第十二章 第七話

 陽が落ちれば、底冷えするような寒さが襲ってくる。
 言わずもがな、越後の冬は厳しい。この先季節が進めば雪も深くなる一方、その寒さは屋敷の畳に氷が張るほどだ。
 案内された部屋は火鉢で暖めてあったので、入るなりほっと息をついて腰を下ろすと、幸村は相手の到着を待った。
 春日山城内、直江屋敷。ここまで幸村を案内したのは上杉家の筆頭家老そのひとで、「無敵」と自称する戦場の彼を幸村も知っていたから相応に身構えていたのだが、ここで待つようにと言ってどたばたと駆けて行ったその背姿は真面目というか愚直そのもので、少しばかりの好感を抱いたのだった。
 ひとりきりの室内で、時折燭台の火が揺れるのを見つめながら、幸村は膝の上で拳を握る。
 ――緊張しているのだと、思う。
 本格的な同盟交渉は明日からということになっていたが、先方より至急会いたいとの達しがあり、旅装を解いた幸村は取り急ぎ身だしなみだけ整えてやって来たのだった。
 めったなことはないとは思うが、国境の一件のこともある。それなりに警戒もしなければならないし、さすがに槍は携えていないが、天井裏には佐助もいるはずだ。
 ・・・・・・大坂に赴いたときとは、まるで違う。
 石田軍との同盟のため西軍の門を叩いた、あのときも確かに緊張はしていた。武田の大将として、代理ではあったが一国を背負う者として、石田三成との面会に臨んだ。全てが初めてのことであり、何一つ見誤ってはならぬという圧を身に感じていた、しかし何より、幸村が感じたのは昂揚だった。戦場で強者と相対したときに少し似ているように思う。己の采配に全てがかかるのだと、そのことに、魂が昂揚するのを感じたのだ。
 ・・・・・・それが、今は。
 己の采配に全てがかかる、――そのことの意味を、あのときは、真に理解していなかったのだと、思う。
 伊達軍の急襲は小介の機転が無ければどうなっていたことか、そしてその後の戦は勝ったというには犠牲が大きすぎた。
 己の采配ひとつで、失われる生命がある。
 それを、自分は知っていたはずだった。
 そうでなければ、あの厳島の、豊臣と長曾我部の戦で、小山田信茂が生命を賭して教えてくれたことが無駄だったということになる。
「・・・・・・っ」
 ――大坂を訪れたときには、隣にがいた。
 仏頂面の中にも、緊張しているのが感じ取れたと思い出す。小田原時代のことはよく知らないが、それでも近年の北条家の動向を鑑みれば同盟交渉など初めてだっただろうと思うし、何よりあれは佐助を追って大坂城に忍び込んだ直後のことだったから、気負わないはずがなかった。
 それでも彼女は、幸村の隣に居てくれた。
 ――『わたしはたとえ微力でも、貴方を支えるひとりでありたい』
 そう言ったの、ささやかな笑顔を思い出す。
 は知らないだろう。
 あの一言が、そして隣に居てくれているということが、どれほど幸村の励みになったか。
 そこまで考えて、幸村はぐいと口元を引き締めた。
 そう、すでにことは動き始めている。
 徳川との戦に勝ってを大坂から迎えるため、そのためには上杉との同盟が必要なのだ。
 ――『ひとつ聞くぜ。アンタは何故、槍を振るう』
 好敵手の声が、頭の中に木霊した。
 ――『アンタは何故、家康を目指す』
 その答えを、幸村は未だ、
「――すまない、遅くなった」
「!」
 視線を上げると、襖が開いて待ち人が姿を見せていた。
 我に返った幸村は居住まいを正し、彼が正面に腰を下ろすのを見つめてから、礼をする。
「お久しゅうございまする、景勝殿」
「ああ、久しぶりだ、幸村殿」
 そう言って穏やかに笑んだ彼こそ、今回の同盟における重要人物。上杉謙信の養子のひとり、上杉景勝である。血筋としても上杉謙信の甥にあたることが見てわかるような、身綺麗ないでたちの青年だった。
「それにしても大きくなっていて驚いた、・・・・・・あれから十年近くも経つのだから当たり前か」
「あの頃の某はまだ童も同然でございましたから。そう言う景勝殿はあまり変わられぬようにお見受け致す」
 記憶の中の姿と見比べて、幸村はそう言った。
 もちろん少年の域を出ていなかった十年前と比べれば背丈も伸び顔つきも大人のそれとなっている、それでも、物腰や表情の柔らかさはどこか大人びていた当時から変わっていないように見えた。
「・・・・・・変わらぬように、見えるか」
「某の眼には、そう見えまする」
「そうか。・・・・・・もともと、老けているように見られたからな」
「な、何を申される!老けるような御歳ではないでござろう」
 慌てたように幸村が言うと、景勝は眉を下げる。
「――ああ、そなたは変わらぬな」
「・・・・・・?」
 その様子が、何やら寂しげに見えて、幸村は口を噤んだ。昔を懐かしんでいるのかもしれない、しかしその表情が郷愁だけを現しているようには、幸村には見えなかった。
「さて、思い出話もしたいところだが、まずはよく参られたと言うべきであろう」
 景勝の表情がもとの笑みに戻って、幸村も姿勢を正した。
「いいえ、こちらこそ、此度の同盟には景勝殿に橋渡しをしていただき、御礼申し上げる」
「それは、無事に同盟が成ってから申されるがよかろう」
「・・・・・・それは、どういう」
 聞き返すと、景勝はわずかに眉根を寄せた。
「報告は、聞いている。国境にて、早々に上杉の者が失礼を働いたとか。姫君がお心を痛めておられないとよいのだが」
 柿崎平三郎の一件と察して、幸村は頷く。
「姫様に変わった様子は見られませなんだが・・・・・・、そもそも、かすが殿たちのおかげで大事にはなりませんでしたから」
 そこまで言って、幸村は一度口を閉ざした。言葉を探すように躊躇してから、口を開く。
「その、やはり、家中は争っておいでなのでござろうか」
 幸村の問いに、景勝は小さく吐息した。
「・・・・・・ああ。恥ずかしい話だが、な」
「跡目の争いと、聞いておりまする。・・・・・・その、込み入ったことを伺いまするが、上杉謙信殿がおられるというのに、何故」
 越後からその情報を持ち帰った忍びの報告を聞いたときから抱いていた疑問を、幸村は口にした。
 当主が健在なのだから、跡目はその当主が指名すれば済むことのはずだ。当主の没後に争いになるというならまだしも、何故今、家中が争うようなことになっているのか。
 景勝がゆるりと、燭台の方へ視線を流した。
「・・・・・・信玄公の死は、我らにも大きな混乱をもたらしたのだ」
 その言葉に、幸村はひくりと眉を動かす。
「お館様の?」
 信玄の死は表向きには伏せられているが、この上杉へは元々の病状を意図的に流していたこともあり、その死が伝わっていることに不思議はなかった。
 だがそれが、家中の争いにどう関わるというのだろう。
「当家は、いくつもの一門衆が、古くより争ってきた経緯がある。このところ表立った諍いが無かったのは、ひとえに御実城様の人徳と、――そして、甲斐の虎への対抗心だ」
 幸村が見つめる先、景勝はその声色にかすかな自嘲を乗せて、言う。
「川中島の決戦にて甲斐の虎との雌雄を決す、これは上杉家中の誰もが胸中に抱く想いであった。この想いがあったからこそ、身内で争うておる場合ではないと、皆一致団結していたのだ」
 すい、と、景勝の視線が幸村に戻る。
「だが、我らが最大の宿敵であった武田信玄は、死んだ」
 その言葉に、幸村は膝の上で握る拳に力を籠めた。
 景勝はそれに気づかぬ振りで、続ける。
「あれ以来、御実城様は籠りがちであられる。今は雪の時期だからまだよいが、年が明けてもあのままであれば他国の侵略にあったときに我らは対抗できるのか、そう考える者は多い」
 そして同時に、このまま謙信が政務へ復帰しなかったときのことを憂えて、次代の当主を巡る動きが活発化してきた、幸村はそう理解した。
 ありえない話ではない。跡目の争いは武家には付き物である。それをよく知っていたからこそ、信玄は近しい家老衆を集めたうえで勝頼を跡目に指名し、息を引き取ったのだ。
「甲斐の若虎、そなたの存在は我らにも脅威であった。だから、同盟の話は当家としても有難い申し出だったのだ」
 そう言う景勝の穏やかな表情を、幸村は真っ直ぐと見つめる。
「・・・・・・此度、武田には景勝殿から頂いた書状の他、上杉景虎殿からも書状をいただいてござる」
 景勝は、特に驚いたような様子もなく答えた。
「真田の忍びは優秀だと聞いている、ならば知っておられるのだろう。その景虎殿こそ、家中を乱している張本人だ。・・・・・・義理とはいえ我が兄であるから、身内の恥を晒すようで難だがな」
 苦笑めいたように付け足してから、景勝は笑みを収めて、幸村を見据えた。
「此度の同盟は、我が家中の諍いを収めるためにも重要なものとなる。そなたの力が必要だ。手を貸してほしい、幸村殿」
 景勝の言葉にわずかに肩を動かして、そして幸村はうろりと視線を彷徨わせた。
「同盟は、武田の望むところにござれば、某もそのお役目を果たす所存、・・・・・・なれど、」
 そこで言い澱む。
「なれど、某には景勝殿にお貸しできるような力などは・・・・・・、それは買い被りにござる」
 己の身の内にあるのは、迷いばかりだと、幸村は思う。
 悔しい、情けない、それだけが頭を巡って、がりと奥歯を噛みしめる。
 その様子を見て、しかし景勝は穏やかな声色を変えることはない。
「神流川の戦いのことならば聞き及んでいる。多くの犠牲を出したと。だがそれは、そなたの義のために必要なことだったのだろう」
「・・・・・・っ」
 景勝のその言葉に、しかし幸村は答えることができなかった。


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20130930 シロ@シロソラ
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