第十三章 第十話

 忍びは何も持たない。
 夢や希望などというものはもちろんのこと、人との繋がりや情、帰る場所や己自身の意志。忍びはそういったものを、何一つ持たない。持ってはいけないのだ。忍びの為すべきは、ただ主に従い、あるいは里に従い、その使命を果たすこと。そのために無用なものは全て捨てて生きている。
 純粋な里育ちの忍びではなかったけれど、加藤段蔵にとってもそれは同じだった。
 必要なのは忍びとしての確かな技術だけ、目的の為なら己の生命であっても二の次三の次。
 段蔵にとっての目的とは、主の無事、ただそれだけ。
 主たる上杉景虎が生きながらえるためなら、たとえそれが主を欺くことであったとしても、
 ――眼前を掠める刃を紙一重で躱して、段蔵は手近な枝へ降り立った。
「どーしたんだよ、この程度か?」
 ぎりぎり間合いの外に立つ暗緑色の装束の忍びが、へらへらとした笑みをこちらに向け、両手の大手裏剣を手遊びに回している。
 猿飛佐助。甲斐の若虎の、子飼いの忍びだ。その吹けば飛ぶような薄っぺらい笑みが、どうしようもなく癇に障る。
 地の利はこちらにある。此処は段蔵の庭だ、数多の罠と森のすべてが段蔵の武器である。だが相手もこうした場での戦闘にずいぶんと慣れているらしい。戦いはほぼ互角だ。
「なァ、アンタ」
 手裏剣の回転を止めて、忍びがこちらを見据えた。温度の無い双眸。
「主人を裏切ったんだろ」
「何の話?」
 答えれば、視線の先で忍びの姿が闇色に滲んだ。
 次の瞬間、眼前に忍びが現れる。吐息が触れそうな距離まで顔を近づけて、忍びが口元を歪める。
「嘘が下手だな、その程度じゃ忍びなんざ向いてねぇよ」
 不快感を隠さずにクナイを持つ手を振り払えば、忍びの姿はまた煙のように掻き消えて、今度は背後から声がする。
「このお家騒動、どう考えても景勝サンの有利に傾く、あるいは、アンタの主は国主に向いてない。そう考えて、アンタは景勝サンに取引を持ちかけた」
「五月蠅い」
 そちらを見ずにクナイを放つ、しかし気配はまたも消えて、次は上。
「内容は、景虎サンを失脚させる代わりに命は助ける、そんなところか?」
「五月蠅いと言ってる」
「ま、わからなくはないよ。俺ら忍びにとっちゃあ主は絶対、死なせるくらいなら生かしたいさ」
「黙れ」
 一言ずつ、忍びは移動しながら言う。
 ・・・・・・いや、移動ではなく、分身か。
 忍びの声色にありありと浮かぶ侮蔑の色を感じ取りながら、段蔵は半眼で答える。安い挑発にわざわざ乗ってやる必要はない。
 そう考えながら、段蔵はクナイを構える。こいつらが分身なら、本体はどこだ。
「でもアンタはひとつ、間違えた」
 まるで体重を感じさせない動きで次の枝に現れた忍びが薄く笑う。
 その声が、段蔵に突き刺さった。
「アンタの主は、逃げるような御仁じゃなかった」
「ッ!!」
 反射的にクナイを放った。当然のように忍びの身体をすり抜けて、杉の幹に突き立つ。
 その乾いた音と同時、真横に現れた忍びが親しげな様子で段蔵の肩に手を置いた。耳元に寄せられた唇から、呪詛のように囁く声が聞こえる。
「たかが道具でしかない、草一把にしか過ぎないアンタが、出過ぎた真似をした結果が、」
 童子を相手にしているかのように、ゆっくりとわかりやすく発音された言葉。
「コレだ」
 忍びの手甲に包まれた指先が指すのは、火の手が上がる御館。遠く聞こえる喧噪と、黒く立ちのぼる煙。
 ぶわり、音を立てて己の殺気が立ち上がるのが聴こえた気がした。
 それに気づいたか、隣の忍びの気配が消えて、元いた前方の枝の上に現れる。
 段蔵は両手の五指それぞれに暗器を構えて、ぎりりと歯を鳴らした。
「殺してやる・・・・・・!お前もあの若虎も、景勝も誰も彼も!!」
「それは無理な相談だ」
 つまらなさそうに言う忍びに飛びかかる。同時に罠を発動させて、文字通り四方八方からの攻撃、その最初の刃が忍びに届いた瞬間、
「!?」
 忍びの姿が斬撃に溶ける。
 何が起こった、闇色に滲む無数の斬撃を弾きながら、しかし空中での無理な体勢がどんどん傾いて、舌打ちしながら体勢を整えるためのクナイを放ち、
「っ!!」
 背後から身体を掴まれたと気づいた時には頭から地面に叩きつけられた。
 ・・・・・・飯綱(いづな)落とし!?
 下が雪だったことは幸いだったが、衝撃で息が止まり視界が狭まる。
 見えるのは遠く杉の木々に切り取られた白い空と、逆光の中で仄暗く光る忍びの双眸、そして忍びが振り上げたクナイの刃の煌めき。
 声が聞こえた、気がした。
 ――『段蔵』
 そうだった。
 あの笑顔こそ、自分の守りたい、唯一だったのに。
 嗚呼、
 間違えたのはやっぱり、オレサマのほうだった・・・・・・
「感情なんざ持っちまった忍びに、先はねぇのよ」
 呟くように言って、佐助はことさら無駄の無い動きで、持ち上げた右腕を振り下ろした。
 どこからか枝に積もった雪が落ちる、どさ、という音が聞こえた。
「・・・・・・ほんと、胸糞悪いったらないねェ」
 心底嫌そうな、その佐助の言葉は、白くならない吐息に乗って消えていく。










 屋敷を舐めるように、火の手が広がっていく。その一角、まだ延焼を免れている棟に、剣戟の音が響いていた。
 繰り出される剣閃、その煌めきが炎の熱に炙られて瞬時に蒸発し、白い蒸気が視界を遮る。それをさらなる炎で蹴散らしながら、幸村は相手との距離を取って二槍を構える。
 上杉景虎の太刀筋は、とても美しいものだった。
 まさに神速聖将――上杉謙信の二つ名のように、一切の無駄が無く、流れるようでいて鋭く、そして刃の軌跡を氷の結晶が彩って、まるで舞のようにいつまでも見ていたいとさえ思わせるものだった。
「はあッ!!」
「――ふ、」
 正面から刻みあう斬撃は火花を散らしながら、周囲の襖や建具を斬り飛ばしていく。
 ――刃を交えるうちに、幸村の頭にはひとつの疑問が浮かんでいた。
 目の前のこの男は本当に、菊姫の恋心を玩ぶような人間なのかと。
 上杉景虎には、当主である謙信との間に血のつながりがない。出自も上杉一門ではなく、相模の北条家だと聞く。幸村の記憶では北条氏政も氷のバサラ持ちであったから、同じ氷使いであることに疑問はなかったが、それにしたって、この太刀筋は一朝一夕で身に付くものではあるまい。
 つまりは、この男が越後に来てから、軍神の子として恥じぬよう努力を重ねたということだ。
 同じ人質という立場で上杉に身を置いたことがある幸村には、それが大変な努力であったのだろうということが想像に難くない。
 そのような男が、本当に、目的のために手段を選ばぬようなことを、するのか。
 ――菊姫が、自分の足で山を降りたという事実は、何を示すのか。
「っ!」
 眼前に迫る氷柱を、炎の一撃で相殺する。熱が頬を嬲っていく。
「・・・・・・景虎殿。貴殿にひとつ、聞きたい」
 二槍の間合いの内に景虎を入れたまま、幸村は射るような視線を向ける。
 その視線を真っ直ぐと受け止めて、景虎はぱちりと納刀した。
「・・・・・・何か」
「貴殿は菊姫様のことを、如何に思っておられるのか」
 真意を問うように、幸村は景虎の動きの全てを注視する。
 幸村の問いの意味を図ったのか、ゆるりと瞬いてから、景虎は口を開いた。
「・・・・・・先ほど言ったとおりだ」
 抜刀の構えで落としていた重心を上げて、身体ごと幸村のほうへ向き直る。
「某はあの方を、利用したまで。流石は甲斐の虎の姫君、身持ちも固うござった。先ほどのことを除けば指一本触れておらぬゆえご安心召されよ」
「っ、」
 触れる、という言葉に、幸村は眉をひそめる。
 その様子に気づかないように、景虎は言葉を続ける。
「某の企みは全て失敗に終わった」
 その双眸の奥に光が宿るのを、幸村は見る。
「上杉は景勝殿のもとひとつに纏まり、この国はきっと豊かになる。姫は万事滞りなく景勝殿に嫁いで、」
 そこで一度言葉を切る。
 そして景虎は、笑った。
「――しあわせに、なるといい」
「・・・・・・景虎、殿、」
 その笑みに目を奪われて、幸村は一瞬言葉を失った。
 思わず踏み出した右足が、かたりと床板を踏み鳴らす。
「まさか、貴殿は、」
 幸村の言葉は、風切り音に遮られた。
 どん、と鈍い音が立て続けに三度。
「かげ、っ――!」
 軽く眼を見開いた景虎の身体が、ぐらりと傾ぐ。反射的に左腕の槍を落として前のめりに倒れ込む彼の身体を支えて、その背に三本の矢が突き立っているのに気付く。
 息を呑んだ幸村はその矢から持ち上げた視線を、ゆっくりと動かした。
 景虎の背後、今もなお音を立てて爆ぜながら燃える柱の炎に照らされているのは、右手に弓を構えた具足姿の男。
「・・・・・・景、勝、どの・・・・・・」



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20140310 シロ@シロソラ
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