第十二章 第六話

 しばらくは担がれるように運ばれていたが、雪の上に降ろされてとりあえずは一息ついた。どんな理由があれ、木々の間を飛ぶ忍びに担がれるなどということは、あまり気持ちの良いものではない。
 両手を拘束されていながら、柿崎平三郎の心中は穏やかであった。
 しばし想定外のこともあったが、大筋は手はず通り。
 ・・・・・・それにしても、まったく面倒なことだ。
「――ごくろーさん」
 視線の先に現れた姿に、柿崎はこっそり吐息する。
 軒猿たちはその男に一礼すると柿崎だけを残し、その他の者たちを連れて姿を消した。
 彼らについては、気の毒ではある。選別したのは柿崎ではないが、どちらにしろ命は無いだろう。
 そう考えながら、その場に残された柿崎は、口元に笑みを張り付けた。
「いや、肝を冷やしたぞ。血のにおいなど嗅ぎつけられるとは、思わなんだ」
 言いながら、その男に歩み寄る。さくさくと、雪を踏む音が鳴る。
 男が一歩、こちらに歩み寄った。
 そういえば軒猿にしろこの男にしろ、雪の上を歩きながら音をたてない。草の為せる業であると知識として知ってはいても、気味の悪いものだ。
「そりゃ、仕方ないでしょ。アンタ臭いもん」
 当然のようにそう言われたので、流石に腹がたった。
「・・・・・・あまりいい気になるなよ、お前など所詮、」
 柿崎の声は、そこで途切れる。
 たいした衝撃も、痛みも、なかった。
「な・・・・・・、に、」
「アンタも馬鹿だねェ」
 酷薄な声が聴こえる。恐る恐る視線を落とせば、胸元に鈍く光るクナイが突き立っている。あまりに綺麗に刺さっているものだから、ほとんど血が流れていない、それゆえに自分の眼に映るその光景が現実であると理解できない。
「そん、な、話が、」
 ――話が違う。
 こんなはずではない。事が済めば己の身は安泰だと、そう聞いていたのに、
「アンタみたいな害虫を、ダンナの視界に入れるわけにはいかないんでね」
 吹けば飛ぶような薄っぺらい声色だった。
 その言葉を聞いたのを最後に、柿崎の意識は、途切れた。







 越後の国は春日山、小雪のちらつく中、その麓の屋敷には怒声が響いていた。
「――なんと、柿崎殿が!?」
「手打ちにあったとはどういうことだ!」
「何かの間違いではないのか、『あちら』の使者を殺しただなどと・・・・・・」
「もしやこれも、『あちら』の謀ではないのか!?何にしても、近ごろのやり方はあまりに身勝手が過ぎよう」
「その通りだ!そもそも此度の同盟交渉は殿に任されると、御実城(みじょう)様も認められたではないか!中城殿はあまりにも身勝手ではあるまいか!?」
 まさに侃々諤々(かんかんがくがく)、部下たちが声を荒げて言いあうのを、彼はただ静かに、見つめている。
「やはりこのまま手をこまねいていては殿の立場が悪くなるばかりではないのか」
「実城から殿を追い出すだけでは飽き足りぬとは・・・・・・!この先何を仕掛けてくるか、わかったものではございませぬぞ!」
 彼はひとつ息を吐くと、口を開いた。
「皆、落ち着いてくだされ。過ぎた言葉は何の益にもなりませぬ」
「しかし!」
「柿崎殿のことについては、至急真偽のほどを確かめよう。何事も無ければ良いが、今の段階では何とも申せぬ、そうでござろう」
 それを聞いて、部下たちは顔を見合わせ、口を噤んだ。
 彼らを見渡して、続ける。
「この御館(おたて)は関東管領館としてその管理を某が任されたものでござる。実城を出てこちらに居を構えたのもそのためなれば、何もおかしいところはござらぬ」
 先ほど「実城から追い出すだけでは」と口にした男が、気まり悪げに頭を下げた。
 それを見て、彼はふと口元を緩める。
「皆が某のことを案じてくださることにはまこと感謝をしておりまする。此度の武田家との交渉に関しては、確かに景勝殿のやりようにはわからぬところもござる、それゆえ近く御実城様への目通りを願い出んとしておりますれば、もうしばらくお待ちいただきたい」
「・・・・・・もはや、あまり猶予はございませぬぞ。ここを見誤れば、最悪の事態も、」
 膝をにじりよせるようにしてそう言う部下に、「うむ」と頷く。
「わかっておりまする。しかし、何より我らに必要なのは、御実城様のもと一致団結すること。それを、皆にも今一度、ご理解いただきとうござる」







 濡縁に出れば、ただしんしんと雪が降るだけの、静寂の世界だった。
 先ほどまでの言い合いがまるで嘘のようだと、白く染まった吐息が消えゆくのを見つめながら思う。
「――まったくどいつもこいつも五月蠅いったら。ダンナが動かないっつってんだから大人しく従っておけばいいものを」
 間延びしたような声が聞こえて、視線を持ち上げた。ここからは見えないが、軒先に気配がある。
「お前か」
「報告だよ。武田の皆さんは無事に越後に入った。明日にはここまでたどり着くよ」
「そうか。その、柿崎殿のことは」
「今確認中。けどあんまりいい予感はしないね」
「・・・・・・そうか」
 そこで口を閉ざす。
「・・・・・・あれ、聞かないの?」
 揶揄するような響きがあって、小首を傾げる。
「何をだ」
「何を、って、気にしてるくせにー。姫君ならご機嫌麗しいご様子だったよ?」
「!」
「ちょっとごたついたけど気にしてないみたい。流石は甲斐の虎の姫サンだよ」
 それを聞いて、気取られないように安堵の息を吐く。
「やっぱ気にしてた」
 気取られたらしい。
「お前な」
「でも実際、どーすんの?正直もう、話が進んじゃったらどうしようもなくなるぜ?ダンナはそれでいーの?」
「・・・・・・っ」
 ぐいと拳を握りしめる。
 どうすべきかなど、言われるまでもなく、何度も考えたのだ。
「アンタが一言命じてくれれば、いくらでも動くのに」
 軒先から聞こえるその言葉に、一度眼を伏せる。そして、
「――、」
 彼は、言った。













 かすが達の案内を受けてからは、特に不穏な動きは無く、武田家の特使団が春日山城に辿りついたのは、その日の陽も沈む頃であった。上杉謙信への目通りや同盟の為の会議は明日にということで、一行はひとまず城内の屋敷の一角を借り受けて、身を落ち着けることとなった。
 そしてその屋敷でも特に厳重な警備が敷かれた一棟が菊姫や侍女たちの居室である。これから幸村が表に立って上杉方との交渉を行い、無事に同盟が成った暁には、いよいよ上杉景勝と祝言を挙げることとなる。
「それにしても、本当にきつい道でございましたねぇ」
 菊姫の旅装を解く手伝いをしていた侍女が、着物を畳みながらそう言って嘆息した。その着物を受け取ったもうひとりが、眉を下げて頷く。
「ええ、このような山とは思いませんでした。姫様、身体はお辛くはございませんか?」
「いいえ、わたくしは輿に乗っていただけなのだから大丈夫よ。あなたたちもお疲れでしょう、今日は早めにおやすみなさいな」
 そう言って侍女たちを下がらせたあと、ひとりきりになった菊姫は、一息ついて文机の方へ視線を向けた。
 そこには、たくさんの荷物の中でもこれだけはと、手ずから大切に運んできた文箱がある。
 紅の色の紐を解き、そうっと蓋を開けると、中には幾通もの文が入っている。
「・・・・・・三郎様」
 目を伏せれば、あの日の光景が、昨日のことのように思い出された。
 ――『菊姫!』
 躑躅ヶ崎の春で、満開の桜が、視界を埋め尽くすほどだった。
 花と、緑のにおいのする風が吹いて、ひらひらと、薄紅色の花びらが舞う、その向こうから、走ってくる、少年の姿。
 ――『菊姫!』
 少年はその日、甲斐を発つのだと聞いていた。もう会えないのだと、幼心に理解はしていたのだ。父が、少年の出自である北条家と、いつまた戦火を交えぬとも知れなかった。いくさとは恐ろしいものだと、菊姫は知っている。彼のことはもう、忘れなければならないのだと、思っていた。
 なのに。
 ――『三郎様、どうして』
 ――『出立のまえにどうしてもと、わがままを言ってしまい申した。菊姫に、お話ししたきことがございましたので』
 ――『おはなし?』
 聞き返したら、少年は笑った。
 ――『それがしは、きっと立派な武将となりまする!そうしたら、菊姫を迎えに参りますゆえ、』
 菊姫は、彼の笑顔が、いっとう好きだった。
 ――『どうかこの三郎の、妻になってくだされ』
 実はあのとき、どう答えたのか、よく覚えていない。
 ただ、とても、嬉しかったということだけは、こころに残っている。
「・・・・・・でも、叶いませんでしたわね」
「――叶えてあげよっかー?」
 独り言のはずだったのに、場違いに間延びした声が聞こえて、菊姫はがばりとそちらを振り返った。
 締め切った襖の傍、灯明のあかりが届くかどうかというところに、ひとりの男が膝をついている。顔がよく見えない。
「・・・・・・何者です」
 驚きであげそうになった悲鳴を噛み砕いて、菊姫は用心深く声を出した。
 その様子に、男がひょいと肩を持ち上げる。
「さっすが、ダンナが眼に掛けるだけあるわー、かわいいうえになかなか賢いじゃないの菊姫ちゃん」
 軽薄な物言いに、菊姫は眉をひそめる。
「ひとを呼びますわ」
「あー、ちょっと待ってちょっと待って!オレサマは確かに怪しいけどさ、ダンナのことは信じてほしーんだわ」
 そう言って、男が懐から取り出したのは、文だと見えた。
 差し出されて、菊姫は男を睨みながら、それを受け取る。広げて、その署名に眼を見開いた。
「・・・・・・まさか、」
「ま・信じる信じないは、菊姫ちゃんのご自由だけど?」
 文を持つ、手が震える。
 署名もさることながら、この文は。
「だって・・・・・・、この手蹟は・・・・・・」
 ちらと文箱に視線を投げる。
 そう。
 この手蹟は、見間違えない。
 あれから何年もたって、自分も大人と言える歳になった。
 武家の姫君のなんたるかを理解して、だからあれは初恋のうつくしい思い出としてこの文箱のように大事に仕舞っておいた、それでも夢に見るくらいはと、何度も読み返した、文の。
「悪いんだけど、あんまり考える時間あげられないんだわ、」
 男がばつの悪そうに頭を掻いて、そしてこちらを見た。
 よく見えない顔の中、その双眸だけが、剣呑な光を帯びる。
「さァて。どうする?菊姫ちゃん」


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「御実城様」は上杉謙信を指す呼び名です。
20130917 シロ@シロソラ
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