第十三章 第十二話

 御館が焼け落ちて数日、事態は流れるように進んで行った。
 ここまでをすべてを見越していたということなのだろう、景勝の手腕は見事の一言だった。あれよと言う間に上杉と武田の同盟は正式に成立し、それと同時に進められた此度の乱の仕置きにより、景虎方に与した家臣たちのうち乱を生きのびた者は所領替えなどを言い渡され、春日山から遠ざけられることとなった。恩賞を多く与えられたのは直江兼続など景勝方だった上杉家の家臣や景勝の直臣たちで、彼らが春日山を、上杉中枢を固めることで、上杉の次代としての景勝の立場はいよいよ盤石となっていった。
 そのなかで、景勝と菊姫の祝言は執り行われた。
 甲斐から運び込んだ嫁入り道具は兄勝頼が選んだもので、どれも菊姫によく似合っていた。甚八からあの日の菊姫の様子を聞いていた幸村は彼女の心持を案じていたのだが、白無垢に身を包んだ花嫁はわずかな涙も見せなかった。所作のひとつひとつは洗練されて美しく、武田宗家の姫君に相応しい気高さを感じさせた。対する景勝も終始穏やかながら乱に巻き込まれた菊姫を気遣っていて、ふたりの並ぶ姿に参列者たちは良家の末永い安泰を見たのだった。
 ――『大変な手間をかけてしまい申し訳ありませんでした、幸村どの』
 祝言の前日、そう言って菊姫は幸村に頭を下げた。幸村のことを「源二郎兄様」とは呼ばなかった菊姫のその顔は、幸村が知る幼馴染の女童(めのわらわ)のそれではなく、どこか大人びた、――まるで知らない女性(にょしょう)のようだった。その表情が、いつまでも幸村の心に残る。
 乱の折りに何事かあったのかわずかの間機嫌悪そうにしていた佐助も、すぐさまいつもの調子を取り戻し、菊姫の晴姿を褒めつつ「旦那のときは俺様泣いちゃうかもー」などと常のような軽口を叩くに至っていた。
 すべては、滞りなく進んでいく。
 北国の雪に閉ざされた世界で、周りのすべてが流れていくのを、幸村はただ見つめることしかできなかった。










 上杉謙信に目通りが叶ったのは、年が明けてしばらくたった頃だった。
 案内されたのは春日山城本丸の庵で、幸村は謙信と向かい合って座している。
 佐助は先ほど謙信のくのいちと言い争いをして、しばらくの間庵の外から剣呑な物音が聞こえていたが、収まったのか場所を変えたのか、今は静かだ。
「・・・・・・」
 挨拶の後、謙信はまだ口を開いていない。幸村も同じで、ふたりの間には静寂だけが漂っている。
 久方ぶりに眼にした謙信の姿は、記憶のそれと何ら変わってはいなかった。戦装束を解いていても感じる鋭い気配、それを隠さずしかし静かな表情、どれをとってもかつて川中島で見た軍神のそれと同じものだ。
 幸村はといえば、挨拶の後にわずかに下げた視線を、謙信と合わせられずにいた。
 師・信玄とこの軍神は違う、わかってはいても、謙信の視線にはどこかかの虎のような力があって、全てを見透かされるような気がするのだ。
 ――武田の家を背負ってこの越後を訪れたというのに、何一つ自分では選ばず一方的に景勝に加担してしまった、その不甲斐なさをすべて。
「・・・・・・たけだのわかだいしょう」
 謙信が口を開いて、幸村ははっと顔を上げた。
「かわらずのぶゆう、ききおよんでおりますよ。せんだっては、きへいじをたすけていただいたと」
 景勝の通称を聞いて、幸村は眉根を寄せる。
「・・・・・・上杉殿は、これでよかったのですか。養子とはいえお子を、・・・・・・景虎殿を、あのようなかたちで」
「それがきへいじと、さぶろうのえらんだみちならば」
 どこか非難じみた声が出てしまったが、それを意に介した様子はなく、ただ謙信は淡々と答えた。
 その返答を聞いて、幸村は口を噤む。
 景勝の人となりを見誤ったとは思っていない。上杉の家の安泰の為、その義の為に生きる景勝の姿は、躑躅ヶ崎で勝頼に報告したものと何も変わってはいなかった。事実いまだ混乱の残る家中を、彼はよくまとめている。一門の間に色濃く残っていた諍いは、多少そのやり方が強引であっても、結果的には景勝のもと沈静化しつつある。
 そう、結果を見れば、何を誤ったわけでもないのだ。
 仮に、事前に上杉景虎が如何なる人物であるか知り得たとして、景勝のやり方に口出しできただろうか。武田が同盟相手にと決めたのは景勝なのだ、幸村の一存でその同盟が揺らぐようなことをできたのだろうか。上杉の一門の争いに、過去に人質として身を置いたことがあるとはいえただの部外者である幸村が、いったい何をできただろう。
 だから、誰も幸村を責めたりしない。佐助はいつものように軽口を叩いているだけだし、武田の他の者たちも、幸村の武功を褒めこそすれ責めることなど口にしない。菊姫ですらそうだった。
 ・・・・・・それでも。
 ぎりりと、膝の上で拳を握る。
 その幸村の様子を見つめて、謙信はゆっくりと瞬きをした。
「おまえはもっともそばにいながら、あのおとこのなにをみてきましたか」
 あの男――、甲斐の虎・武田信玄の何をみてきたのか。
 幸村は一瞬眼を見開いて、そして伏せた。
「いいえ、・・・・・・見ておりませんでした」
 あるいは「見ていた」と言えるとすれば、それは信玄の背であったかもしれない。大きく広い背の向こうに何があるのか、自分は見ようとしたことがあっただろうか。
 謙信はどこか平坦な声色で、続けた。
「なにをまなびましたか」
 幸村は首を横に振る。
「いいえ・・・・・・学びませんでした」
「では、なにをしてきましたか」
「いいえ・・・・・・ッ、ただただ、後ろをついて行こうとしたのみにございまする・・・・・・ッ!」
 握りしめた拳が、袴に皺を作る。
 喉の奥が痛む気がする。
 謙信の一言一言が、心の臓に突き刺さる。
 誰よりも、師の傍に在りながら、自分はいったい、何をしてきたのか。
 毎日のように拳と拳を合わせながら、師の意図するところを何かひとつでも、汲み取ってきたのだろうか。
 ・・・・・・お館様ならば、此度のお家騒動を、どう見たのだろう。
「・・・・・・ッ、」
 ぽたりと、拳に水滴が落ちて、それが己の眼から落ちた涙だと気付いて、幸村は我に返った。
 ぐいと目元を拳で拭う。鼻の奥が痛い。
「・・・・・・わかきとらよ」
 謙信は声色を変えない。
「おのれをはじなさい。それがせいちょうのかてとなりましょう」
 己を恥じる。幸村は何か言おうと口を開いて、しかし声は喉に引っ掛かって出て来ず、ただ頷いた。
 恥ずかしい。情けない。不甲斐ない。その思いが心の臓を握りつぶすようだ。
「そして、おのれをほこりなさい」
 謙信の声色が、変わった。
 そのバサラのような、どこまでも透明な氷のようだった声色が、仄かに温かみを帯びたそれへと。
 幸村が顔を上げると、謙信は頷いて見せる。
「かいのとらがたけだをたくしたのは、おのれであると。それを、ほこりなさい」
「し、しかし・・・・・・」
 このような不甲斐ない自分を、どうして誇れるのだろう。
 言いよどんだ幸村に、謙信は静かに、しかしどこか優しく、言う。
「よいですか。かいのとらはおのれをしんじたおとこ。・・・・・・おまえもそれを、みならうのです」
「己を、信じる・・・・・・」
 鸚鵡返しに呟く幸村に、謙信は「そうです」と答え、己の胸元に手をやった。
「いくどもけんをまじえたとらのたましいは、このむねのうちにもいきづいています」
 そして、その手を幸村へ向ける。
「そしてもちろん、おまえのうちにも。・・・・・・そうですね?」
 差し伸べられた手と、謙信の顔を、幸村は交互に見やる。
 己の内に、虎の魂が。
 ・・・・・・在るのか、本当に?
 その問いに、幸村は答えることができなかった。







 謙信の元を辞した後、自室に戻った幸村は、広縁から雪の降り積もった庭を見ていた。
 今日は雪が止んで、陽も差している。その光を反射して、雪がちらちらと輝いていた。その輝きが、かつての光景を脳裏に呼び起こす。
「・・・・・・風花(かざはな)、だったな」
 風に乗って舞い上がった雪が、日差しを受けて輝くさまを思い浮かべて、呟く。
 ちょうど昨年の、年の明けたころだった。自らの風で風花を見せてくれたが、まだどこかぎこちない笑みを浮かべて言ったのだ。
 ――『来年も一緒に見よう』
 その約束は叶わなかったなと、幸村は白い息を吐きながら思う。
 あれから自分は、何か変わったのだろうか。何かを為してきたのだろうか。
「・・・・・・己を、信じよ」
 謙信に言われた言葉を、その響きを確かめるように、声に乗せる。
 言われて初めて気づいた。
 それほどまでに自分自身を信じたことが、幸村にはなかったのだ。
 ・・・・・・ただお館様のあとをついて行けば、よかったから。
 わかっていたはずだ。信玄はもういない。自分がしっかりしなければならないと、そう思って。だが、
 ・・・・・・まったく、わかっていなかった。
 信玄が、甲斐の虎が己に託したのは、何だったのか。
 己のなかに、虎の魂は、在るのか。
 ――『幸村よ』
 ――『虎の、魂。確かに、伝えた、ぞ』
 師の最期の言葉を、思い出す。
 そうだ。信玄は己に伝えたと言ったのだ。
 ならば。
「・・・・・・!」
 その考えが、幸村の脳裏に閃く。
 此度の一件、確かに幸村に選択肢はなかったのかもしれない。もう一度やり直せたとしても、結果は変わらないかもしれない。
 だが、許せないのだ。
 自ら選ぼうとせず、何一つ抗わなかった己が、許せないのだ。
 その、意志こそが。
「虎の、魂・・・・・・!」
 たとえ物事の流れが決まっているとしても、ただその流れに身を委ねるのは、――戦わずして諦めるのは、師の教えに非ず。
 ぐっと拳を握り、その拳を己の胸元にあてる。
 此処に、確かに、在るのだ。
「――あ。なんかふっきれそうな感じ?」
 声がして、幸村は視線を上げた。
「佐助」
「いやー、なんだかずっと湿気た顔してたからさァ」
 軒先からひょこりと、佐助がさかさまに顔を出す。
「・・・・・・心配をかけた」
 幸村がそう言えば、さかさまのまま佐助がぱちりと瞬きをした。
「え、どしたの大将。やっぱりまだ凹んでンの、そんな殊勝にしちゃって」
「・・・・・・やはり前言撤回する」
 むすりと言い返すと、佐助はへらりと笑う。
「あっれー、男が一度言ったことを翻しちゃっていいのー?」
「・・・・・・それで、いかがしたのだ」
 不機嫌を隠さずに言って、幸村は立ち上がると室内に入る。
 背後に佐助が降りてきた気配、「ごめんごめん」と軽い口調で詫びを入れられたが無視して幸村は上座に腰を下ろした。
「いや、これから鎌之助に文出すけどちゃんに伝言ある?」
 膝をついた佐助に問われて、幸村は少しの間思案する。
「・・・・・・は、景虎殿のことを知っておったのだろうか」
「さあ、どうだろ。景虎サンが武田から北条に戻った時期は、ちゃんも家督を継いだ後だし、小田原で顔くらいは合わせたことがあるかもしれないよね」
 佐助の返事に「うむ」と頷いて、幸村は口を噤む。その表情を窺うように、佐助は言った。
「何かしらちゃんに言い添えとく?」
「・・・・・・いや、よい。必要な事実のみ、伝えておいてくれ」
「いいの?」
「ああ。どちらにしろが景虎殿のことをどう思っていたかなどわからぬし、何ぞ気に病ませるようなことになってもいかん」
「ま、それはそうだね。あの子わりかし気にしいだし」
 了解、と軽く答えて、佐助は姿を消す。
 ひとり残った幸村は、開けたままの障子と木戸の向こうに見える雪景色に視線を流した。
 もう少し雪が少なくなれば、街道が通れるようになる。そのころには此処を出立し、まずは甲斐へ戻らなければならない。
「・・・・・・今年は、大きく動きそう、だな」
 春が蠢く、その音が聞こえるような気がして、幸村は眼を伏せた。



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20140411 シロ@シロソラ
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