第十二章 第五話

 その日、義父の執務室を後にしたは、自室に続く回廊をぼんやりと歩いていた。
 すでに陽は傾き、風が冷たい。ときおり膳を運ぶ女中の姿が見えて、食事を共にするために淀が待ってくれていることを思い出して足を速めた。その途端、着物の裾を踏んでつんのめる。
「っ、」
 すんでのところで踏みとどまって、息を吐く。周りに誰もいなくてよかった。
 おなごは、――武家の女は、いかなるときも気を荒立てないこと。作法の習い始め、まず最初に淀から言われたことだ。それは当然こころの持ちようのことであるし、そして立ち居振る舞いのことでもある。女の着物を着ているときは、走るなどもってのほか。そう繰り返し言われたのだった。
 そう、女の着物を、着ているときは。
 思い至って、は己の着物を見下ろす。
 これは、大谷吉継の、奥方のもの。
 そうであるならば、色や柄が落ち着いているのも得心がいった。未婚の姫君の着物ならば、もっと華やかだったのだろう。
「・・・・・・」
 今しがた、吉継の顔を見てきた。今日は特別忙しかったのか会話はなく、はただ文机に向かう義父の背を見つめただけだった。
 ・・・・・・何も、聞けなかった。
 いや、何を聞こうというのだろう。この着物が本当に亡くなった奥方のものなのか確かめるのか。奥方の人となりを尋ねようとでもいうのか。それを聞いて、どうするつもりなのか。
「あんまり深入りしないほうがいいんじゃないっすか」
「・・・・・・鎌之助」
 振り返れば、いつの間にかそこに鎌之助が立っていた。
「大谷や石田の事情に首を突っ込むのは、さんのやるべきことじゃない、違いますか」
 いつになく真剣な表情だった。どこかで見たことがあるような気がして、思い返せば、それはかつての家臣・一郎の表情だ。彼が自分に苦言を呈するときの顔に、よく似ている。
「・・・・・・つまりわたしを諌めてくれているのか」
 聞くと、それまでの眉根を寄せた表情が一転、鎌之助は慌てふためいて視線を泳がせた。
「いっ、いや、その!ほら、さんは幸村様のことだけ考えてりゃいーんですよ、ね?」
「・・・・・・それで、何かあったのか」
 鎌之助の言葉には答えずに、はそう言った。
 が吉継のもとを訪れるときは待機しているはずの鎌之助がわざわざ姿を現したのだから、何か用向きがあるのだろうと予想された。例えば、佐助から急の報せが届いたとか。
「ああ、その、長から連絡がありまして」
 予想は当たったらしい。鎌之助が懐から小さく折りたたまれた紙片を取り出す。
「すんません、さんに聞かないとわからないもので」
「わたしに?」
「はい、えーと、『北条三郎』って人のこと。できるだけ詳しく教えてほしいって。しかも至急」
 鎌之助が口にした名に、はわずかに眼を見はった。
 その表情の変化に、鎌之助の方が驚いたような顔をする。
さん?」
「・・・・・・いや、懐かしい名だと、思って」
「懐かしい?」
 聞き返しながら、鎌之助がに紙片を差し出す。確かに、鎌之助の言ったとおりの、短い内容だった。
さんに聞けってくらいだから、北条家のひとっすよね?何で急に」
「・・・・・・三郎様は、――確か、上杉におられるはずだ」
「上杉、っすか」
 鎌之助の相槌には一度瞬いて、紙片を返した。
「歩きながらでもいいか?淀殿をあまりお待たせするわけにいかない」
「了解っす、でも気を付けてくださいね?」
「何をだ」
さん一度にいろいろ考えるのあんま得意じゃないっしょ?こけないように気を付けてください」
 馬鹿にしているのか、そう言いかけて、は口を閉ざした。確かに鎌之助の言ったことは誤ってはいない。
「・・・・・・、」
 鼻から短く吐息して、は口を開いた。
「三郎様は、北条家の先代・氏康様のお子で、御歳こそ離れておられるが、御本城様、――氏政様の弟君にあたる。確か一時は武田におられたはずで、その後北条に戻ってきたのだった。氏康様の頃に北条家が上杉家と同盟を為した折、上杉へと移られたから、わたしが城でお見かけすることがあったのはほんの数年であったが、誰にも分け隔てなく接してくださる方で、当時ほとんど童同然であったわたしにも優しく笑いかけてくださったから、あの御方が北条を去られて寂しい思いをしたのを、覚えている」
 そこまで一息で言って、はかすかに眼を細めた。
「そうだ、・・・・・・どこか、幸村殿に似ておられたな」
 北条三郎は上杉謙信の養子として越後に移ったのを、も覚えている。氏政の代になって北条と上杉の同盟は破たんしていたのだが、それでも越後で健在であると聞き及んでいた。何より、武田との戦が避けられなくなったときに当時だったが上杉との再同盟を考えたのは、彼の存在があったからだ。
「幸村様に似てるって、さんそれちょっと美化してません?」
 わずかに呆れたような鎌之助の声に、は仏頂面で答えた。
「何だ、できるだけ詳しく、なのだろう。わたしはわたしの知る限りを話しているだけだ」
 そっすか、とわかったのかよくわからない返答をした鎌之助を軽く睨んでから、は前方に視線を戻す。
 北条三郎、上杉家に養子入りした後は「景虎」と名乗っていると、聞いていた。
 ――佐助は何故、彼についての情報を求めているのか。
 佐助は、そして幸村は、今頃越後へ、上杉との同盟に向かっているはずだった。
 ・・・・・・上杉で、何か起こっているのか・・・・・・?
 その考えに、ひゅうと冷たい風が背筋を撫でたような、気がした。










 その頃、幸村率いる武田の特使、菊姫の婚礼行列の一行は、海津城を発ち北国街道を北へ、いよいよ上杉領へ踏み込んでいた。
 すでに薄らと積もった雪が、この後やがて深くなっていくのだろうと幸村は考える。戦の無い冬の時期でなければ武田の総大将である幸村自身が動くような同盟交渉はできないとはいえ、雪に阻まれて春日山に辿りつけないなどということになってはいけない。今のところは馬の足取りも問題はなさそうだが、先を急いだ方がよさそうだった。
「――幸村様」
「うむ」
 傍らを行く部下の声に、幸村は頷いた。
 視線の先、下馬してこちらに礼をする数人の男の姿がある。
 隊列に止まるよう伝えると、幸村はひらりと馬から降りた。
「某は甲斐武田、真田源二郎幸村。貴殿らは上杉殿の使いにござるか」
 幸村の名乗りに対し、一人の男が歩み出る。身なりからしても、この男が彼らの頭であると思われた。
「上杉家家臣、柿崎平三郎と申しまする。これより先は雪深く道も荒れて参りますゆえ、案内を任されましてございます」
 そう言って、柿崎と名乗ったその男は深々と礼をした。幸村は表情からわずかな警戒を解いて、頭を下げる。
「おお、かたじけのうござる。よろしゅうお頼み申す」
「なんの、礼には及びませぬ。特に姫君にはきつい道のりになるであろうと、我が主も気にかけておりますゆえ」
 では先を急ぎましょうぞ、そう言って、柿崎は人の好い笑みを浮かべる。  その笑顔に、幸村はかすかな違和感のようなものを感じ、
「――ちょっと待った」
 幸村と柿崎を隔てるように、闇色の残滓を滲ませた佐助が現れた。
「佐助」
 驚いたように、幸村がわずかに眉を持ち上げる。
 この隊列には佐助を始め忍びが何人も紛れているが、こうして表に姿を現すことはまずない。畏くも主家の姫君の婚礼行列である、忍びが周りをうろつくことにいい顔をしない者も多いのだ。
 だからこそ、佐助が姿を現したということは、つまり非常事態ということだと幸村は理解して、わずかに身構える。
 忍びの出現に驚いて後ずさった柿崎の顔を覗きこむように、佐助がゆらりと動く。
「な、何だお前は!?」
「誰かさんじゃないけどさ、アンタ程度のにおいなら俺様にも嗅ぎ分けられる」
 わざとらしく鼻を鳴らしてから、佐助は嫌そうに鼻の頭に皺を寄せた。
「アンタ。ここに来るまで何人殺してきた?」
「な・・・・・・っ!?」
 柿崎の顔色が、明らかに変わるのを、幸村は見た。
「ここまで近づいてみたら鼻が曲がりそうだわ、」
 佐助の足元には、ずるずると闇色が蠢いている。
「――血のにおいで」
 一瞬言葉を無くした柿崎が、慌てて腰の刀に右手を伸ばす。
「な、何を無礼な!草風情が何をッ」
「柿崎殿、」
 幸村が留めるように声をかけ、しかしさらに顔をしかめた柿崎の鼻の先を、何かが掠めて光った。
「ひッ!?」
 とん、と音を立てて近くの木の幹に突き立ったのは、クナイだ。
「っ!?」
 幸村が背の二槍に手をやり、佐助が両腕に大手裏剣が現れる。
 次いで、武田の武者たちが一斉に馬を降りて抜刀した。
「何者だ!」
「忍びか!?」
 武者たちの声に幸村は槍を構えて鋭く言う。
「狼狽えるな!姫様の御身をお守りしろ!!」
 柿崎をはじめとした上杉の使いの者たちも慌てたように揃って抜刀し、
「――そこまでだ」
 その涼しげな声とともに、木々がざわりと葉擦れの音をたてて、複数の気配が現れた。忍び装束だ。
 彼らは柿崎たち上杉の使いを無言で拘束していく。
 佐助が息を吐いて、大手裏剣を収めた。
「連れて行け」
 忍びたちに指示をするのは金の髪をなびかせるくのいちだ。幸村も面識があった。
 くのいちの指示を受けて、忍びたちは拘束した柿崎らもろとも姿を消す。
 ひとりその場に残ったくのいちが、こちらを向いた。
「・・・・・・見苦しいところを見せた。この先道案内は我らが預かりうける」
「お久しゅうござる、かすが殿。いつも佐助が世話になっておりまする」
 構えを解いた幸村は、槍を背に戻すとそのくのいち、かすがへ頭を下げて礼をした。
 かすがは一度佐助を睨んでから、視線を逸らす。
「別に、世話などしていない」
 その様子に幸村は小さく首を傾げてから、幸村は気を取り直してかすがへ声をかけた。
「・・・・・・しかし、これは一体、如何なる次第でござろうか?先ほどの柿崎殿は上杉殿の使いではなかったのか」
「失礼を働いたことには謝罪する。だがこれは、上杉の家の問題なれば」
 幸村の問いに、かすがは仏頂面でそう答えた。
 佐助が、へらりと笑って言う。
「ちょーっと、それはないんじゃない?こちとらだーいじな姫サンを嫁がせようってんだ、危険があっちゃ困るンだけど?」
 幸村からは見えないが、佐助は恐らく、眼だけが笑っていない例の表情で、かすがを見ているに違いなかった。
 かすがはその佐助をぎらりと鋭い視線を送ってから、ぽつりと答えた。
「・・・・・・私は、それを話す立場ではない」
 頑なな様子でそう言って視線を逸らしたかすがに、佐助は肩をすくめる。
「ま・とりあえず進みますか、こんなとこでちんたらしてたら陽が暮れちまう」
「うむ、そうだな」
 幸村は頷いて、隊列に指示を送る。
「にしても、ずいぶん切羽詰まった状況みたいだね」
「・・・・・・そのようだな」
「一応こっちも、警戒はしてるけど。くれぐれも気を付けてね」
「うむ」
 幸村が答えるのを聞いて、佐助は姿を消す。
 上杉家の家督相続の争いは、今回の同盟に何かしら影響を与えるだろうと、幸村もわかってはいたのだが、まさか上杉領に入って早々に不穏な動きに接するとは思っていなかった。
 事態は想像以上によくないらしい。
 今は何よりも、菊姫の身の安全が第一である。幸村は隊列の中ほどに位置する菊姫の輿のほうを見てから、馬に跨った。


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20130905 シロ@シロソラ
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