第十三章 第八話 |
そして、その朝がやってきた。 城下の民の混乱を少しでも避けるため、それは静かな行軍だった。 雪を踏みしめる音、そして具足の音だけが、夜明けの冴えた空気の中を響いて行く。 行軍に気が付いた民は家々の影からそっと、成行きを見守っているようだった。常の戦の、進軍のような華々しさは無い、その軍靴の醸すただならぬ気配を、民たちも何とはなしに察していたのかもしれない。 口から漏れた白い吐息が消えていくのを見送って、景勝は目線を民家のひとつに流す。 そして何もなかったかのように目線を戻し、そのまま前方、御館へと顔を向けた。 「――・・・・・・」 その民家の影から、景勝の行軍を見つめる視線がある。 かすがだ。 ・・・・・・ついにこのときが来た、か。 呼吸も気配も殺して、かすがは温度の無い眼を景勝の兵たちへ向けている。 ――いつかはこうなると、わかっていたことだった。 越後国主・上杉謙信には実の子が無い。だから家督はいずれ、養子に迎えたふたりのうちのどちらかに譲られることになる。 幸か不幸か、――この混乱を鑑みれば不幸だったと言うべきなのか、養子ふたりがそれぞれ優秀であった。それが今日の争いを生み出した一因であったのだろう。 景虎は実直な人柄が家中でも高く評価されていた。元は相模の北条家からの人質という身であったが、卑屈になることも媚びへつらうこともなく、何事にも真っ直ぐと向き合う姿勢で上杉家での立場を確かなものにしていった。武芸にも秀で、この乱世の国主に相応しいバサラ持ち、それも謙信と同じ氷使いであることも、彼を次代の当主へと推す声が高い理由である。 一方の景勝はといえば、気性や物腰の穏やかさが謙信によく似ていた。勤勉さは家中の誰もが知るところであったし、弓の腕も一流、バサラこそ持たないとはいえ武家の棟梁に必要な才覚はすべて備わっていると言えた。年齢は景虎より下であったが、上杉家への養子入りは景勝の方が先であったし、何より謙信の実の甥という血脈の正統性は無視できない。 どちらに家督が譲られてもおかしくはないという状態にあわせて、この国には古くから根付く一門衆の間の諍いがある。 家督争いが家中を分断する混乱になることは予想されていたことだった。 それでも当主たる謙信は春日山の庵から動かない。 理由は、先に佐助に話したとおりだ。 たとえ一時的に上杉の弱体化を招くようなこととなっても、この問題は景虎・景勝両名が自分たちで幕を引くようにと。 先ほど目の前を騎馬で通り過ぎた景勝は、かすがの存在に気が付いているようだった。 気が付いていて、さして気にも留めずに通り過ぎたのだ。 彼は確信しているのだ。かすがは、――謙信は、この件に関し口も手も出さないと。 無意識に、奥歯を噛む。 すべてはあの男の考えるとおりに動いている。そして謙信はそれを良しとしている。 そう、すべては、上杉の家の安泰の為。 己に言い聞かせるようにそう考えてから、かすがは音を立てずに地を蹴る。 町を抜け、山に入り、木々の枝の間を飛ぶように駆けて、その途中知った気配を感じ取る。 同じく枝から枝へ飛ぶ佐助と、目視ぎりぎりの距離をあけてすれ違う。確実に眼が合ったと思う。 かすがはそれに動きを止めることなく、実城へと山を登って行く。 その顔にははっきりと、嫌悪の情が表れていうる。 どうして、と、今になっても思うのだ。 どうして戦でしか、ことを解決できないのだろう。 いざ往かん、屋敷内はそう息巻いて戦支度を整える者が多く、夜通し具足の音が絶えなかった。気が付くのが遅れたのは、そのためかもしれない。 白銀に染まった視界、その朝靄の向こうから現れた一軍の姿に腰を抜かした下男の、慌てふためいた報告が景虎の耳に入ったのは、軍議さながら具足で身を固めた家臣たちと申し合わせをしていた時だった。 すぐさま家臣のひとりが物見に向かい、ほどなくそれが実城からの兵と知れた。ご丁寧に「毘」の一文字を染め抜いた旗印まで使っているのだ。我らこそは上杉本隊である、そう周囲に知らしめんとしているのだろう。 いったい何様のつもりなのか、家臣たちのこれまでの鬱積がいよいよもって破裂しそうだった。 「すでに表門は包囲されておりまする!」 「こちらの動きを読んでいたと・・・・・・!?」 「いやまさか、」 「そうでなければこの手際の良さはあまりに不自然ではないか」 「あるいはこちらの情報を流した者がいるとは考えられませぬか」 「何・・・・・・!?」 家臣のひとりのその言葉に、他の者たちが眉をひそめて互いの顔を見合う。視線を向けられた者は自分ではないぞと睨み返し、その場の空気が一段と重くなった。 「・・・・・・問題はござらぬ」 家臣たちを見渡して、景虎は静かに言った。 「あちら側には景勝殿も来られているとの由。ならば我らが実城まで行軍する必要がなくなったということでござる」 「殿!」 物見に出ていた者が駆け込んできて、景虎たちは広縁から庭に出ると、表門の櫓へと足早に向かった。 朝靄はほぼ晴れている。櫓門の階段を昇る途中、小窓から御館を取り囲む軍の姿がはっきりと見て取れ、景虎はぐっと眉根を寄せた。 「景虎様!」 景虎の姿に気付いた若い兵士が駆け寄ってくる。 「使者だと思われまする」 櫓の格子窓の先を指す兵士の視線を追えば、門に近づく一人の男が見えた。帯剣はしているようだが、具足は身に付けていない。 男は景勝軍と櫓門のちょうど中間で立ち止まると、声を張り上げて口上を述べはじめた。 内容はこれまでの景虎の所業が家中を、ひいては越後の国を乱し、脅かすものであるというものだった。隣で聞いている家臣が怒りに震えるのが景虎にも感じ取れる。使者は景虎からすれば見当違いも甚だしい、もはや言いがかりともいうべき事柄をつらつらと述べ、そしてそれでも、景勝が対話を望んでいると続けた。 「殿、いかがいたしましょう」 「・・・・・・わかった、某が伺おう」 「しかし、」 「これはまたとない機会でござろう。景勝殿も対話を望んでおられるならば、我らに異存はない」 景虎は使者から視線を動かす。 一軍を隔てた向こう、上杉景勝そのひとの姿が見える。 馬上の景勝もこちらに気付いた。 数十間ほどの距離を隔てて、二人の視線は確かに、ぶつかり合う。 「・・・・・・!」 景虎は、景勝がこちらを見据えて笑むのを、見た。 物腰柔らかな景勝が穏やかに笑うのは、景虎も何度も目にしたことがある。 だが、このような笑みは。 ・・・・・・景勝殿は斯様に冷たく笑む御仁であったか・・・・・・? 「――もしや、」 その、景虎の言葉と、同時だった。 どこまでも乾いた音が、その場に響きわたる。 それが銃声だったと理解したのは、使者の男が倒れてからだった。 「な・・・・・・っ!?」 男は仰向けに倒れ、ぴくりとも動かない。 御館の側から撃ったのは、誰の眼にも明らかだ。 「なんということを・・・・・・!」 「発砲は許可していない!」 「誰が撃った!?」 色めきだつ家臣たちを留める言葉が、景虎には見つからない。 「・・・・・・やはり、・・・・・・そういう、ことか・・・・・・」 慌ただしく動き始める兵たちの中で、景虎のその呟きは誰にも聞かれることなく、風に流れて消えて行った。 使者が倒れたのを目の当たりにし、景勝の軍は怒号に包まれた。 「これで決まりだ!」 「上杉景虎殿、御謀反!」 「逆賊、誅すべし!!」 馬上でそれらに耳を傾けていた景勝は渋面を作ると側近に指示を出す。 「狼煙の手配を」 すぐに耳を劈く音とともに狼煙が上がる。 陽光を遮る白い白い空に、黒い煙が筋を描く。 それを見上げて、景勝は細く長い息を吐いた。 春日山の麓、御館の裏手に陣取り身をひそめていた幸村達の眼にも、空を裂くような狼煙が映った。 「――狼煙だ」 佐助の、感情の見えない声。 幸村は眉間に深い皺を刻んで、背の二槍を掴んだ。 狼煙の合図、これは景勝と景虎の最後の対話が決裂したというもの。 上杉景虎に翻意あり。すでに御館のほうからは慌ただしい気配も聞こえてきている。 こうなっては菊姫の身が危ない。 ぐっと瞼を閉じ、鼻から息を吐く。 余計なことは、考えるな。 今は姫様を無事お守りすることだけを考えろ。 瞼を持ち上げ、幸村は背後の兵たちを振り返る。 「我らも出る」 応、と兵たちが答え、武田の一軍は御館へ向かって歩を進めはじめた。 |
20140206 シロ@シロソラ |
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