第十三章 第四話

 大坂にも、本格的な冬将軍がやってきていた。
 空は厚く垂れこめた雲に覆われ、じわじわと真綿で締められるような寒さが足元から這い上がってくる。東国の肌が切れそうな鋭さを持つ寒さとはまた異なって、これはこれで身体にこたえるとは思っていた。
 その日、いつものように淀と向かい合って朝餉をとって、その膳を下げようとやってきた女中には声をかけた。
「あの、しづ殿」
「!」
 声をかけられた女中が驚いたように肩を動かす。
「は、はいっ」
 まさかが声をかけるとは思っていなかったのだろう、慌てふためいた動きで手をついて頭を下げる姿に、の方が面食らったようにわずかに眉を動かした。
「いやその、貴方に何か不満があるわけではないのでそう案じないでいただきたいのだが」
「め、めっそうもございません」
 顔を上げてくれる様子がないので、は小さく息を吐いて、口を開く。
「わたしの膳なのだが、次からは皆と同じこちらの味付けのものにしてもらえるだろうか」
「はっ!?あ、いえ、その、」
 思わずといったように顔を上げた女中が、また慌てて頭を下げる。
「いつも気を使って、東国の味付けにしてくれていたのだろう。ありがとう。だが、わたしもこちらものもを食べてみたいと思ったのだ。必要ならばどなたか然るべき方にわたしからお話しするが」
「いえ!私が承りますっ。早速本日の夕餉より、そのようにと」
 畳に額をこすりつけんばかりに頭を下げる女中に、は安堵の表情を浮かべた。
「よかった。やはり貴方はとても頼りになる。よろしく頼む」
 どちらかといえば、これまでは怯えたように、できるだけを見ないように膳の上げ下げをしていた女中が、わずかばかり顔をほころばせて朝餉の膳を下げていくのをは見送った。
「・・・・・・姫の、膳は、味が、違ったの?」
 ふたりきりになってから、それまで黙って成行きを見守っていた淀が、ぽつりと呟くように言った。
 は頷く。
「はい。初めはまったく気が付いていなかったのだが、貴方と一緒に食事をするようになって、汁物の色が違うと気付いた」
「まあ」
「こちらの方々は、さきほどのしづ殿といい、気の付くひとが多い。少し具合が悪くて食べにくいと思う日には何も言わずとも盛り付けを控えめにしてくださる」
「名前も。みんな、覚えたの?」
「ええ、わたしの世話をしてくださる方は。皆それぞれにいいところがある」
 こちらは優秀な方が多いのだな、そう続けたの顔を、淀はじっと見つめた。
「・・・・・・姫は、まめ、なのね」
「そうだろうか。わたしは、その、皆にあまり良いようには見られていない様子だったから、こちらから近づかねばと思ったのだ」
「そこが、まめだと、思うわ。だって、姫は、いずれ此処を、出ていくのだから、どう思われても、構わない、はずでしょう」
 相変わらず読みづらい淀の表情を見て、はわずかに首を傾げた。
 なぜなら、もともとは淀が言ったのだ。
 初めて会ったあの日、密やかに陰口を叩いていた侍女たちを、そうと知りながら放置していたに対して。
「貴方が言ったのではないか、気づいていながら放っておくのは、悪だと」
 そう言えば、淀は少し驚いたようだった。ゆっくりと瞬きをして、言う。
「ええ、だけど、それができるひとは、なかなかいないものよ、淀も、そうだもの」
「・・・・・・貴方、も・・・・・・?」
 問い返すと、ぼんやりとした様子で扇を広げて、淀が嘆息した。
「・・・・・・豊臣は、もともと、太閤殿下と、その軍師、おふたりのちからで、まとまっていたような、もの」
「・・・・・・」
 は黙って、続きを促す。淀の双眸は、どこか遠くを見ているかのようだ。
「軍としての規模は、とても、大きいから。人数が、多いから、おふたりがいなくなった、そのことで、人心が乱れるのも、当たり前」
「・・・・・・だが、今は、石田殿と父上が、まとめておられるのだろう」
 淀が、こちらを見た。
「淀、殿?」
「淀は、石田治部のことも、大谷刑部のことも、あまり、信じては、いないの」
「!」
 それまで、いつものような、どこか眠たげにも見えていた淀の双眸が、強い光を宿す。
 それに気づいて、は無意識に、姿勢を正した。
 そうしなければならないような、気がしたのだ。
「だって、あのひとたちは、豊臣のことを、考えてはくれない」
 あるいはこれが、淀がその血を引く、「魔王」の視線なのだろうか。
 生唾を飲み込んでから、は口を開いた。
「しかし、石田殿は秀吉公の敵を討つために生きておられるではないか」
「でも、仇討では、ひとを、まとめられない」
「っ、」
 返す言葉が見つからなくて、は口を噤む。
「徳川家康を、憎む気持ちは、淀にも、あるわ。でも、あのひとを、ころすことが、豊臣のためになるとは、思えない」
 淀はその強い視線をへ向けたまま、扇をぱちりと閉じた。
「だって、仇討のために、生きるというなら、それが終わったあとは、どうするの?」
 ぎくりと、は肩を震わせた。
 確かに、淀の言うとおりだと、思った。
 三成のあの様子では、徳川家康を斃(たお)した後の豊臣を如何にするかなど考えていないのではないか。吉継にしてもそうだ、彼は三成が世に撒くだろう不幸を楽しみにしていたのだから。
 静かな、しかし心に通るような声で、淀が言う。
「やられたら、やりかえす。殿方は、よくそうやって、戦をする、だけど、それでは何も、変わらない」
「・・・・・・、では、淀殿には、徳川殿を討つつもりは、ないと・・・・・・?」
 戸惑いがちに問えば、淀は首を横に振った。
「いいえ。それが、豊臣のために、なるならば。誰だって、淀は、ころすわ」
 ぞくりと、寒さのようなものを、は感じた。
「淀が、生きることができたのは、太閤殿下の、おかげなの。だから、淀は、何があっても、豊臣を守る。それが、淀の、」
 そこで淀が一度、言葉を切った。
 真っ直ぐとを見つめて、わずかに、笑む。
「浅井備前守の娘、茶々の名を捨てて、淀として生きると決めた、わたしの、覚悟」
「淀殿・・・・・・」
 は知る。
 目の前のこの女性は、武家の奥方に相応しいひとなのだと。
 奥として、母として、家を守る、それが武家の女の生き方。
「・・・・・・だから、誰に何と、言われても、淀はそれを、受け流してきた。姫とは、ちがうところ、ね」
「細事に関わっていては、できないこともあると、いうことなのだろう」
「でも、できるなら、そういう風に諦めてほしくは、ないの」
 淀が膝を進めて、の手をとった。
姫はきっと、淀にできないことも、できるわ」
「そのような、貴方に学ぶことはまだまだ多いというのに」
 少しだけ眉を下げては言って、淀が真顔で頷いた。
「それも、そうね。そろそろ、始めましょうか。今日はまず、一回で、針に糸を、通せるようになる、ところから」
「う・・・・・・」
 なんだかとても深層の話をしていたような気がしたのに、一気に現実に戻ったようで、はひくりと口角を歪ませた。








 おかしい。
 何故これができない。
「・・・・・・がんばって」
 淀の応援する声が聞こえる。
「・・・・・・、・・・・・・駄目だ・・・・・・」
 糸の先がぐしゃぐしゃになってしまったのを見下ろして、は深いため息を吐いた。
「あなた、不器用、なのね」
「うぐ・・・・・・」
「何事も、練習あるのみ、よ。ほら、切ってあげるから」
「申し訳、・・・・・・いや、かたじけない」
 すでに陽は高く昇っている。
 裁縫を習い始めたのはいいのだが、この針孔というもののあまりの小ささに、は早くもくじけそうになっている。
 いや、くじけるわけにはいかないのだ。裁縫はおなごが身に付けるべき術の基礎の基礎である。
「いい、ゆっくりで、いいのよ」
「う、うむ、」
 ゆっくり、ゆっくりと、針に糸を近づけて、
さーん、すんません!」
「うわ」
 急に声がかかって手元が滑った。
 今しがた淀に切って整えてもらったばかりだというのに、糸の先が針孔に引っ掛かって解けてしまう。
「鎌之助・・・・・・!」
「あら、やだ。ここは、姫君の、お部屋よ。先の伺いもなく、立ち入るなんて、悪」
 には恨みがましく睨まれ、淀にはぼんやりと「悪」認定されて、襖を開けた姿勢のまま鎌之助は決まり悪げに眉を持ち上げた。
「ちょっ、淀さんはともかくさんまで・・・・・・っ」
「ともかくというのも失礼だろう、それで何だ」
 鎌之助の方へ身体を向けようとしたを、淀が制する。
「今は、だめ。その糸が、針に通せるように、なってから」
「・・・・・・さん不器用なんすね」
 寄ってきた鎌之助がの手元を覗き込んでしみじみと言った。
「貴方まで・・・・・・!」
 頬を赤らめながらが言って、次の瞬間、風が吹く。
 淀のうつくしい髪をふわりと持ち上げて、流れて行った風を、鎌之助もなんとなく見送った。
「・・・・・・ほらできたぞ、これでよいのだろう」
 の手には、糸の通った針がある。
 淀が、嘆息した。
「・・・・・・今、バサラ、使ったわね」
「・・・・・・使ってはいけないとは聞いていない」
さんそれ屁理屈」
「・・・・・・っ」
 何か言おうとして、しかし言葉が見つからなかったの手から、淀が針を取り上げて、一息。
「まあ、いいわ。今度はバサラなしで、できるように、なれば。それで、姫に、ご用なのでしょう?」
 淀に促されて、鎌之助が頭を下げる。
「ああ、すんません、急ぎってわけじゃなかったんすけどさんに聞きたくて」
「何だ?」
「長の鴉、さんのとこに来てませんよね?」
「来ていないが?」
 鎌之助の言う鴉とは、文に化けることができる真田忍びの術のことだ。
「何かあったのか?」
「いやあったっていうかないっていうか、こないだの返事が届かないなと思って」
「この間の、」
 鸚鵡返しに呟く。以前鎌之助に届いた文は、上杉景虎の人となりについて知りたいというものだったと、は思い出す。
「いや、別に他に指示がなけりゃあ来ないことだってあるわけで、それならそれで」
 来てないならいいっす、と鎌之助は笑う。
「・・・・・・その鴉が、確かに佐助のもとに届いたと、わかるような術(すべ)はないのか?」
 が聞くと、鎌之助は困ったように眉を下げた。
「すんません、長ならできるかもしんないっすけど、俺じゃそこまでは」
「いや、貴方が謝ることでもないだろう」
 言いながら、は遥か東国、すでに雪が地を覆っているのだろう越後に思いを馳せる。
 幸村と佐助が揃っているのだ、めったなことにはならないだろうが、それでも。
 あまり良い予感はしないような気がして、は小さく、息を吐いた。










 その、少し前のことだ。
「・・・・・・なーに、コレ」
 妙な気を持つ鴉だと思って、クナイで仕留めた。
 落ちたと思ったところに降り立ってみたら、そこにはクナイに貫かれた、黒ずんだ紙片がひとつ。
 クナイごと持ち上げてみると、紙片に触れるかどうかという瞬間に、ぼろぼろと崩れていった。
「・・・・・・嫌な、におい」
 ひゅ、とクナイを振るうと、まとわりついていた紙片だったものが、風に溶けるように消えていく。
 段蔵はそれを、鼻の頭に皺を寄せて、見つめた。


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20131207 シロ@シロソラ
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