真田氏は、信濃国の海野郷を中心に栄えた一族のひとりが、真田郷に拠ってその名を冠し、興ったものである。
 新興の豪族は、後に真田幸隆と名を改めたその男と、彼の後を継いだ昌幸の手腕により、小さいながらもその地統べるまでになっていた。
 乱世の混迷が続く中、上杉と武田という巨大な二勢力に挟まれた信濃の領地を守らんと、昌幸はまず上杉に同盟を持ちかける。
 同盟の証として質に出されたのが、元服も済んでいない次男であった。


 元服の儀も何もないまま、源二郎の名だけを授かった幸村が、父・昌幸が付けた従者たちと越後の地踏むころには、北国の雪もすっかりなくなって春の盛りとなっていた。
 春日山の城下町は多くの人が往来し、物売りの声があちこちから聞こえてくる。上田の町とは大きさも活気も段違いで、越後の豊かさを感じ取ることができる。
「珍しいものもあろう、何ぞ気にかかったものがあれば立ち止まる故気兼ねなく申されよ」
 隣からそう声がかかって、きょろきょろと辺りを見回していた幸村はばつが悪いような心持になり、表情を引き締める。物見遊山に来たわけではないのだと自分に言い聞かせながら、そうっと隣を窺った。
 供もつれずに、春日山に着いたばかりの幸村をここまで連れ出したのは、まだ少年という年恰好の、若い侍である。目元の涼しげな、歳よりも大人びた雰囲気を纏うその若侍は上杉景勝と名乗った。上杉謙信の甥であり、今は養子になっているのだという。
 上杉謙信は所用があり今は目通りが叶わないから、まずは城下を案内しようと言われて、拒む理由も見当たらなかったので幸村は大人しくこの若侍に付いてきたのだった。
「馬を走らせれば湊(みなと)も近い。今度案内しよう」
 こちらのほうが明らかに年下であるし、そもそも小豪族の次男坊と大名家の御曹司では立場もまったく違う。それなのに、景勝の物腰は柔らかだ。
 その声色の中に、己に対する確かな敬意を感じ取って、幸村は眉を動かす。
「人質を相手に、そのようにへつらうことは無用にございまするぞ。この生命は上杉謙信殿のさじ加減ひとつでどうとでもなる、我が父がそう簡単に上杉に下るとは景勝殿も思うておりますまい」
 挑戦のようにも見て取れる幸村の視線を、しかし景勝は柔らかく笑んでいなした。
「流石は真田の御子だ、考えの速さも父譲りのようだな」
「・・・・・・所詮、この身は父にとって捨石のひとつ。そう、某は、捨てられたのだ」
 景勝から視線を外した幸村の声には、自嘲の色が滲む。
 それを悟ってか、景勝は眉を下げて窘めるように言った。
「己の父を、そのように悪く言うものではない」
「ならば景勝殿は、父が正しいとでも言うおつもりでござるか」
「正しいか、正しくないか。それは天の定めるところに非ず、人の判ずるところだ」
「・・・・・・?」
 景勝の言葉に、幸村は眉をひそめて彼を見上げた。
 視線の先で、景勝は街並みを見渡しながら、言う。
「そなたの父には、真田の家を守らんとする義がある。その義に従うことこそが、そなたの父の正しさだ」
「義、でござるか」
 聞き返せば、景勝は「そうだ」と頷いた。
「義こそ我が義父(ちち)、軍神の教え。何を目的とし、どう生きるか、それを常に心に留めておくべしとな」
 そう言って、景勝は足を止めると幸村に向き直った。幸村も合わせて立ち止まる。背丈は景勝の方が高いのだが、こちらを見下すのではなく、真っ直ぐと顔を向けられる。
「幸村殿、せっかく上杉の地を踏まれたのだ。そなたも己の義について、此処で学んでいかれるがよい」
 その視線の強さに、何故かいたたまれないような心持になって、幸村はふいと視線を逸らす。
「・・・・・・悠長なことを。いつ父が、上杉を裏切るともわからぬのに」
 年相応の、不貞腐れたような言い方に、景勝は笑う。
「ああ、一つだけ言うておこう。この先万一、昌幸殿が上杉を裏切ることがあっても、越後に在る限りそなたの生命は保障されるゆえ安心なされよ」
 景勝の言葉に、幸村は耳を疑った。人質とはただ一時、家の安泰を守るための、いうなれば人柱。情勢如何によっては簡単に切り捨てられるものである。
 父もそう考えているはずだった。だから上杉に行けと命じたあのとき、「今生の別れ」だと言った。
 それを、はじめから、生命は保障されるなど、馬鹿なことが。
「・・・・・・、なぜ、そのような」
「ほら、幸村殿。見えてきた」
 幸村の声を遮るように、景勝がそう言って前方を指し示す。
 その動きにつられて視線を向ければ、家々が途切れ、松の林が見える、その向こう。
 わずかに粘り気のような何かを含んだ風。鼻の奥に広がるにおいが潮のそれであると、理解するのに時間がかかった。
「・・・・・・!」
 しばらく進めば、視界が開ける。
「・・・・・・なんという・・・・・・」
 そこは、浜辺だった。押しては返す白波を、そして遠くは空と繋がるその光景を目の当たりにして、幸村はただ茫然と眼を見開く。山育ちの彼が初めて目にした、海だ。
「向こう岸が、見えぬ・・・・・・」
「実際、向こう岸などというものはここには無い。佐渡を越えれば、その先は大陸だ」
「大陸・・・・・・、唐(からくに)で、ござるか」
 書物でのみ知る、海の向こうの国の存在。
 あまりに現(うつつ)とはかけ離れているように思えて、幸村は言葉を失った。
「先ほど、何故と問うたな」
 景勝の声に、幸村はそちらに顔を向けた。
 海の先を見つめたまま、景勝は、言う。
「そなたの生命を、無為に奪うようなことはしない。なぜならそれが、」
 波の音が、絶え間なく耳に届く。今まで聴いたことのない、不可思議な音だった。ひとつひとつは小さな音が、幾重にも幾重にも折り重なって、耳に残る。
 その音に、景勝の声が、重なる。
「――御実城様(ごみじょうさま)の、義であるからだ」





  第十三章 第一話





 春日山城下の関東管領館、通称「御館(おたて)」に辿りついた菊姫は、案内を受けた室内で足の痛みを我慢しながら座していた。
 夜を徹しての下山は、忍びの道案内があるとはいえ厳しいものだった。疲労でふらふらするし、先ほど少し見たら指の先を擦り剥いていた。どうりで痛いはずだ。着物の裾も少し擦ってしまっていてあまり見られたものではない。だからこそ、意地でもそれらを隠して、背筋を伸ばしていたかった。
 このひとの、前では。
「それにしても、無茶をなさる。おなごの足で、あの山道を降りられるなど」
 記憶よりもずいぶんと大人びていた、それでも気遣わしげにそう言って眉を下げる表情は、あのころと何ら変わらない。
 三郎と、そのころは名乗っていた、今は上杉景虎と名を改めたそのひとを見つめて、菊姫は笑う。
「あら、わたくしの侍女たちは皆、己の足で登りましてよ?」
 一国の姫とはいえこちらも山育ち。できないはずはないと、菊姫は思っていた。
 事実、足指の先と着物を少しばかり擦るくらいでここまでたどり着けたのだからあながち過信ではあるまい。
 それに納得したのだろうか、わずかに表情を緩ませた景虎が、今度は声の調子を落として、言う。
「そもそも、何故こちらに・・・・・・、武田の意向というわけでは、ないのでございましょう」
「まあ。あのようなお文を頂戴して、わたくしが動かないとお思いでしたの?それほどまでにわたくしを情の薄いおなごと?」
 あの忍びから受け取った文には、切な想いが綴られていたのだ。
 叶わない想いだと、そうわかっていても、それでも一目お会いしたいという気持ちが、止められない。
 直接そうと書いてあるわけではなかったけれど、それでもその痛いほどの想いが感じ取れたからこそ、菊姫は此処に来た。
 菊姫の言葉に、景虎はさっと顔を赤らめて、ぶんぶんと首を横に振った。
「ま、まさか、そのような、」
 そして、こほんと一つ咳払いをして、こちらを見つめる。
 ああ、その真っ直ぐな双眸は、やはりあの頃と同じ。
「ただ、本当にこうしてお会いできるとは、思うておりませなんだゆえ」
 その双眸を見つめていると、思い知らされる。
 自分が何をしているのか、ということを。
 自分がやっていることは、武家の姫としてはありえないことだ。婚前の身で、他の男と隠れて会うなど。
 幸村に言った言葉は嘘ではないはずだった。
 家長である兄の決めたとおりに嫁ぐ覚悟が、あると。
 嘘ではない、つもりだったのに。
「・・・・・・やはり、わたくしのしていることは、よくないことですわ。源二郎兄様にも、ご迷惑をおかけするもの」
 わかっていても、止められない。
 あの文の心情を、誰よりも抱えているのは自分自身だ。
 不安気に睫毛を震わせる菊姫を励ますように、景虎が笑みを浮かべた。
「某が、なんとかいたしまする。姫は安心して、まずはお休みくだされ」
 その言葉に縋るしか、今の菊姫にできることはなかった。







 夜通し山を降りたのだろう、見ていて可哀想なほど憔悴した様子の菊姫をまずは休ませねばと、寝所を設えるよう女中に指示してから、自室に戻った景虎は襖を閉じるなり短く腹心を呼んだ。
「――段蔵」
「はいよ」
 間髪入れずに、背後から声。
 振り返ればそこに、いつもと変わらぬ様子で忍びが膝をつく姿がある。
「お前だな」
 決めつけるように言うと、段蔵というその忍びは肩をすくめた。
「何が?」
「はぐらかすな。姫君が文と言っておられた、俺はそのようなもの書いてはおらぬ、そもそも姫君には会わぬと言ったはずだ。お前が姫君を言いくるめてここまで連れてきたのだろう」
 有無を言わさぬ景虎の言葉に、段蔵はへらりと笑った。
「やだなぁ人聞きの悪い言い方しないでよー、選んだのは菊姫ちゃんだよ?菊姫ちゃんはダンナを選んだ、だから女の子の足で頑張って降りてきたんじゃないの」
 この忍び特有の、間延びしたような言葉運び。
 今更それに腹を立てたりはしない。ただ景虎は、嘆息する。
 それを見上げて、段蔵が薄い笑みを口元に張り付けたまま言う。
「ダンナだって諦める気はなかったんだろ?ならいいじゃないの」
 景虎は、段蔵に視線を送る。
 変わらずとらえどころのない笑みを浮かべた段蔵の視線と、正面からぶつかるように。
「・・・・・・俺は、お前を咎めているわけではない」
「あ、違うの?」
「咎められていると感じたなら少しはしおらしゅうせんか」
「あは、ごめんごめん」
 謝罪を口にしながら、どう見ても反省しているようには見えない段蔵を見下ろして、景虎はもう一度息を吐いた。
「・・・・・・なに、お前は俺の害になるようなことはしないと、俺は知っている」
 それを聞いて、段蔵はにこりと笑った。
「そりゃ光栄」
「何にしろ、今すぐ姫君をお返しすることはできない、ここには姫君をお乗せできるような輿が無いしな。まさか今からまた登れというのもあまりに酷だろう。とにかく、姫君が独断で来られたなら実城は今頃騒ぎになっているはずだ、急ぎ報せねばなるまい。確か憲重殿が登城されるのだったな、姫君のことを御実城様にお伝え頂くようお願いしてみよう」
「ま、それがいいだろうね」
「柿崎殿のこともある、要らぬ諍いになってはいけない。急いだほうがいい、憲重殿を呼んでくれ」
 先日の、景虎に近かった上杉家家臣・柿崎平三郎が上杉の使者を斬った疑いで手打ちにあったという話は、その後の調べで、経緯はともかく何らかの理由で柿崎が殺されたということ自体は事実であったと確認された。その件について実城に詳細の説明を求めたが、今のところ反応は無い。
 悪い予感がする。できるだけ急ぎ、手を打たねばならない。
 景虎のその言葉に、段蔵は「御意に」と答えて頭を垂れた。


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20131024 シロ@シロソラ
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