨てられた家臣――そう思われているらしく、どう声をかけていいのかわからないのだろうとは理解している。 甲斐の国に入れば、輿は甲斐の兵士が持つことになっており、彼らの役目はあと少し、国境までであったから、このまま彼らとなんら会話をしないまま別れてもそう問題はないと思っていた。 それより、と地に置かれた輿へ声をかける。 「黄梅院様。お身体、おつらくはございませぬか」 輿の窓より、黄梅院がそっと顔をのぞかせた。 「大事ないわ。こそ疲れているでしょう、甲斐までまだ遠いと思うけれどよろしくね」 「もったいないお言葉です」 頭を下げると、ころころと小さな笑い声が聞こえた。 「もう、そんなに畏まらなくていいって言ってるのに」 黄梅院はより一回りほど年上である。高齢の氏政とは、ずいぶんと年の離れた「お方様」と顔を合わせたのは、小田原城を発つときが初めてだった。氏政との祝言のときはまだ家督を継ぐ前でその席には出席しておらず、その後黄梅院が表に出てくることがまずなかったからだ。 その名が示す梅よりも、花にたとえるなら桃に近いとは思っている。冬の終わりを告げる花のような、あたたかな笑みを浮かべる、華やかな美人だ。 政治的な理由で結婚させられ、そして離縁を言い渡されたのに、そうした事情を一切表情に出さず、逆にが気遣われてしまって恐縮したのも記憶に新しい。 「お父様へは、を手打ちになどされないよう、私からよくよく申しあげるわ。だからご安心なさいね」 出会いがしらにそう言われて初めて、はこのまま甲斐に赴けば、自らの身に保障がないのだと思い至った。 甲斐が相模と開戦すれば、黄梅院はともかく自分は甲斐にとって敵国の人間となる。いつ切り捨てられてもおかしくはない。 だがそれも、些末なことであった。相模を守れない自分に、生きている価値があるとも―― 「あ。また暗いこと考えてるでしょう?」 黄梅院の声で我に返った。 「あ、いえ、そのようなことは」 「ごまかしても駄目よ、私にはわかるんだから。気持ちはわからなくもないけど・・・・・・、それよりこの先のことを考えたほうがきっといいわよ」 甲斐は、とてもいいところなんだから。 黄梅院はそう続けた。 「左様で、ございますか」 ――と。 は、異変に気付いてぴくりと眉を動かした。 「?」 「静かに」 雰囲気を察した黄梅院が声をかけるも、短く遮る。 何だ。 風の音をきく。鳥や、動物の鳴き声がない。木々の僅かな葉擦れの音、 「――伏せろ!!!」 自らも地に這うように伏せ、その頭上を空気を裂く音が走り、「え」とこちらを見た兵士たちがばたばたと倒れた。 目を細める、輿の担ぎ手四人の眉間に突き立っているものは、クナイだった。 ――忍び! 左手を刀の鯉口にかけ、意識を音と気配に集中する。 三、いや四人か。 「何処の忍びか!」 誰何の声をあげると、じわりと滲むように、木々の間から黒装束の忍びが姿を現した。気配通り、四人。 その額の鉢がねに刻まれた家紋に、は目を見開く。 「三つ鱗、だと・・・・・・!」 それは、北条家の家紋。 「お前たち、わかっているのか!我らは北条家の者であるぞ!!」 現れた忍びたちは無言でそれぞれ武器を構えている。 も北条家の忍びは何人か見たことがあるが、この場にいるのは皆知らない顔だった。 あるいは、北条を騙る偽物であるのか。 判断している暇はない。 兵士たちを殺した以上、目の前にあるのは敵だ。 予備動作のまったくない動きで、は地を蹴り、最も近くに現れた忍びの喉元に、抜いた刀の切っ先をねじ込んだ。 「なっ!?」 忍びの一人が驚いたような声を上げる。 一挙動では刃を引き抜きながら、やはりこれは北条の忍びであるかと冷えた頭で考えていた。 有能な忍びは、仲間がひとり殺されたくらいで動揺などしない。 刺した忍びが倒れるのを見ずに振り返ると、残りの忍びが輿に近寄るのが見えた。 「――ッ!」 風に乗って忍びたちより速く輿の元に着地、その勢いのまま木製の輿に太刀を浴びせる。 ばらりと崩れる輿に左手を突っ込み、黄梅院の腰をつかむように抱き寄せ、 「御免!」 できる限り木っ端が黄梅院に当たらないように庇いながら跳んだ。 その直後、輿に無数のクナイが突き刺さり、輿は瓦解する。 は着地と同時に左腕で黄梅院を抱えなおした。 その腰は細くて、柔らかい。おなごの身体だ、と思った。 忍びが一人、こちらに近づいてくるのが見える。 「目を、閉じていてくだされ」 小さく言うと、さすがは武家の姫君というところか、黄梅院はにやりと笑い返して見せた。 「大丈夫、私のことは気にしないで」 口元の笑みだけで返事をして、重心を下げる。 突っ込んでくる忍びの持つ忍刀に意識を集中する。小さな風の渦がそこに発生し、正確にの身体を狙っていた切っ先が風に押されてわずかにずれる。 「!?」 身体を反転させて驚愕に目を開く忍びの背後をとり、の刀は躊躇なくその首を薙いだ。 ――これで二人・・・・・・いや、 新たに複数の気配、忍びが現れた。十まで数えて、数えるのをやめる。 「・・・・・・」 黄梅院の声。 狙いは、黄梅院だろうか。でも、なぜ。 「私たちはもう、いらないってことかしら」 黄梅院も、忍びの鉢がねに刻まれた紋に気づいているようだった。 その声は、どこか平坦な響きだ。 「黄梅院様」 そうっと、黄梅院の身体を降ろす。 この人数が相手では、さすがに黄梅院を抱きかかえたままでは立ち回れない。 じりじりと忍びたちが近づいてくる。 は一度刃に付いた血を振り払うと刀を鞘に納め、腰を落とす。 考えている余裕はない。 甲斐の国境は近い、そこまで行けば甲斐の兵士がいるはずだ。 「わたしが突破口を開きます。この道をまっすぐ行けばすぐ国境、そこまで走れますか」 「何言ってるのも一緒に来るのよ」 「わたしはあとから追います」 黄梅院の身に傷一つつけてなるものか。 は忍びたちの動きを目線だけで追う。 最初に近づいた者から、殺す。 そう決めて、 「はいはいそこまで〜」 場違いに緊張感のない声色とともに、の前にクナイが降り注いだ。 |
20120606 シロ@シロソラ (20120619 一部修正) |
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