第十三章 第十三話

 年が明け、大坂でも真冬の寒さがわずかながら緩みつつある。
 今日も今日とて裁縫の練習に精を出していたは、鎌之助の報告を聞いて、縫っていた布を置いた。針に糸を通すことはできるようになったが、縫い目が均等にまっすぐと進まない。なんとなれば「ハ」の形になってしまう縫い目が並ぶと、笑われている気がして仕方がない。そうなるとだんだん顔に表情が無くなってくるに、時折淀が声をかける。曰く「顔、怖い」。武家の正室とは奥を取り仕切る長であり、侍女たちの取り纏めもその責務のひとつだ。無駄に愛想を振りまく必要はないが、不必要に不快にさせることもしてはならない。何度も言い聞かされているその理屈は理解しているつもりだが、それにしても「怖い」とはいったいどんな顔をしているのだろう。
 ・・・・・・それは置いておいて。
 は針と布を淀へ渡すと、鎌之助に向き直った。
「お家騒動と言ったが、幸村殿は御無事なのだな?」
「っす。上杉景虎が謀反を起こして、景勝に討たれたらしいっす」
「そうか・・・・・・、」
 三郎様が、そう独りごちるように呟くに、鎌之助は頭を掻きながら言った。
「前の文、やっぱ向こうに届いてなかったみたいっす。長から返事が遅いってお叱りもきてまして」
 言いながら、鎌之助はの様子を窺っているようだった。以前上杉景虎、――北条三郎とは如何なる人物であるのかと佐助から問う文が来た折に、が答えた内容を覚えているのだろう。は気づいて、「気にするな」と小さく笑ってみせる。
「そういう世なのだ。三郎様もきっと、満足のゆくように意を翻し、そして討たれたのだろう。・・・・・・鎌之助、前回の文だがやはりまだ返してなかったことにしてはくれないか」
「え?」
「幸村殿のお耳には、入れない方がいいだろう。三郎様を私が悪く思っていなかったと知れば、気にやまれるやもしれぬ」
「それは、そうっすけど」
 歯切れの悪い鎌之助の返答には眉を動かした。
「・・・・・・そうだな、佐助に嘘を言えというのは酷だな。すまない」
「っいや、その、」
「構わない、いつものようにしておいてくれ。幸村殿に伝えるか否か、そのあたりは佐助が判断するだろう」
「・・・・・・すんません」
 肩を落とした鎌之助に「謝るな」と言ってやってから、は縫いかけの布地に視線を動かした。
 まだまだ本番を縫うには心もとないので練習用に端切れを使っているのだが、今日の端切れは鮮やかな紅の色だった。本番もきっと、緋色や紅の布を縫うのだろう。夫の着物を縫うのも、奥方の務めである。
 ――その日はそう、遠くない未来なのかもしれない。
 何はともあれ上杉との同盟が成った。これで関東の要としての甲斐武田は安泰だろう。西国の国々は義父・吉継が色々と手を回しているらしいが、続々と豊臣傘下に下る見込みだと聞いている。豊臣の、――石田軍の足場固めも仕上げに近づいている、それはつまり、徳川との決戦も近いということだ。
「・・・・・・春が、くるわね」
 の心情を読んだのかどうか、淀がぽつりと言った。
 春が来る、――世が流れる、はその気配を感じて、「そうだな」と答えた。
 









 それから幾日かが過ぎ、雪解けの水の流れが聴こえてくるようになったころ、武田家の特使団は春日山を出立する日を向かえていた。
 旅装を整えた幸村は、挨拶のために景勝と対面していた。
「此度のこと、幸村殿は本当によくやってくれた。上杉はこの恩を忘れはせぬ」
「ありがたきお言葉、我が主にも伝えまする」
 頭を下げた幸村は顔を上げると、景勝の傍らに腰を下ろす菊姫に顔を向けた。
「姫様、・・・・・・いえ、お方様も、どうかお元気で」
 祝言の席で名門の姫君の教養と気品を感じさせた菊姫は、早くも上杉家中の者たちから「甲斐の方」と呼ばれ、下にも置かない扱いを受けている。婚儀の後は奥に居を移した菊姫と顔を合わせることはなかったが、佐助によれば奥の務めをしっかりとこなしているらしい。
 菊姫は幸村へ視線を向けると、微笑んだ。
「ええ、幸村どのもどうかご壮健で。兄にもよくお伝えください」
「必ずや」
 やはり、菊姫にかつての、甘え上手だった末姫の面影はない。穏やかに笑む様子はまさに、越後の龍の家の奥方に相応しいものだった。
 ――結局、菊姫が景虎をどのように想っていたのか、それを幸村が知ることはない。
 悪く思ってはいなかったことは確かで、だからこそ乱の折には心を痛めていたと甚八から聞き及んではいる。だがその真相を知るのは、景虎がいない今、菊姫ただひとりだ。
 そして当の菊姫はあれ以来、ひとつの泣き言も言わず、すべて自身の心に留めているようだった。
 きっとそれが、彼女の覚悟。
 甲斐の虎の血は、ここにも受け継がれているのだと、幸村は理解する。
 目の前の、新婚のふたりは誰の眼にも幸せそうだ。ならば自分は、何も言うまい。







「・・・・・・私を、お恨みではありませんか」
 幸村が出て行った後、しばらくのあいだ黙ったままだった景勝は、ふいにそう言って菊姫を見た。
 菊姫は小さく首を傾げる。
「わたくしが、貴方様を?何故?」
 景勝の意図するところが本当にわからない、そのように感じ取れる菊姫の様子を見つめて、景勝はわずかに眼を細める。
「・・・・・・成る程、それがあなたの義なのですね」
「・・・・・・」
 菊姫は口を噤んだ。景勝の真意を探っているのかもしれない。
 その菊姫の方へ身体を向けると、景勝は穏やかに笑んだ。
「ならば私は、あなたを二度と悲しませないと誓いましょう。それが上杉の家を、――家族を守る、私の義です」
 その言葉を聞いて、菊姫は驚いたように瞬いた。
 そして、笑う。
 子どものような、真っ新(さら)な笑顔ではない。
 言うなれば、痛みを知る者の笑みだ。
「幾久しく、よろしくお願いいたします」
 そう言って、菊姫は指をついて頭を垂れる。
 ふたりの間を、春を告げる風が吹き抜けていく。










 まだ雪の残る街道を、武田特使の馬は進んでいく。
 身の凍るような寒さが綻ぶのはまだ先だろうが、陽の光もずいぶんと柔らかくなった。
 掌で庇を作るようにして、馬上の幸村はその日差しに眼を細める。
 ・・・・・・確か、あのときもこんな陽が差していた。
 思い出すのは父が死に、人質として身を置いていた越後から戻されたときのことだ。
 迎えに来た使者は、信州を素通りして甲斐・躑躅ヶ崎の信玄のもとへと幸村を連れて行った。
 ――『そうか、貴様が弁丸か』
 初めて相対した武田信玄は、幸村がそれまでに見た誰よりも、大きな男だった。
 ――『なるほど父によう似ておる』
 そういって笑う男がどういう人物であるのか、判断しかねた。父・昌幸が死んだとはいえ兄が存命なのだから真田の家はまだなくなってはいない。なのに何故、この男は自分を引き取ると言って、そして謙信はそれを何故承諾したのだろうか。
 ――『・・・・・・真田源二郎幸村、と申しまする』
 とりあえず、「弁丸」と呼ばれたので正しい名を名乗ってみる。
 ――『うむ、聞いておる。まだ元服の儀もすませておらんとな。早急に手配しよう』
 ――『・・・・・・一体、何故』
 わけがわからなかった。どうせ父との、真田との縁は切れているのだ。そうでなくとも弱小豪族の次男坊なのだ、放っておいてくれればよかったのに。
 ふむ、とひとつ頷いた信玄が、おもむろに拳を握り、
 がん、とかごん、とかいう音が、聞こえた気がする。
 気づいた時には幸村の身体は中空に放り出されていて、広縁を過ぎて庭の玉砂利に突っ込んだ。
 ――『!!??』
 何が起こったのか理解できなくて、痛いというよりも驚きで身が竦む。
 なんとか玉砂利から顔を上げれば、広縁に仁王立ちした信玄がこちらを見下ろしていた。
 ――『儂の真意を知りたくば、殴り返してみせぃ』
 ――『・・・・・・は・・・・・・?』
 信玄が何を言ってるのかわからない。殴り返すとは。
 こちらの混乱を見透かすように、甲斐の虎は笑って見せた。
 ――『貴様はこれより、武田の将である。儂のことはお館様と呼ぶように』
 思えばあれが、始まりだ。
 殴り返すようになるのにはそう時間はかからなかったが、こちらの拳が信玄の身体に当たるようになるまでには相当の時間を要した。
 ・・・・・・あれから、俺は。
 次代の虎たらんべく、修練を積んできた。
 だが、己のあるべきは、「次代の」虎ではなくて。
「――どーしたの、ニヤついちゃって」
 傍らからの佐助の声に、幸村は「ああ」と笑って言う。
「そういえばお前に会ったのも、あの年だったな。夏の終わりだったか」
「は?」
 春日山から躑躅ヶ崎に連れられてきて半年足らずがたったころだった。その頃幸村は躑躅ヶ崎と上田を行き来する生活をしていたのだが、その日は上田の城を抜け出して戸隠の森に足を運んでいたのだ。躑躅ヶ崎では信玄が眼に掛けてくれるとはいえ他の家老方が面白くなさそうな顔をしていたし、上田の城には相変わらず居場所がなくて、幸村の楽しみと言えば森に出て生きものや草木を眺めることだったのだ。
 その日、うっかり縄張りを荒らしてしまったことで猪に追いまわされていた幸村を助けたのは、木々の間を自在、に飛び回る
 ・・・・・・赤毛の、猿かと思った。
 まるでそこだけ季節を間違えた木が葉を染めてしまったのかと思うような、鮮やかな夕陽の色の髪をした少年だった。
 木の枝からこちらを見下ろす、その双眸が驚いたように丸くなっていたのを、幸村はよく覚えている。
「ちょっと旦那?」
「ああ、すまぬ。古いことを思い出していた」
「何ソレ」
 並走する佐助が呆れたような顔をするの見て、幸村は笑み交じりの声で言う。
「いやなに、名を与えるなど大それたことを俺もしたものだが、お前もよう素直に名乗る気になったな」
「だから何が」
「猿飛」
 その言葉に引かれるように、佐助がこちらを見上げる。
 草鳶色の双眸が驚きに見開かれている。ああ、あのときの表情だと、幸村は思う。
「べっつに、どうせ他になかったし、語呂もよかったからさ」
 拗ねたようにそう言って、佐助は姿を消す。
 なんだ照れたか。そう考えながら、幸村は視線を前へと戻した。
 北国街道を一路南へ、信州へと続く道則を、見据える。
 ・・・・・・あれから、ずいぶんと長い月日が過ぎた。
 毎日毎日直走った、あっという間の月日だったと思う。
 その中で培ったもの。
 手綱を握る拳に、力を籠める。
「皆、躑躅ヶ崎ではお館様が我らの報告をお待ちだ、急ごうぞ!」
 背後を振り返って声を上げれば、続く将兵たちから「応」と返ってくる。
 その様子を満足げに見てから、幸村は馬の腹を蹴る。
 己は、まだまだ未熟だ。
 だが、この胸には。
 ・・・・・・俺は、強くなる。
 街道を、馬の蹄の音が響いて行く。
 その先頭を駆る幸村の口元には、笑みが宿っていた。



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20140411 シロ@シロソラ
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