第十三章 第十一話

 春日山にて騒乱在り。
 その一報は佐助から躑躅ヶ崎館に詰める才蔵に伝わり、勝頼や周辺の者たちの耳にも届くところとなっていた。
「やはり上杉との同盟は無理があったのだ、幸村殿お一人では荷が勝ちすぎる。一度退いて情勢を見極めるべきではないか」
 どすどすと床板を踏み鳴らす音に気付いた下男や庭師たちが遠巻きに見つめる中、広縁を行く勝頼に追いすがるように話しかける一人の男の姿がある。
「これは最早越後だけの問題にあらず、甲斐にも飛び火するかもしれませんぞ!」
 線の細い勝頼に比べれば、がっしりとした体格の武者然とした男だ。いかにも槍働きが得手であるというような恰好(なり)は、武田の最強騎馬隊を指揮するにもうってつけであるような風格を漂わせている。
 唾すら飛びそうな勢いで男は話しかけるのだが、勝頼に歩みを止める様子は無い。この距離で聞こえていないはずはなかろうが、仏頂面を一寸たりとも変えずに広縁を進んでいく。
「だから上杉と手を結ぶなどやめればよかったのだ、あのようなきな臭い輩どもと同盟などと、――四郎殿!」
 ぐっと拳を握った男は、勝頼の背が遠くなっていることに気付いて慌てたように駆け寄る。
「聞いておられるか!?菊姫の御身に何かあってからでは遅いのだぞ!」
 その言葉に反応したのかどうか、勝頼がぴたりと歩みを止めた。勢いでぶつかりそうになった男が「うおっ」と上体を逸らす。
「――まず、兵を退く必要は無い。多少の荒事には耐えうる備えをさせているし、真田幸村は為すべきを為すと、私は考えている。そもそも真田に関しては、貴様の方が買っているのではなかったか」
「戦場での働きならば、幸村殿の右に出る者はおりますまい。だが此度は単なる戦ではござらぬ!」
「菊は末子ゆえ多少甘いところもあるが、肝心のところは誤らぬ」
 男の言葉を無視して勝頼は続け、それに眉を跳ね上げた男は我慢ならぬとばかりに口を開こうとして、
「控えよ、彦六郎」
 ぴしゃりと勝頼が言い放った。
「先ほどより聞いておれば、貴様誰に物を申しておるか」
「何・・・・・・!?」
「武田の棟梁は私である。いかに我が従兄、そして姉上を娶っているからとて、貴様は一門衆のひとりに過ぎぬ。分をわきまえよ」
「・・・・・・っ」
「上杉との同盟、ならびに菊を上杉景勝へ娶らせることについては、すでに評定(ひょうじょう)にて決したものである。覆したいと言うのなら、相応の考えを用意して評定を開くがよい、このような場で無駄口を叩いている暇があるならな。私は無能は好かぬ、一門衆とてその立場が盤石であるなどとゆめゆめ思うな」
 そこまで言って、男の返答も聞かずに勝頼は踵を返した。
 言葉を失った男は一瞬の自失から脱すると、顔を真っ赤にして遠ざかる勝頼の背を睨んだのだった。










 視界をまるで矢のように、木々が横切っていく。
 もう御館は見えない。それでも菊姫は足掻くのをやめていなかった。
「待って!ねえ!」
 菊姫を抱きかかえて駆ける忍びはこちらの制止の声も全く聞かず、山道を進んでいく。
「待ちなさい忍び!聞こえているのでしょう!」
 幸村が従えている忍びのことを菊姫はあまりよく知らないけれど、先ほどこの忍びは確かに幸村の声に従っていたのだ、ならば耳が聞こえないということはないはずだ。
「止まりなさい、」
 この忍び、そう、幸村が名を呼んでいた、
「甚八!!」
 ざく、と雪を踏む音がした。
 名前に反応したのか、漸く忍び――甚八が、動きを止める。
 御館を出てからここまで声をかけ続けてきた菊姫は胸を上下させて深い呼吸を繰り返す。口から漏れる息が白く染まるのが見えた。対してここまで常人ならざる速さで菊姫を抱きかかえたまま駆けてきた甚八は顔色ひとつ変えずこちらを見下ろしてくる。
「降ろしなさい、わたくしは、戻らなければ」
 息を整えながら言う。
 山道をどれほど上がってきているのかわからないけれど、例え一人ででも御館まで降りなければと菊姫は甚八を睨むように見上げる。
 しばらく菊姫を見下ろしてから、甚八がぼそりと言った。
「・・・・・・戻って、何をなさるおつもりか」
 感情の感じ取れないその声に、菊姫は眉を跳ね上げた。
「決まっています!源二郎兄様をお止めするのです!」
「止める、ですか」
 鸚鵡返しに言う甚八に腹が立った。
 こうしている間にも戦いは続いているのだ。幸村か景虎か、あるいはどちらもが、傷つくかもしれないというのに。
 こんな戦いは、しなくていいはずなのだ。幸村も景虎も悪いことなどひとつもしていない。
「源二郎兄様は三郎様のことを誤解されてるわ!わたくしが行ってきちんとお話すれば争う理由などどこにもないはずでしょう!」
 菊姫の言葉を聞いて、甚八はわずかに肩を動かした。
 顔の下半分を覆う黒布で表情はよくわからないけれど、吐息したのかもしれないと菊姫は思う。
 ――呆れられた、ように、感じた。
 甚八が、平坦な調子で、言う。
「すでに景勝方も動いている。幸村様のみ止めたところで、事態は何も変わらない」
「・・・・・・それならば、景勝様にわたくしがお話をすればよいのだわ、わたくしは同盟の要ですもの、あちらも無下にはなさらないでしょう」
「これは上杉の家中争いです。もともと我ら武田とは何の関係も無く、ただ景勝殿と景虎殿が家督を争っているだけ、ならば姫が何をおっしゃられたところで争いが終わることはありません」
「そのようなこと、やってみなければわからないでしょう!」
「もはや手遅れだと、言っている」
 甚八の、わずかに語調を強めたその言葉に、菊姫はぎくりと肩を強張らせた。
「・・・・・・、」
 何か言い返そうとして、しかし何も言葉が見つからず、唇を噛んだ菊姫を見下ろして、甚八はかすかに眉を寄せて続けた。
「すべてがそうだとは言わない。だがこの事態を招いた一因は、姫の身勝手な行動でもある」
「っ、」
 身勝手な行動。言われた言葉が心の臓に突き刺さるような気がする。
 わかっていたはずだった。嫁ぐ相手は景勝であり、家長たる兄がそう決めたのだからそれに従うのが武門の娘の為すべきこと。それを破っておいて、今更何の言い訳ができようか。
 甚八の視線に責められるような気がして、菊姫は俯いた。
 その頭上に、甚八の静かな声が降ってくる。
「すべて、景虎殿の言った通りになさいませ。それで姫への疑いは何もなくなる」
「そのような!」
 弾かれたように顔をあげる。
 甚八と正面から視線がぶつかり、彼が決して冗談を言っているわけではないことを理解する。
「姫がご自分で山を降りられたということは、我ら真田忍びと幸村様しか知らない。幸村様は姫の名誉にかかわることがあってはならぬと、このことを景勝殿に隠されている」
「源二郎兄様が・・・・・・?」
 あの、嘘をつくのが下手な幸村が、同盟相手に隠し事をしている。
 菊姫は眼を見開いて、その言葉を聞いた。
「姫は『騙され、攫われた』」
 そこまで言って、甚八は語調を緩めた。
 まるで幼いこどもに言い聞かせるように。
「――それで姫の御身も、同盟も、安泰となる」
 鼻の奥がつんと痛む。
 じわり、視界が滲む。
 景虎も、幸村も、そしてこの甚八も、自分を守ろうとしてくれているのだと、菊姫は知る。
「・・・・・・っ、ごめん、なさい・・・・・・!」
 ああ、悪いのはすべて、ただ覚悟の無かった幼稚な自分だった。
 ごめんなさい、そう嗚咽を繰り返す菊姫に、甚八はそれ以上何も言おうとしなかった。










 ぎしりと、床板を踏む音が聞こえて、幸村は我に返った。
 弓を提げた景勝が、こちらに歩み寄る。膝をついて支えている景虎の肩が、弱弱しく動いている。景虎の背に刺さる三本の矢、そのうちの一本は胸を――心の臓を捉えていると、幸村はどこか冷めた思考で考えた。目の前の現状に思考が絡まってうまくものが考えられないのに、どこか平坦な視線を持つもうひとつの思考が頭の裏にあるようで、「それ」が特段の感情も無く、伝えてくるのだ。景虎はもう、
 ・・・・・・助からない。
「――幸村殿、姫君は」
 景勝に問われて、幸村は視線を上げた。
「は、その、某の忍びがすでに外へ連れ出しておりまする。お怪我も無く、御無事な様子で」
「それはよかった」
 ほっと、景勝が息をつくのが、見えた。
 それを見上げてから、幸村はもう一度腕の中の景虎を見つめ、そして口を開く。
「・・・・・・景勝殿、景虎殿は、その、」
 言葉を探して、口ごもる。
 上杉景虎殿は本当に、貴殿と家督を争うておられたのか。
 聞きたいのはそれだ。
 景勝は言っていた、家中を乱す張本人が景虎であると。それは真実であるのか。
 幸村を見下ろして、景勝が口を開いた。
「――景虎殿の存在は、上杉にとってどうしても火種となる」
「・・・・・・まさか全て・・・・・・、貴殿の策であった、と・・・・・・?」
 問う声が震えないように、腹に力を籠めた。
 景虎方が挙兵するよう仕向け、謀反制圧の大義をもってこれを一掃する。それにより、景虎に味方する家中の者たちを春日山から遠ざけることもでき、景勝が上杉に君臨するのに都合のいい下地が整うことになる。
 そのために景虎は、陥れられたと、いうことなのか。
「景虎殿も、納得されている」
 当然のように景勝が言って、そして腕の中で景虎がわずかに身じろいだ。
「!」
 幸村は景虎の身体を抱えなおし、そして景虎がのろのろと言葉を紡ぐ。
「・・・・・・甲斐の、わか、とら」
「景虎殿っ」
「景勝殿、を、恨んで、くれるな」
「っ、」
 弱く息を吐く景虎の口の端を、緋色が伝い流れていく。いのちが、逃げていく、ような。
「景、勝どの、」
「私は此処にいる」
 景虎の呼びかけに応えて、景勝が膝をつき、
「上杉を、越後、を、どうか、お頼みもうす」
「・・・・・・ああ、任された」
 苦しげな吐息が混じる景虎の言葉に、しっかりと頷いた。
 それを聞いてどこか満足げに、景虎が、笑む。
 その双眸はもう、景勝も幸村も見ていないようだった。
「・・・・・・ひ、め・・・・・・」
 「姫」。
 それが他ならぬ菊姫のことだと悟って、幸村は景虎の口元に耳を近づける。
 これが最期ならば、その言葉を菊姫に届けなければならないと思った。
「どうか、・・・・・・――」
 それなのに無情にも、景虎のその言葉の後半は、彼の喉を震わせることがなかった。
 震えるくちびるが紡ぐ言の葉のかたちをなんとか読み取ろうとして、しかしそれは叶わなかった。
 不意に、彼の肩を支える腕に、重みが加わる。
「景、虎、殿・・・・・・」
 この感覚を、幸村は知っている。
 いのちの灯火が、消えた瞬間。
 終わりと言うのは誰のうえにも平等にやってくる。師を喪った幸村は、それを知っている。
 ぎ、と床板が鳴って、景勝が立ち上がったのがわかった。
「幸村殿。此度はまことに、ご苦労であった」
「・・・・・・なにゆえ、景虎殿は、死せねばならなかったのでしょう」
 景勝の言葉に答えない失礼を、しかし彼は気にした様子は無い。
 澱みの無い声色で、彼は静かに言う。
「上杉の安泰、越後の安寧のためだ。私と景虎殿が志す、義である」
 ――義。
 幾度となく聞き、また己も口にした言葉。
 義とは、人道。人であることを、やめないこと。
 ずっと、そう考えてきた。だが。
 口を噤んだ幸村を見下ろした景勝は、まるで昔、弟分であった自分を褒めてくれたときのように、笑った。
「貴殿はよくやってくれた。上杉は、武田との末永い同盟を約束しよう」










 春日山城へ戻された菊姫は、少しだけひとりにしてほしいと甚八に頼んで、締め切った部屋の中でうずくまっている。
 ごめんなさい、その言葉だけを繰り返す。皺が寄るほどに握りしめる手の甲には、ぽたぽたととめどなく涙が落ちている。
 わかっている。泣いて何になるというのだ。
 甚八の言った通り、確かに自分だけのせいではないのかもしれない。
 だが戦の引き金は確実に、自分の軽率さが招いた結果だ。
 「どうして、こんなことに」など、見当違いも甚だしいことを考えたものだ。
 もう少し自分が慎重になっていれば。
 ――ひめ。
 その声が聞こえた気がして、菊姫は顔を上げた。
「・・・・・・さぶ、ろ、さま・・・・・・?」
 室内を見回す。人払いをしたから侍女の姿も無い。
 菊姫の目の前に、ちらちらと瞬きのように輝く、
「・・・・・・雪・・・・・・?」
 天井に穴が開いているわけはない、なのにその細かな氷の結晶が。菊姫の手元にまで落ちてくる。
 ――どうか、・・・・・・
 また、声がした。
 氷の結晶が、手の甲に触れる。
 ――泣かないで。
「・・・・・・っ」
 結晶は瞬く間に溶けて、見えなくなった。
 氷のはずなのに、それはどうしようもなく、暖かかった。



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