第十三章 第二話

 山の斜面などお構いなしに木々の枝の間を飛んでいた佐助はそこでぴたりと立ち止まると、続く部下たちにも止まるように手で合図した。
 早朝の霞んだ視界の中、その視線は眼下、木々が途切れた先の屋敷に向けられている。
 躑躅ヶ崎館ほどではないとはいえ、大きくしっかりした建物だった。どうかすれば上田の城郭よりも立派なものに見える。
「・・・・・・」
 まあ上田の城は外敵の侵入を阻むのを第一に造られてるわけだし、と少々ずれたことを考えながら、佐助は手近なところの細い枝を手折って、ぶん、と放り投げた。
 息を殺して、その軌跡を見据える。
 空中で弧を描いた小枝が、ある一点で微妙に動きを変える。
 次の瞬間、生い茂った枝葉の影から、竹槍が降り注ぐ。
 ざん、と雪の積もった地に幾本もの竹槍が突き立つ音。
 ・・・・・・絹糸、か。
 先ほどの小枝の動きが変わった箇所、あれは張り巡らされた細い細い糸を小枝が切ったもの。
 そうと意識して見れば、漸く木々の間から漏れ始めた朝陽に、無数の糸がきらきらと反射して光る。
 底冷えするような眼でそれを見つめて、佐助は部下に退却の指示を出すと自分も姿を消した。










 朝陽に雪が白く輝いて、些か眩しい。
 濡縁に立ったまま、わずかに眼を細めてそれを眺めていた幸村は、気配の動きにひくりと眉を持ち上げた。
 それと同時、背後から声がかかる。
「大将」
「手がかりはあったか」
 庭園から視線を動かさないまま問えば、背後の佐助は是と答えた。
「うん、結論から言うと、姫サンは麓の屋敷にいると思う」
「やはり、山を下りられたと、・・・・・・何故」
 自問のように呟かれた言葉に、佐助は常より幾何(いくばく)か緊張感の滲む声で付け加える。
「そこ、上杉景虎の屋敷だってさ。城から追い出されたって話だけど」
「景虎殿の・・・・・・、」
 佐助の言葉を口の中で繰り返してから、ふと気が付いて、幸村は背後を振り返った。
「待て、『いると思う』とはどういうことだ。姫様の姿を確認したわけではないということか?」
 見れば、顔から笑みを消した佐助が、そこに膝をついている。
「その屋敷、つうか周りの森が、さ。罠とかが半端なくて、ちょっとすぐには近づけなくて。表の方は警戒が厳しいから森の方から入りたいんだけど、申し訳ない、少しだけ時間が欲しい」
 いつもの茶化すような様子の無い、その佐助の声色に、幸村は眉をひそめる。
「お前が手こずるほどの?忍び、・・・・・・軒猿か?」
 佐助の有能さは、幸村が一番よく知っている。その当人がこうまで言うのだ、並みの相手ではないのだろう。
 上杉家が飼う忍びの通称を声に出すと、佐助は小さく肩をすくめた。
「だとは思うけど、軒猿も一枚岩じゃないみたいでさ。思ってた以上に、複雑なことになってるみたい。この後かすがに聞いてくる」
「頼む」
 佐助に頷いて、幸村は考えを巡らせる。
 昨夜のうちに、佐助は上杉家中が景勝派と景虎派に分裂しているという情報を持ち帰っている。
 景勝は、家中を乱している張本人が景虎であると言っていたが、その根底には上杉一門衆の間で古くから続いてきた諍いが関係しているとも口にしていた。諍いは根深いと見え、家老衆の間でも次期当主を見越しての対立が表面化しており、さらには同じ家でも父子や兄弟でそれぞれの派閥に分かれるなど、どちらの有利にことが運んでも家名を遺せるようにと計らっている節もあるらしい。見た目以上に、事態は拗れているのだと思われた。
 まさか軍神の膝元でそのような混乱が起こっているとは、武田も、幸村も、予想だにしていなかった。
 それでも、武田は上杉に頼らざるを得ない。いかに家中が混乱していようとも、日ノ本に轟く越後の龍の名が廃るわけではなく、上杉の後ろ盾が無ければ、今の武田は東国での立ち位置を盤石にできないのだ。
 ――甲斐の虎の威光を落とさないだけの力が、己にあったなら。
 なんと歯痒いことだろう、幸村はぐっと奥歯を噛みしめる。
「・・・・・・駆け落ちでもする気じゃないの、姫サン」
 佐助が、いつも通りの薄っぺらい口調で、そう言った。
 その言葉に、幸村はぎょっと眼を見開く。
「め、滅多な事を言うでない、上杉方の耳に入ればただでは済まぬぞ」
「人払いはしてるよ」
 平静を保ったまま佐助は「でも、」と続ける。
「姫サンがまさかそこまで本気とは、思わなかった」
 先日の、菊姫が彼女の言う「三郎」、――上杉景虎のことを話す様子を、幸村も思い出す。
 あれは、確かに、並々ならぬ想いを秘めた表情だった。
 遠く離れたひとを想う、その心持が、今の幸村には、理解できたのだ。
「・・・・・・、」
 その考えを振り払うように、幸村は庭園の方へと向き直った。
「――憶測で物を言うべきではあるまい。とにかく俺はこの件、景勝殿へ報告せねば」
 はいよ、と短く答えて、佐助が姿を消すのが感じ取れた。
 この明け方までに菊姫が見つかれば、何も無かったことにできるかとも考えていたが、残念ながらそう容易にことは運ばないようだ。
 そろそろ城内にも人の気配が動き始めている。ほどなく菊姫の不在も明らかになることだろう。これ以上事態を悪化させないためにも、まずは景勝へ一報を入れねばなるまい。
 そう考えて、幸村はぐいと口元を引き締め、濡縁を後にした。








 景勝はすぐに面会に応じてくれた。
 昨夜は非公式ということもあってだろう、家老の屋敷で顔を合わせたのだが、今日は同盟に関わる緊急事態と先方も考えたらしく、面会場所は春日山城二の丸の一室だった。
「申し訳も、ござりませぬ」
 手を付いて深く頭を下げた幸村の耳に、対面に腰を据えた景勝の嘆息の音が届いた。
「とりあえずは頭を上げてくれ、幸村殿」
「は、」
 言われて、幸村は姿勢を正す。
 景勝は渋面だった。それもそのはず、菊姫の行方がわからない今、下手をすれば武田には同盟の意思無しとも受け取られてしまう。
「ただいま我が忍隊にて姫様を探しておりまする。本来なら今日より同盟の話し合いをと言っていただいておりましたが、今しばらく猶予を頂きたく」
 こちらも沈痛な面持ちで、幸村が言う。それに対し、景勝は頷いた。
「それは、構わない。何より姫君の御身が大事だ」
 それに、と景勝が続ける。
「麓の屋敷におられるかもしれぬと、そなた先ほど申したな」
「はい、確かではございませぬが」
「そこは『御館(おたて)』と言ってな、景虎殿の居館だ。何の理由も無しに姫君が訪れるとは考えにくい」
 何の理由も無しに、という景勝の言葉に、幸村はできるだけ表情を動かさないよう顔に力を入れた。何しろ自分は考えていることが面に出やすいのだと、散々佐助にも言われているのだ。
 ――菊姫が、上杉景虎に慕情を抱いているかもしれない、その可能性については景勝には伝えていない。
 佐助にも言ったように、これは菊姫自身がそうと言ったわけではなくこちらの憶測であるし、また真実がどうであれ、話が広まればこれより景勝に嫁ぐ姫の名誉に傷をつけることにもなる。
 こちらの心中に気付いているかどうか、景勝は思案顔のまま言った。
「・・・・・・まさかとは思うが、拐(かどわか)されたということも考えられなくはない。この山を姫君がご自分で降りられるとは考えにくいからな。まずは、すぐにこちらからも御館に使いを出そう」
 少なくとも菊姫がこの春日山城を出たのは、自分の足で、だ。足跡から真田忍びはそう判断していたが、そのことについても幸村は景勝に伝えていない。
 とにかく今は、姫の不利になるようなことは上杉方に漏らさないこと。幸村も佐助以下忍び隊も、それを第一にしている。
「よろしく、お願いいたしまする」
 それにしても景勝には申し訳ないことだと気が咎めて、頭を下げる幸村に、景勝は少し笑って見せた。
「そのように肩を落とされるな。なに、如何な目論見があったとて、景虎殿も姫に無体は働くまい。彼にも義の志が残っていると、私は信じている」


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20131030 シロ@シロソラ
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