第十二章 第四話 |
時折吹き抜ける風が、冷たく頬を撫でていく。 見上げれば、曇った刃のような色の、空だ。陽の光は弱く、淡い。 大坂城の、二の丸から本丸御殿へ続く石畳の広場、その一角に立つは、天を見上げていた視線を降ろした。 今だけは袴を穿き、腰には刀を差している。三日に一度、五助から許可を得た、鍛錬の場だ。少し離れた場所では、足軽兵たちが模擬槍を振るう掛け声が響いている。そういえば、豊臣軍は領民を常に兵として雇い、平時から訓練をさせているのだったと、は思い出していた。――その結果、領内では働き手である若い男が不足し、残った老人やおなご、子どもたちを苦しめている、それを目の当たりにした記憶は、まだ新しい。 「・・・・・・」 流れかけた思考を留めるように、息を吐く。 視線を巡らせれば、一段高くなっている石畳の上に毛氈を敷いて、腰を下ろしている淀の姿がある。初めて顔を合わせてから数日、淀は何かとを気にかけてくれていて、食事を共にしたり、着付けを手伝ってくれたり、そして鍛錬の際にはこうしてを眺めているのだ。刀を振り回す様など見ても面白くはないだろうし、何よりかなり寒くなってきている。そう言っては止めたのだが、淀の返事は「だって、他にすることが、ないもの」。やむなく五助に相談し、淀が座れる場を設えたのだった。姿は見えないが、どこか近くに鎌之助もいるはずだ。おそらくは自身の立場を気にしてのことだろう、彼は他に誰かがの傍にいるときは、あまり姿を現さない。 もう一度吐息して、視線を前方に向ける。 そこには誰もいないのだけれど、相手が居ると仮定する。・・・・・・そこに、二槍を構えた、幸村が居るのだと。 ゆっくりと重心を落とし、左の親指で鯉口を切る。 「――!」 ひゅ、と喉から息が漏れたのを合図に、石畳を蹴る。仮想の幸村は構えたまま。いつもそうだ。彼はが相手の鍛錬ならば、まずその場を動かない。力量の差を考えれば当然なのだが、はいつも、それが少し悔しい。 抜刀の鞘走り、そのまま空を斬る音。難なく槍の柄に阻まれて、しかしそれを予想していたは身を反転、追撃をかける。幸村との手合せなら風は使わない。 何度か交差を繰り返し、ことごとく阻まれる刃筋を引き戻し、わずかな隙に誘われて踏み込んで、そこで深追いしすぎたと気付く。 「っ!」 勢いを殺しきれず、刀を振りぬいてがら空きになった腹を、槍の柄がとん、と軽く突く。ここが戦場で幸村が本気なら、胴体は真っ二つだ。「惜しかったな」と、笑み交じりの声が、聞こえた気がした。 「・・・・・・、」 溜めていた息を長く細く吐き出す。身体が温まったせいだろう、吐息は白く染まって、それが消えていくのを見つめてから、は体勢を戻すと刃を鞘に納めた。 さあもう一勝負、視線の先で幸村が笑って、 ――その気配を感じ取って、幸村の姿が霧に溶けるように消えた。 「おい、貴様」 声が聞こえて、ゆっくりと振り返る。 その姿は感じた気配の通りではあったのだけれど、しかしこの場に現れたことに驚いて、はわずかに眉を動かした。 「・・・・・・石田、殿」 石田三成と顔を合わせるのは、幸村とともに武田の特使として相対した、あのとき以来だ。 そのときと寸分たがわず、相変わらずの戦装束で、右手に刀を提げている。吊り上がった眼が、まるでその視線で射殺そうかとでもいうように、を見据えていた。 三成がこちらに見せつけるように、刀を右手から左手に持ち替える。 「構えろ」 「!」 その言葉に、の身体は反射のように動いて、右手を刀の柄に添えて重心を落とした。 ・・・・・・何だ、 思考が追いつく前に、ゆらりと体勢を傾かせた三成が、 ――の視界から、掻き消えた。 咄嗟に抜いた刀が、三成の一閃に正面からぶち当たり、硬質な音が耳を劈いた。 「――ッ!!」 幸村程ではないにせよ、一撃が重い。受けきれないと判断して、は背後へ跳び、 「っ、」 こちらの懐に滑り込むような三成の追撃、無理な体勢がさらに崩れる。 はわずかに眼を細めると、足元で風を爆ぜさせて、三成の脇をすり抜けるように低く跳んだ。 ・・・・・・速い! 三成の戦いならば、あの月下の夜、のちに分身と分かった佐助を斬り飛ばすのを、は見ている。 あのときにも、恐ろしく速い剣閃に戦慄したのだが、実際に我が身に受けてみればその速さはさらに段違いだった。 風なしでは到底敵わない。の耳元で、轟と風が巻く。何故三成が自分に刃を向けているのか、考えるのは後だ。 陣風に乗って、石畳を蹴る。途中、石畳が砕けた箇所が視界に入った。三成の、先ほどの初撃の踏込の跡だ。なんという脚力だろう。 三成が重心を落とすのが見える。 後手に回っては、崩される一方だ。力で敵わないなら、速さで。動きの速さだけではない、思考もだ。二手先三手先を読まなければ、対等に渡り合えない。 三成の抜刀、そして納刀。の眼にはそれだけの動きに見えるが、その技ならば佐助相手のときにも見た、そう思って宙に飛ぶ。予想したとおり、一瞬前までほたるが居た場所を斬撃の軌跡が幾重にも走って、石畳を削っていく。抜刀から納刀までの間に常人には追いきれない速さで刀を振るっていたのだ。 ・・・・・・なんて、うつくしい。 抜刀、剣閃。眼に追いきれぬものもあるとはいえ、それは全て剣術の基礎に則った、うつくしい動きだった。つまりはその太刀筋、尋常ならざる速さもすべて、彼の努力の賜物だということなのだろう。 「ふ、――ッ!」 鋭く息を吐いて、刀を振り下ろす。阻まれることは承知で、その動きの勢いを使ってさらに飛ぶ。宙で風の塊を蹴って体勢を整え、追撃を躱す。 空中戦ならば風使いのに分があるはずだ。これならば互角以上の戦いができるだろうか、 ――考えたの眼前に、三成の姿があった。 「!?」 まだ間合いの外だったはずなのに、何故、 ・・・・・・違う、考えるのは後だ! 躱せるかもしれない、だが躱した後の斬撃には恐らく対応できない。 ならば、 「!!」 がりと奥歯を噛みしめて刀を振るう、両手で柄を握ったうえに風の動きも重ねた渾身の一撃だ、三成の刃にぶつかって散った風が頬を裂くように走り抜ける。 「・・・・・・っ、く!」 しかし三成は顔色一つ変えない。やはり力比べでは敵わないか、そう考えた次の瞬間、――視界に薄曇りの冬空が広がった。 弾き飛ばされたのだと理解したのは、背から石畳に叩きつけられたときだった。 「ぅ・・・・・・、」 なんとか立ち上がる。受け身をとることもできなかった。まともに打ちつけた背や肩が、痺れるように痛む。 それでも刃を鞘に納め、抜刀の構えをとろうとしたの視線の先、呼吸ひとつ乱した様子の無い三成が、叩きつけるように納刀した。 「・・・・・・?」 その双眸は、感情を読みにくい。もうこちらに関心を無くした、ということだろうか。 わずかに眉をひそめてそう考えたが、背と肩の痛みを噛み殺して構えを解いたところで、三成が口を開いた。 「貴様、何のつもりだ」 「・・・・・・何、とは」 質問の意味を測りかねて、は静かに問い返した。 「毎日、刑部の前をうろついていると聞いた。貴様は私が家康を殺すまでただ此処に居ればいいだけの存在だ。何故刑部につきまとう、答えろ」 三成の声は、変わらず刃のようだ。正確に首筋に当てられた刃のような。こちらの返答如何によっては即斬り捨てるとでも言うような。 しかしその問いに、が返答を悩むようなことはない。 なぜなら。 「それは、わたしが大谷吉継の、娘となったからだ」 それ以外に、理由など、無いから。 「己の父が、何を考え、どうしているか。それを知りたいと思うのは、娘のわたしには、当たり前のことだ」 冷たい風が、二人の間を吹き抜けていく。 三成が、一歩前へ、踏み出した。そのままの方へ、歩み寄る。 いつの間にか足軽兵たちの鍛錬の掛け声は聞こえなくなっていて、ただ三成の具足がたてる固い音だけが、響く。 ついに三成の足は、の間合いに踏み入る。それを、は一切の表情を動かさずに見つめる。 「・・・・・・その言葉に、偽りは無いな」 眼前で立ち止まった三成を、は見上げた。こうして近づいてみれば、かなりの長身だ。 頭一つ以上は高いところにある双眸を真っ直ぐと見つめて、は言う。 「貴方に嘘を言う理由がない」 「ならば誓え」 ぐっと三成が刀を持ち上げる。いつでも抜けると、に見せつけるように。 「刑部を裏切るな。何があっても刑部のもとを去らぬと誓え」 例えるなら氷のような眼だと思った。 どこまでも冷たく凍てついていて、透明で感情が無い。 それでも、恐ろしいとは、思わなかった。 彼の正確無比な剣閃と同じように、うつくしいとすら思いながら、は答える。 「・・・・・・貴方も知ってのとおり、戦が終わればわたしは真田幸村殿に嫁ぐ身だ。そのときには父上のもとを離れることとなるが、その後も、あの方は、わたしの父だ。そのことは、変わらない」 その言葉に納得したのかどうか、三成は刀を降ろした。 そして最早など眼中にないとでもいうように、くるりと踵を返し、具足の音をたてながら歩いて行く。 「・・・・・・」 はその背姿を無言で見つめ、 「――おい」 三成が立ち止まった。 「貴様は、風のバサラ持ちか」 今度は何を言い出したのかと考えながら、は訝しげに眉を動かす。 「・・・・・・そうだ」 三成はこちらを向きもせず、一呼吸ほどの間を開けて、言った。 「・・・・・・動きに、無駄が多い。速さを求めるなら、正しく場を認識しろ。常に周囲の把握を怠るな」 「!」 が、眉を持ち上げる。 三成はそれだけ言うと再び足を進めようとし、 「ご指導、痛み入る!」 その背には声をかけた。 「また、手合せをお願いできるだろうか?」 三成は顎を引くようにして振り返り、を一瞥する。 「・・・・・・好きにしろ」 そう言い捨てて、三成は今度こそ足を進め、行ってしまった。 長身の背姿が見えなくなるまで、は三成を見つめ続ける。 「・・・・・・手。冷たく、なってる」 「淀殿」 手を握られて我に返ると、すぐ隣に淀がいた。 「風が、冷たくなって、きたわ。そろそろ、戻りましょう」 そう言って、淀は三成が歩いて行った本丸の方に顔を向ける。 「・・・・・・石田治部に、あそこまで啖呵をきれるのは、姫くらい、でしょうね」 「・・・・・・啖呵を切ったつもりはないのだが・・・・・・」 言葉を濁しながら、は淀の視線を追った。大坂城が誇る、絢爛豪華な本丸御殿と、その背後にそびえる天守閣。 「・・・・・・石田殿は結局、何をしに来られたのだろう。父上を裏切るなと、それを言うためだけにわざわざ来られたのだろうか。まさかわたしに稽古をつけに来たのでもないのだろうし」 の、独り言のようにつぶやいた問いに、淀はゆっくりと瞬きをした。 「・・・・・・これ以上、大谷刑部を、苦しめたくないんじゃ、ないかしら」 「『これ以上』?」 視線を淀へと戻す。鸚鵡返しに問うと、淀もこちらを向いた。 「あら、知らなかった?」 何をだろうかとは淀を見つめ返す。 「大谷刑部には、奥方がいたの」 「・・・・・・、『いた』・・・・・・?」 「ええ、亡くなったわ、少し前に」 「!」 がわずかに眼を見はった。淀はとらえどころのない表情を変えないまま、続ける。 「お腹に、ややが、いたの。とても残念な、ことだったわ」 「・・・・・・」 ぐいと眉根を寄せたは、そして、思い至った。 五助の言葉。 初めておなごの着物を用意されたあの日の、こんなに多くは借りれないとが言ったときの返事の言葉。 ――『これらの元の持ち主はここには居りませんので、心配はご無用です』 「もしや、わたしが着ている着物の、持ち主は、」 「色柄が、同じだとは思っていたけれど、やっぱり、そうなのね」 五助は、何を考えているのかしら。淀は吐息交じりにそう言って、眉を下げた。 その顔を見て、やはりそうなのかと、は確信する。 の着物が仕立てあがるまでと、借りているあの着物は。すべて、大谷吉継の、奥方のもの。 「・・・・・・の方と、いってね」 ぽつり、と淀が言った。 「・・・・・・え、」 「あなたと、同じ、名前なの。なんの、因果、かしらね」 |
「治部(じぶ)」というのは、「刑部」と同じ、役職名です。 20130830 シロ@シロソラ |
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