第十二章 第八話

 景勝のもとを辞して戻ったあと、幸村はなかなか寝付けないままに夜明けを迎えようとしていた。
 何度も寝返りを繰り返した褥から身を起こし、立ち上がる。身の凍るような寒さだ。木戸を開けると、東の空がしらじらと明るくなりつつあるのが見える。
 吐息は、白く染まる。
 何度も何度も、繰り返し、考えている。
 ――『だがそれは、そなたの義のために必要なことだったのだろう』
 景勝の言った、義という、言葉。
 その言葉を、その意味を、幸村に教えたのは、他ならぬ景勝であった。義は上杉の教えであると、どこか大人びていた少年はまだ童同然であった幸村にそう言った。
 ――『いつか、殿にも。そなたなりの『義』が見つかればよいと、某は思う』
 かつてにそう言った、幸村のその言葉は、ほとんどそのまま景勝の受け売りだった。
 ・・・・・・己の義とは、何だったのだろう。
 言い換えれば、それは薩摩の地で島津義弘が言った、「一本通った筋」というもの。
 己の義とは、何だったのだろう。
 義とは、人道。ひとであることを辞めないこと。
 そう思って、これまでずっと、生きてきたはずだ。
 ――お館様は、何故彼の男のとの戦いを望まれたのか。
 信玄の、義とは、何であったのか。
「・・・・・・、」
 俺は。
 お館様の何を、見てきた?
 甲斐の虎が目指すは天下、その先にあるのは、民が自らの為に生きられる世。
 それはすなわち、己の目指す世と同じ、はずだ。
 ――『ならアンタの望む世ってのは、家康のそれとは相容れねぇか?』
 幾度も戦場で合い見えてきた彼の男を、しかし幸村はあまり、知らない。
 徳川家康は、何故豊臣秀吉を弑したのだろう。
 彼は何を思って、槍を捨てたのだろう。
「――大将!」
 声がかかって、幸村は思考を中断した。
 焦燥の感じられる、この忍びには極めて珍しい声色だと思って、視線を動かす。
「佐助、いかがした」
 姿を現した佐助が、膝をついてこちらを見上げた。
「姫サンが姿を消した」
「・・・・・・何?」
「すまない、今探してる。城を出た形跡がある、山を下りたかもしれない」
「どういうことだ」
「張り番に置いてた奴らはやられてた、相当の手練れが入り込んだみたい。城を出たってのは、姫サンの足跡があったから。足跡は一人分、自分の意思で歩いたんだとは思う。侵入者とは関係があるんだろうけど、まだ詳しくはわかってない。――申し訳ない」
 早口で報告を重ね、最後に謝罪を口にして佐助は頭を垂れた。
 幸村は大きく見開いていた眼を一度伏せる。
 菊姫の存在は、この同盟の要である。上杉家中にきな臭い気配があるとわかっていたから、護衛の忍びも精鋭を選んだ。その忍びたちが敗れたとなれば、敵は並大抵の忍びではあるまい。上杉の軒猿か、他国の者か。
 そして、菊姫が自分の足で、城を出たというならば、それは何を意味するのか。
「・・・・・・、否、言うても始まらぬ」
 瞼を持ち上げて、幸村は佐助に命じた。
「何よりまず、姫様を探せ」
 同盟云々より以前に、菊姫の身の安全が第一だ。
「御意」
 そう言って佐助が姿を消した後の、闇色の残滓を見つめながら、幸村は考える。
 とても、嫌な予感がする。
 いったい何が、起こっているのだろう。








 春日山の麓は、まだ夜明けまでに少し時間があった。
 仄暗い屋敷の庭を、彼は駆け抜ける。
 報告は確かに聞いた、だか己の耳が信じられなかったのだ。
 そんな、まさか。
 あるはずのない、ことだと。
 屋敷の中を走るより、庭を抜けた方が早いからと、薄く積もった雪をざくざくと踏みながら、走る。
 そして、門の傍にその姿を認めて、立ち止まった。
 そのひとが、こちらに気付いて、被っていた笠を外す。
「・・・・・・菊、姫・・・・・・」
 記憶よりもずいぶんと大人びた姿だ。
「お懐かしゅう。・・・・・・来て、しまいました」
 ああ、でも、そうやって笑うのは、変わらないのだと思う。
「そんな、本当に、・・・・・・あなた、なのか、」
 夢ではないかと思った。
 今ここで己の頬を殴りでもすれば、覚めてしまう夢ではないかと。
 視線の先で、いとしい姫が、微笑む。
「あら。わたくしの顔をお忘れですの?」
 ――それは、遠い遠い、春のようだった。













 その日、己の前に現れたの姿を見て、吉継は包帯の下で口元を歪めた。
「ようやく着物が仕上がったか」
 深い緋色の、寒椿を刺繍した打掛は、が大坂に来て間もないころに五助の手配で注文されたものだ。
 そもそも武家の奥方ともあれば、自分の着物は自分で縫えるものであるし、あるいは周りの侍女たちに任せてもいいのだが、仕立て屋に頼んだというならば少なくとも、この娘はろくに裁縫もできないのだろうと考える。
 ゆるりと視線を向ければ、は一度自分の着物を見下ろして、是と答えた。
「・・・・・・、ああ」
「これ以降不吉なモノは着ずに済む、安堵したであろ。未婚の娘にアレを着せるとは五助の肝もたいしたものよ」
 ヒヒと笑えば、はその吉継をまっすぐと見つめ、口を開く。
「・・・・・・貴方の、奥方の、ものだったと、聞いた」
 その言葉に、吉継は笑みを収めた。
 この娘は毎日己が何を着ているのか、わかっていなかったのか。
 ・・・・・・なんとも、愉快なものだ。
「なんだぬしは知らなんだか、アレは確かに、わが番(つが)いであったおなごのものよ。まこと可笑しなおなごでなァ、ようようわれの周りをうろついていた、ちょうどぬしのようにな」
 ひくりと小さく、が肩を動かしたのが見えた。
 それを見ぬ振りで、吉継は続ける。
「めおとであるからと、何かにつけわれに近寄って、な。おかげで病に蝕まれ、死んだ」
「・・・・・・貴方の病は、ひとにうつるものではないのだろう」
 の平坦な声色に、吉継は笑う。
「あれにうつったはわが病に非ず、この病の身に巣食う不幸よ」
「不幸・・・・・・?」
「左様。ぬしも感づいておるのだろ、この屋敷に蔓延(はびこ)る疑心を。アレはみな、われの齎(もたら)す不幸よ。われはひとの不幸が見たい、常世のすべての不幸が見たい」
 引きつれたような笑いが、喉の奥から湧き起る。それをひゅうひゅうと鳴る吐息に乗せて、吉継は肩を震わせる。
 はただ静かな双眸を、吉継へと向けている。
「それが、貴方の考えか」
 大坂に来たばかりのころ、は吉継に問うたのだ。何を考えているのかと。何がしたいのかと。
 ――『われの為すこと、その目的などただひとつ。すべて義のため、三成のためよ』
 そう答えた吉継の、笑っていない、眼。
「他人の不幸を喜ぶ、それが貴方の本心か」
「嘘は言うておらぬぞ?」
 上機嫌に、吉継は答える。
「三成は、この世のすべてを憎んでおる。不幸を撒く男よ。ならば三成の思うようにしてやれば、この世の全ては等しく不幸となる」
 すべては、三成のためよ。そう付け加えると、が口を噤んだ。
 可笑しいといえばこの娘もおかしいのだ。
 好いた男と引き離されて、見知らぬ地でさぞ憂えているかと思えば、そのような様子はまったく見せない。ずいぶんと図太い神経の持ち主だ。
 だが、それもこれまで。
 これでこの娘も、己の立場というものを理解するだろう。
 この不幸の巣窟に縛り付けられた人質という立場を。
「ぬしが此処から逃げることは叶わぬぞ?何もできぬまま、ここで世の不幸を見ておれ。天の星が落ちるのを、なァ」
 しばらく口を閉ざしていたが、いちど視線を下げると、かすかに吐息した。
 そして、その双眸を、吉継へ向ける。
「・・・・・・石田殿にも申し上げたが、わたしが此処を去るのは幸村殿に嫁ぐときだけだ。石田殿といい貴方といい、何故そのようなわかりきったことに釘を刺そうとするのか、わたしにはよくわからない」
 射るような、視線。
「わたしは、己を不幸だと思ったことは一度もない。そもそも幸不幸はその受け取りかた次第と心得ている。貴方の考える不幸が、必ずしも万人にとって不幸であるとは限らないはずだ」
「それは絶望を知らぬ者の戯言よ。ぬしは同じことを三成に言えるか?同胞に最も敬愛するあるじを討たれたあの男に、それでも不幸ではないと言えるのか?」
 がわずかに眼を細める。
 吉継は、あの月下の夜、三成が猿(ましら)に対峙するのをこの娘も見ていたと、知っている。
 ぬしも見たであろ、あの男の内に秘めたる憎しみと悲しみを。そこから生まれる、禍々しき殺気を。
 それでもお前は不幸ではないなどと、言えるのか。
「・・・・・・、それは、まだ、わからない」
 はそう答えた。
「わたしはまだ石田殿のことも、徳川殿のことも、よく知らないからだ。・・・・・・だが、」
 そこで一度言葉を切って、は吉継を見据えた。
「だが、何もしない、つもりはない。わたしはわたしにできることを考えて、判断する。そのうえで為すべきと考えたことは、するつもりだ」
「・・・・・・それは威勢の良いことよな。どれ、ひとつ賭けるか?」
「賭け?」
 聞き返したに、吉継は鷹揚に頷いてみせる。
「これより先、ぬしが不幸を嘆けばわれの勝ち、そうでなければぬしの勝ちよ。簡単であろ」
 吉継の真意を量ろうとしてか、は仏頂面のまま問う。
「それに何を賭けるのか」
「それはもちろん」
 双眸を弧のかたちに歪めて、吉継は答えた。
「しあわせ、とやらを」


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20131010 シロ@シロソラ
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