第十三章 第九話

 御館はそもそも関東管領館として建てられたもので、防衛拠点としての機能はほとんど持っていない。加えて景虎方は武装こそしているものの籠城を考えていたわけではなかったから、景勝方の兵の侵攻を阻みきれなくなるのは時間の問題だった。
 ほどなくして門が破られ、火の手が上がる。乱戦の様を呈した中、それでも景勝は指示のために館内を走り回っている。
 こうなればもはや、下手に争うのは今後の為にならない。お家騒動はその規模が大きくなればなるほどその家の弱体化をもたらす。始まってしまったものを止めることが不可能ならば、今のうちに手は打っておかなければならない。
 まずは何より菊姫の身の安全の確保、そしてできる限りの者たちの助命。此処にいる者たちはすべて、上杉家の、越後の為にと心血を注ぐ者たちだ。この場で己に加担したが為に散らせるほど、その生命は軽くない。
 ――すべては、至らぬ己の責だ。
 考えて、景虎はぐっと拳を握った。
 すべてが後手に回って、何人もの生命が失われ、そしてまさに今も失われつつある。
 どこかで、違う道を選んでいたら。
 違う未来(いま)が、あったのだろうか。
 ・・・・・・否。
 武門に生まれたならば道などただひとつ、家の為に生きて死ぬ、それだけだ。
 景虎にとって家とは、生家がなくなっても居場所をくれた、越後上杉。上杉の安泰のためには今となってはこれが最善策である、そのことは不思議なほどすんなりと、景虎の心に落ちた。
 そう、これが、
 ・・・・・・この俺の、天命。
「ダンナ!」
 背後から呼ばれて、景虎は我に返った。
 振り返ればそこには、焦燥を顔に乗せた忍びがいる。
「段蔵」
「こうなったからにはもう、此処はもたない!庭の枯れ井戸から隠し通路を作ってある、そこから一端逃げて体勢を立て直そう」
 戦闘の喧噪が、どこか遠くに聴こえる。
 景虎は一度ゆっくりと、瞬いた。
「・・・・・・・ずいぶんと、準備のいいことだ」
「ダンナ?」
 景虎の静かな声に、段蔵がわずかに首を傾げ、
「ここまでお前の目算通りか、段蔵」
「ッ!」
 それを聞いて、眼を見開いた。
 いつも飄々とした、どこか捉えどころのない調子を崩さないこの忍びには、きわめて珍しい「表情」。
 腹心の様子を穏やかに見つめながら、景虎は続ける。
「目的は、この俺の助命。・・・・・・それが、景勝殿についた理由か。俺が此処から逃げさえすれば、いのちまでは奪わぬと」
 火が近いらしい。ぱち、と爆ぜるような音が聞こえた。
 膝をつく段蔵は愕然と、景虎を見上げる。
「まさか・・・・・・」
 気づいてたの、震える口でそう紡ぐ段蔵に、景虎は眼を伏せる。
「・・・・・・お前を責める気はない。その資格も、俺には無い。姫とどこぞへ落ち延び生きる、その未来を微塵も考えなかった、と言えば嘘になる」
 それが、己の至らなさだ。
 そうして迷いを抱いている間に犠牲になった生命が、ある。
「ダンナ、それなら、」
 腰を浮かせた段蔵に、景虎は首を横に振った。
「だが、逃げることは俺の義ではない」
 そして、伏せていた瞼を持ち上げる。
 その双眸はどこまでも澄んで、真っ直ぐと段蔵へ向けられる。
「お前の主は、上杉景虎は、己(おの)が義に背く生き方を知らぬ」
 景虎は、笑っていた。
「段蔵。今日までよう仕えてくれた。礼を言う。そして今この場で、暇(いとま)を申し付ける。これよりお前は自由だ。達者に暮らせ」
「待っ、」
「お前のような忍びを従えることができた、俺はそれを誇りに思うぞ」
 待ってくれと、段蔵が右腕を伸ばす。
 景虎は穏やかに笑んで、そして言った。
「さらばだ、段蔵」
 踵を返した景虎は、その後こちらを振り返ることなく、歩いて行く。
 今もなお乱闘の続く屋敷内へと。
 段蔵の、伸ばした右腕が、だらりと垂れる。
 この場で無理やり景虎を眠らせるなりなんなりして脱出する、それが加藤段蔵にできないわけではなかった。
 むしろそうすべきだと、今も思う。
 なのに、身体が、動かない。
 どうして。
「――おお段蔵!ここのいたのか」
 声がして、段蔵はどこか緩慢に振り返った。
 具足姿の景虎の家臣だ。兜は無く髪は乱れて、腕からの出血が衣装を赤く染めている。
「裏手から武田の一軍が近づいている、こんなときに揃いも揃って・・・・・・ッ!殿は何処か、」
 忌々しげに吐き出されるその情報を、一切の表情を顔から落として聞いた段蔵は、ゆらりと立ち上がる。
「段蔵?」
 答えず、段蔵の姿はその場から掻き消えた。
 









 雪を蹴散らして、幸村は山道を駆け下りる。その後ろを、武田の武将たちが続く。
 彼らの頭上を狙う竹槍を、ひとつ残らず忍びたちがクナイや刀で弾き飛ばしていく。足元を掬うように雪中から現れた網も、忍びの刀が斬り落とした。
「大将は立ち止まらずに走ってくれ!」
「合いわかった!」
 こちらを振り向かずに答えて駆ける幸村の背を満足げに見つめる佐助は、部下の忍びたちの動きを確認しつつ、罠の位置と効果範囲を視野に入れ、自らも大手裏剣を構える。
 どう考えても地の利はあちらにある、罠の発動自体を未然に防ぐには仕掛けをどうにかする時間が足りない。
 ならば方法はひとつ、発動させてからその都度対処すること。手間はかかるが見てから対処する方が確実性は高い。
 ・・・・・・俺らの役目はただ一つ、大将の行く手を阻むものの排除のみ。
「大将が戦うってンなら、俺様も楽でいいわー」
 放った大手裏剣を引き戻し、その手で合図を送ると配下の忍びは幸村達を追って木々の間を飛んで行く。罠からの援護なら、彼らだけでも十分だ。
「ほーんと、真田忍びを舐めてくれたもんだよ」
 ひとり残った佐助は薄っぺらい声色でそうひとりごちて、きりきりと両手の大手裏剣を回転させる。
 幸村たちの姿が見えなくなった後の、足跡やら罠の残骸やらで多少荒れた雪景色は、それでも静かだ。
 刃の回転を止めて、佐助はすいと右腕を持ち上げた。
 その刃の指す先、杉の枝にひとりの忍びの姿がある。
「――よう、ハジメマシテ、かな。加藤段蔵?」
 佐助の眼には、「それ」が猿に視えた。
「アンタが、・・・・・・猿飛佐助、か」
 それはなんとも哀れがましい、薄汚れて痩せた「猿」だった。










 いったい何が起こっているのだろう。
 耳に届くのは怒声に罵声、そして悲鳴。刀の劈くような音や、襖や障子が壊される音。
 様子を見に出た侍女たちも帰ってこない。自分はどうすればいいのだろう。この部屋でじっと待っているだけでいいのだろうか。
 ・・・・・・いいえ、待つと決めたのだわ。
 今朝がた、景虎にそう言ったところだ。
 ここは腹を据えて待つべきだ。慌てふためくなど、武門の女のすべきことではない。
 具足の音が近づいてきて、ぐいと菊姫は顔を上げた。
「姫!」
「まあ、三郎様!」
 部屋に入ってきたのが景虎だとわかって、菊姫はほうっと息を吐いた。
 しかしその顔は、景虎の言葉を聞いてすぐに強張る。
「姫。今すぐここからお逃げくだされ」
「何をおっしゃるの、わたくしは逃げません!」
 やはり戦になってしまったのだ。そう理解して、菊姫は否と答えた。
 菊姫の正面に膝をついた景虎が、首を横に振る。
「いいえ、お逃げくだされ。姫の御身には上杉と武田の同盟がかかっている」
「そんな、」
「いいですか、ここには無理やり連れて来られたとお言いください。この景虎に、攫われたのだと」
「嫌です!」
 そんなことを言えば景虎の身が危ないことくらい、菊姫にだってわかる。
 ――あるいは、もはや戦況が、そうとしか許されない状態ならば。
「それならばわたくしもここで、あなた様と一緒に、」
 今度こそ、覚悟はできている。
「いけません」
 それでも景虎は、首を縦には振らなかった。
 そっと伸ばした腕で、菊姫の手を取る。
「姫は、生きてください。どうか」
 なんてきれいなお顔だろうかと、菊姫は思う。
 真っ直ぐとこちらに向けられる瞳、その奥の確かな光を感じ取る。
 ・・・・・・嗚呼。
 もう、これしかないというの。
 どうして、こんなことになってしまったのだろう。
「――その手を、お放しくだされ」
 よく知った声が、聞いたことないような声色で、二人の間に割って入った。
「源二郎兄様!」
 そこには確かに兄のように慕う男の姿があって、だが菊姫が見たことのない険しい顔で、こちらを見ている。
 その顔が恐ろしくて、思わず声を失った菊姫の身体が、ふわりと浮いた。
「!」
 何かと思えば横抱きに抱きかかえられているのだ。黒い装束で目元しかわからないが、この男には見覚えがある。幸村の使う忍びだ。
「姫様、失礼いたしまする」
 このまま連れ戻されてしまうのだと気付いた菊姫は我に返って身をよじり、幸村のほうへ顔を向ける。忍びの腕はびくともしなくて、抜け出せそうにない。
「待って源二郎兄様!違うの、三郎様は!」
「なるほど、貴殿が甲斐の若虎か。間の悪いところに現れたものだ、あと少しで姫を籠絡できたというのに」
 景虎が立ち上がりながら、そう言った。彼らしからぬ歪むような笑顔。
 今彼は何と言った。籠絡?
「・・・・・・いかにも某は、真田源二郎幸村。貴殿が、上杉景虎殿にござるか」
 ひゅん、という風切り音。幸村が両の槍を構えるのを見て、菊姫はさっと顔を青ざめる。
「何をなさるの源二郎兄様!ここにわたくしが来たのは、」
「某が、姫のお心を利用したのでござる」
 遮るように言われて、菊姫は景虎を見る。
「三郎様・・・・・・!?」
 何を仰るの。
 いったい何がどうなっているのか菊姫には皆目わからないが、それでも幸村は菊姫にとって、そして景虎にとっても敵ではないはずだ。
「姫が某に想いを寄せていると知って、景勝を追い落とすために使えると、判断したまで」
 そのような暗いお顔で、いったい何を。
 何をどう言えばいいのかわからなくなって、そのうちに幸村が静かな声で忍びに命じる。
「甚八」
「は」
 名を呼ばれただけで主の意図を理解した忍びがそう答えた途端、ぐんと身体に力がかかるのが菊姫にもわかった。
「待、――」
 待ってとすら言えず、忍びが飛ぶように駆け始めて、あっと言う間に屋敷の外に出てしまう。
 景虎の顔を、まともに見ることすら、菊姫には叶わなかった。





 甚八の気配が消えてから、幸村は構えたままの槍の穂先をわずかに下ろした。
「・・・・・・成る程、聞いた通り、目的のためには手段を選ばぬということか」
 声色から不快の色は拭えない。だが菊姫の救出が叶った以上、この場で上杉景虎と争う理由は、武田には無い。
「それがこの上杉景虎の義である」
 対して景虎は、右手に提げていた刀をすらりと抜いた。その刃に輝く氷の結晶のきらめきを、幸村は眼を細めて見つめ、二槍を構えなおす。
 それまでのどこか暗い笑顔を取り払って、景虎が刀を構える。
 まるでここが戦場であるかのように、正々堂々、真っ直ぐと幸村を見据えて、言った。
「さて、甲斐の若虎。せっかく参られたのだ、このまま手ぶらで帰るつもりではござらぬだろう?」



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20140220 シロ@シロソラ
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