第十三章 第五話

 冬の越後の日暮れは早い。
 今日もしんしんと、雪が降り始めている。
 その雪の静けさを打ち破るように、御館には怒声が響いていた。なぜなら、御館に届いた実城(みじょう)からの通達、その内容があまりにも、信じがたいものであったからだ。
 今朝がた御役目で登城するので、菊姫の件を実城に伝えてもらうように景虎が頼んでいた、上杉憲重が。
「憲重殿が・・・・・・、腹を切った・・・・・・!?」
「まさか・・・・・・!」
「菊姫様を拐(かどわか)したと疑いをかけられたとの由」
「どういうことだ、拐しただと!?そんな事実はあるまい!」
「言いがかりも甚だしいではないか!」
「しかし腹を切ったというならば、憲重殿がそれを認められたということなのか?」
「何かの間違いではないのか」
「柿崎殿ばかりでなく、しかも憲重殿は上杉一門衆、仮にも御実城様の義兄弟にござるぞ」
「まさか御実城様がこのようなご無体を働くなど・・・・・・」
「いや、それはあるまい。あの御方は本丸の庵よりお出にならぬと聞く」
「そう、すべては中城殿の企みに相違あるまい」
「やはり中城殿のやりようは目に余る!御実城様の甥であるとはいえ、あんまりではないか!!」
 上座に腰を下ろしていた景虎は、一通り家臣たちの言い分を聞くと、「お鎮まりくだされ」と口をはさんだ。
 しかしもはや我慢の限界なのか、顔を赤くした家臣たちは一向に声を落とす様子が無い。
「皆、話を、」
「御実城様が庵よりお出にならぬというのは、中城殿が其処に追いやっているということではないのか」
「違いない、こうまで景虎様が不遇を強いられているというのに御実城様に何一つ動きがないというのはあまりにも不自然だ」
「中城殿、いや上杉景勝、全ては彼奴の企みの内ということか!」
 如何したものかと景虎は考え、しかしここで無意味に言い争うのも時間の無駄と、声を張り上げるべく息を吸い、
 とん、というその小さな音は、妙に響いて皆の耳に届いた。
 家臣たちの間、床板に突き立ったのは、一振りのクナイ。
 皆がそれに気づいて息を呑み、それと同時にふわりと忍びが降り立つ。
 まるで体重を感じさせない動きでクナイの上に片足で立った忍びは、声を無くした家臣たちをおよそ温度を感じさせない眼で見下ろした。
「――黙れ、ってダンナが言ったんだ」
 その視線と声の冷たさに、皆一様に背筋に寒いものを感じ取る。
 この忍び、加藤段蔵の存在は、上杉に身を置く一定以上の身分の者なら誰でも知っている。古くから上杉に仕える軒猿ではなく、景虎が北条家から上杉家の養子として越後にやってきたときから側に従えていた者だ。当時は外の忍びを受け入れることに反発する向きもあったが、段蔵はその有能さで己の居場所を確保していった。
 御館に詰める家臣たちは景虎に近しい者たちであったから、この忍びと言葉を交わしてことがある者も多い。人好きのする笑みを浮かべて、間延びしたような声で話すのが、この忍びのいつもの姿。
 そのはずだ。
「アンタらの耳についてンのは飾りかい?」
 こんな、寒気のするような声色を聞いたことがない。
 最初に自失から立ち直った者が、腰を浮かせた。
「な、なんという口の利き方だ、」
 段蔵がその男に視線を流す。それだけでその男は「ひっ」と短く悲鳴を漏らし、
「よい、段蔵」
 景虎の一言で、段蔵の纏う雰囲気が和らいだ。
「皆も、お鎮まりくだされ。ここで議論していても何も始まらぬ」
 漸く景虎の声が届いて、家臣たちは決まりの悪そうな顔をした。その間にごく自然な動きでクナイを引き抜いて、段蔵は景虎の背後に控える。
「しかし、」
 なおも言いつのろうとする家臣を遮って、景虎は彼らを見据えた。
「とにかく、こちらとあちらで認識に相違がある、それは確かにござる。某が直接、実城に上がろう」
 もはや使者をたててどうこうできるような段階ではない。
 あるいは初めから自分が先頭に立っていればと、後悔の念が過ぎる。
 上杉憲重は、景虎がこの越後の地を踏んでから、ずっと世話になってきた人物であったのに。
 景虎の言葉に、家臣たちが顔を見合わせる。
「・・・・・・それはやめといたほうがいいと思うよ」
 冷めた声色でそう言ったのは、段蔵だった。景虎は眉を持ち上げて、背後の忍びを振り返る。
「何故だ」
「あまりに危険すぎる。アンタにまで死なれちゃ、どうしようもない」
 口調はいつもの薄っぺらいそれだったが、視線は真っ直ぐと、景虎を見据えている。
 それを正面から受け止めて、景虎は口を開いた。
「こちらには後ろ暗いことなど何一つないのだ、危険などあるはずがなかろう。仮に誤解があったとて、それが誤解であると説明すればよいだけのことだ」
「平三郎サンや憲重サンにはそれができなくて、アンタにならできるって?」
 間髪入れずにそう言い返されて、景虎は言葉に詰まった。
 家臣の遠慮がちな声が、聞こえてくる。
「・・・・・・言い方は悪いが、その忍びの言うとおりにございます」
 ゆっくりと振り返れば、家臣たちは一様に、こちらを見つめている。
 そのうちの一人が、苦い顔で言葉を継いだ。
「確かに全てが中城殿の思惑であると言い切るのは早計やもしれませぬ。ですが、同時にそうではないとも言い切れぬのです。万が一あちらの目的が殿の排除であれば、殿が実城に上がるのはやはり危険が過ぎまする。憲重殿までも、となれば、あちらもなりふり構わぬのでございましょう」
「その通りでございまする、実城に行かれるならば、相応の備えをするべきかと」
 家臣たちの言葉に、景虎は渋面で考える。
 相応の備えとは、すなわち武装。
「・・・・・・他に方法は、無い、と」
 問うた声が、わずかに掠れた。
 家臣たちが、頷く。
「恐れながら」
「景虎様」
「ご決断を」
 家臣たちに向き直り姿勢を正して、そして景虎は、一度目を伏せた。
「・・・・・・わかった」
 深く息を吸い、吐いてから、瞼を持ち上げ、家臣たちを見渡す。
「皆戦支度を整えよ。まずは実城、景勝殿に会いにゆく。当人に会うまで、他の者が隔たるようなら、必要ならば力で抑えねばならぬ。しかし、不必要な攻撃は無用にござる。我らの目的はただひとつ、同じ上杉を支える者として、景勝殿と一致団結することだ」
 家臣たちは皆、わずかばかりに晴れやかな表情で、「応」と答えた。










 自室でひとり、夕餉をとっていた景勝は、燭台の火がふいに揺れたのを見て、箸を置いた。
「――動くよ」
 仮にも実城である、天井裏には軒猿が幾人もいるはずだったが、しかし景勝は驚かない。相手は並みの軒猿を出し抜くくらいのことは難なくやってのけるのだと、知っている。
 視線はあくまで目の前の膳に落としたまま、景勝は小さく嘆息した。
「そうか。思ったより時間がかかったな」
「ダンナも頑固だからねェ・・・・・・、おかげでいらない犠牲が出た」
 姿は見えない。己の頭上にいるのだろう。
「よく言う。菊姫をそそのかしたのはそちらだろう」
「さァ?女ってのは結局、感情で動くいきものだからね」
 飄々とした声が降って来て、景勝はわずかに口の端を曲げた。
「おかげで武田方の力も借りねばならなくなった」
「そこまで織り込み済みでしょうよ、アンタは自分の手を汚さないひとだ」
「それは買い被りだ。この手はとうに、汚れている」
 幸村は自分を、変わらないと言った。
 彼には見えていないのだ。
 「上杉景勝」が、どういう男であるのかが。
「・・・・・・ま、どうでもいいけど」
 本当にどうでもよさそうな声でそう言って、そして影が声の調子を落とした。
「で、最終確認。約束は守ってくれるんだよね」
 景勝は顔に穏やかな笑みを戻して、頷く。
「ああ。景虎殿が逃げさえすれば、我らはそれを追わない」
 少しだけ、間があった。
「・・・・・・恩に着るよ」
 そして、影の気配が消える。
 景勝は自然な所作で箸を持ち上げ、そしてやれやれとばかりに吐息した。
「・・・・・・まったく、あの忍びも莫迦(ばか)なことだ」



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20131216 シロ@シロソラ
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