第十三章 第七話 |
「景勝殿!今日は論語を教えていただくお約束でしたぞ!」 幸村が人質として越後に身を置いて、二度目の春だった。 長く地を埋めていた雪が漸く解け始めて、身を切るような寒さがわずかに和らいだ朝だったと、記憶している。 朝餉もそこそこに、駆け込むように景勝の居室を訪れた幸村は、そこに謙信の姿を見つけて、慌てて礼をした。 「・・・・・・っと、失礼いたしもうした、おはようござりまする」 よいあさです、といつものように穏やかな様子で謙信が言って、幸村はそれに笑顔で応えた。 ――その頃の幸村にとって、越後での暮らしは学ぶものが多く充実していた。 当時から軍神と称えられていた上杉謙信は幼い幸村を客将として下にも置かぬ扱いをしてくれたし、何より年の近い景勝とはともに勉学に励み、ときに教えられ、ときに議論し、周りの者からも本当の兄弟のようだと言われたのだった。 幸村は、この春日山の城こそが、自分の居場所であると理解していた。 実の兄・源三郎と不仲であったわけではないが、兄を溺愛し自分を疎む母の存在もあって、当時の幸村にはあまり容易に近づけないひとだった。はっきりそうだと言われたわけではなかったが、周りの大人たちの言葉端から、そして他ならぬ父のふるまいから、幸村は幼いながらに悟っていた。自分を産んだのは母ではないのだと。恐らくは、城に勤める女中の誰かだったのではないかと思う。だから母は自らの子である兄・源三郎にばかり目を掛けるのだと。本当の母親が誰なのか教えられたことはない、もしかしたら幸村が物心つくころにはもう城にはいなかったのかもしれなかった。 自分を顧みない母、そもそも己が子にあまり関心の無さそうな父、そして優しいがどこか近寄りがたい兄。 弁丸という子どもには、上田の城に居場所がなかったのだ。 だから、対等に接してくれる景勝を兄と慕った。家族への想いを景勝に、そして謙信に重ねていたのかもしれない。 ――予想通り父は上杉を早々に見限って甲斐の武田についと聞いた。 しかし先に言っていたとおりに、謙信も景勝も、幸村を責めるようなことはしなかった。だから幸村は彼らとともにあり、この恩を返すことが己の義であると、考えていた。 それなのに。 「そこに座ってくれ、幸村殿」 「けさは、そなたにおはなしがあります」 景勝と謙信からそう言われて、幸村は神妙な面持ちで腰を下ろした。 只ならぬ雰囲気を感じ取り、生唾を飲み込む。 口を開いたのは、景勝だった。 「幸村殿。そなたの父御、真田昌幸が、死んだ」 父から上杉に行けと言われたときのようだった。 たいした感慨も無かったと、思う。 「・・・・・・左様で」 今生の別れになると言われていた。 それは幸村の方が殺されることになるだろうと、そういう意味で父は言ったのだろうと思っていたから、逆になったということについては予想外だった。 ただ、驚きよりも、清々したという気持ちの方が強かった。 これでもう、父とは何の関わりも無い。上杉家中にいまだ燻る、自分を裏切り者の子と誹(そし)る声もそのうちに無くなるだろう。これからは胸を張って、上杉のために生きることができる。 そこまで考えた幸村に、景勝は続けて告げた。 「そして、そなたの身を武田へ渡すこととなった」 何を言われたのか、理解が遅れた。 「は・・・・・・!?」 幸村は眼を見開いて、前のめりに両手を床についた。 「な、何故にございますか!父は確かに武田の将でございましたが、しかしそれがしは!」 「かいのとらたってのもうしでです」 遮るように謙信に言われて、幸村は口を噤む。重ねるように、景勝が言った。 「武田信玄が、父御の遺志を継ぎ、そなたを引き取りたいと」 そのような、と幸村は口の動きだけで呟く。ひゅうと吐息が掠れて、声は喉を震わせられなかった。 これが、さだめなのだろうか。 この先も人質として転々と生きるしかないのだろうか。 「・・・・・・、それが、上杉のためと、なるのであれば」 弱小の豪族の次男に生まれた、それが己の天命であるならば。 そう考えた幸村に、しかし謙信は首を横に振った。 「うえすぎのためではなく、おのれのために。そなたがこのさきのらんせをいきるために、これがよきほうほうと、わたくしははんだんしました」 「己の、ため」 聞き返すと、謙信は「ええ」と頷く。 「かいのとらは、まことおおきなおとこ。そなたがいかにいきるか、まなぶことができましょう」 「我らはこれより敵同士となるが、しかしここでの暮らしが無かったことになるわけではない」 「そなたのそくさいを、わたくしたちもねがっております」 口々に言う、ふたりの姿がだんだんと遠くなる。 視界が白く滲み始め、腕を伸ばそうとしてその腕すら見えず、 「待っ――」 「――・・・・・・、」 視界に、天井が映っていた。 持ち上がっていた右腕を、なんとなく見つめる。 「・・・・・・夢・・・・・・」 ずいぶんと懐かしい夢を、と考えながら、幸村は褥から身を起こした。夜明けまではまだ時間がありそうだ。 昨夜もなかなか寝付けなかったが、夢を見る程度には眠れたらしい。日頃の睡眠時間に比べれば十分な休息とはいえないが、眼は冴えている。 耳を澄ませば、今も人々が動き回るさざめきのような音が聞こえている。一昨日一睡もできなかった幸村は、少しでも寝るようにと佐助に部屋に押し込められたのだが、その佐助や他の忍びたちも支度に追われているはずだった。 夜明けとともに、景勝は麓の御館へ行軍を始める。幸村達は裏の山手から、御館を目指す手はずとなっている。 景勝とて、望んで戦がしたいわけではあるまい。そもそも上杉に内乱ありと知られれば、近隣諸国から目を付けられる要因にもなる。 それでも、武力で事を為さねばならない。 「・・・・・・義の、ため」 昨夜景勝が言った言葉を繰り返すようにつぶやき、そして幸村は身支度のために立ち上がった。 夜半に屋敷内の人の動きを察して目を覚ました菊姫は、そのまま眠れぬ夜を過ごした。 控えていた侍女に聞いてみてもはっきりとしたことがわからず、ただ何やら落ち着かぬような気がして早々に床を片付けて座していた。 がちゃがちゃと具足を鳴らす音が近づいてきたのは、夜明けが近くなってきたころだった。 「景虎にございます」 障子の向こうから聞こえた声にほっと安堵の息を吐いて、菊姫は姿勢を正した。 「お入りになってくださいませ」 「では失礼いたしまする」 侍女が引いた障子から、景虎が姿を現す。 景虎の声にわずかに表情を緩めていた菊姫は、現れたその出で立ちを見て息を飲む。 「早くから申し訳ありませぬ、姫」 「三郎様・・・・・・」 向かいに腰を下ろした景虎は、杜若(かきつばた)の色を基調にした具足に身を固めた戦装束だった。 恐る恐る、口を開く。 「ただならぬご様子、・・・・・・まさか、戦をなさるおつもりなの」 問いかける声が震えた。 景虎がふわりと笑んで、首を横に振る。 「いいえ。景勝殿と直接会ってお話するためにござる。これは要らぬ横槍が入ったときのための備えにござるゆえ、姫は安心していてくだされ」 「そう・・・・・・」 菊姫にとって、戦はすぐそばにあって、しかし遠いものだった。父信玄も、兄四郎勝頼も、いつだって戦から帰ってきた。父は戦で病に倒れはしたが、それでも帰ってきたのだ。 だからこそ、得体が知れなくて、恐ろしい。 ひとは死ぬのだと、菊姫は知っている。姉姫も、武勇に優れた父ですら、病魔に勝てなかった。 そして戦は、ひとのいのちを奪うもの。 遠くて、わからなくて、だから恐ろしい。 「姫」 景虎の声が聞こえて、菊姫ははっと顔を上げた。 わずかばかり顔を赤らめた景虎の双眸が、真っ直ぐと、こちらを見つめている。 「某、姫をお慕い申し上げておりまする」 空が白んできたのかもしれない。ぼんやりと明るい障子を背にする景虎の姿は、血のつながりは無いとはいえ、軍神の子に相応しい凛々しくも美しいものだった。 「三郎様・・・・・・」 「あの日の約束を、忘れたことはございませぬ。それゆえ、武田家から同盟の話が来た折には天がお味方してくださったのだと思いました」 ――『それがしは、きっと立派な武将となりまする!そうしたら、菊姫を迎えに参りますゆえ、どうかこの三郎の、妻になってくだされ』 あの、幼かった日の約束を、菊姫も忘れたことはなかった。 まさか、景虎も同じように想っていてくれていたなんて。 「姫を某の、その、妻として迎え、武田家との同盟を成す。当初、御実城様もそれをお許しなり、景勝殿もご納得されていたのだ。だからこそ、交渉の場としてこの御館が使われることになり、某はこちらに移るように命じられた、そのはずだったのですが」 「・・・・・・同盟に応じるとの御文は、景勝様からも届きましたわ」 「ええ。武田の皆様にもご迷惑をおかけしたことでしょう。あの時から、景勝殿のお考えはよくわからなくなった」 景虎は菊姫から視線を動かし、俯き加減に言う。 「幾度も御実城様への目通りを願い出ましたが、何かと理由を付けて返答が先延ばしになり、そして今日に至ってしまったのでござる」 すべて某の至らぬがゆえ、景虎はそう続けて、膝の上で拳を握る。 「ですから某は今一度、景勝殿とお話する。武田との同盟により上杉を盤石にする、そのことに景勝殿も異論は無いはず。その他何か誤解があるというなら全て説明し、そのうえで、当初の話どおりに、姫を我が妻としてお迎えする」 そこまで言って、景虎は顔を上げた。 耳まで赤くして、しかし菊姫から眼を逸らすことなく、景虎は告げる。 「・・・・・・そのときには、姫に触れても、よろしゅうございまするか」 その言葉に、菊姫はゆっくりと瞬きをした。 少しだけ頬を朱に染めて、微笑む。 「三郎様。まるで夢のようですわ。わたくしもあのお約束を、忘れた日はありませんでしたもの」 そしてすいと立ち上がると景虎の横へ腰を下ろし、慌てて身体の向きを変えた景虎へ指をついて頭を下げた。 「あなた様を信じて、お待ち申し上げております」 |
20140106 シロ@シロソラ |
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