第十二章 第三話

 長く厳しい冬が、北信濃にも訪れていた。
 本日の宿となるこの海津城の城代に挨拶を済ませた幸村は、濡縁に出て思わず立ち止まった。足裏から伝わるのは凍みるような冷たさだ。視界を何かが横切ったような気がして視線を動かせば、ちらちらと雪が舞っていた。庭園にもうっすらと雪化粧が施されていて、これは根雪になるのかもしれないと考えた。
 上杉との同盟を任されて、同盟の証となる姫君の婚礼行列を伴って躑躅ヶ崎を出立し、約半月。ここが武田領最後の城で、明日からはいよいよ上杉領に足を踏み入れることになる。
「大将」
 呼ばれて振り返れば、そこに佐助が膝をついていた。
「佐助」
「全員城に入ったよ。馬も休ませてるし、荷物の方も問題なし」
「そうか、姫様は?」
「お部屋は暖めといてもらったし、ご機嫌も麗しい様子だったよ」
「それならよいが、かなりの強行軍だ。お疲れが出なければよいのだが」
 気遣わしげに吐いた息は、白く染まった。
 幸村の様子を見上げて、佐助はへらりと笑う。
「あの大将が、おんなのひとの心配をするようになるなんてねェ」
 揶揄するような声色に、幸村は眉をしかめた。
「からかうな」
「これは失礼」
 おどけたように肩をすくめる佐助を見下ろして、幸村はもう一度吐息する。
「あまりにも急な御輿入れだからな。お館様がいらっしゃれば、この婚礼行列もさぞ大規模で華やかなものになっただろう。準備にだってもっと時間をかけたはずだ、黄梅院様のときはそれは壮観であったと聞いている」
「そりゃ『前のお館様』がご存命ならね」
 幸村の言った「お館様」とは亡き信玄のことだと察した佐助がそれとなく訂正するように言い、その言葉に気付いた幸村が「む、」と口を噤んだ。
「誰も聞いちゃいないから大丈夫だって」
 そう言って佐助は笑うが、幸村は口元を押さえて黙り込んでしまった。
 まったく「ど」がつくほど真面目なんだから、と心の内で軽口をたたいてから、佐助は庭園の方へ視線を流す。
「・・・・・・ちゃんのときは、大坂から豪勢な行列が来るんだろうねぇ」
「・・・・・・気の早い話を」
「上方のほうは色々派手だって聞くからね、しきたりなんかも違うんだろうし」
 幸村が唸るように言うのを無視して、佐助は間延びしたような口調で続ける。
「楽しみだね、ちゃんの晴姿。なんでもあっちじゃ花嫁修業も始めるみたいだよ?」
 言いながら佐助が懐から取り出したのは、小さく折りたたんだ紙片。
「見る?鎌之助の『さん観察日記』、今朝届いた最新情報だよ?」
「なんだその観察日記というのは」
 幸村の胡散臭そうな視線に、佐助は頬を掻いた。
「やー、甚八のときもそうだったんだけどさァ。ほら、大坂がらみの情報も知りたいからね、ちゃんの身辺のことも逐一報告上げろって言ったら、毎日事細かな観察日記が届くようになって。その日食べたものとか誰と話したとかはまぁいいにしてもさ、着物の柄とかは流石にね、ほーんと我が忍び隊のお役に忠実なことったら」
 両手を持ち上げて呆れたように言う佐助に、幸村はひとつ瞬きをする。
「・・・・・・甚八のときもそうだったが、お前はそこまで含めたうえで鎌之助をにつけたのだろう」
「やだなぁ大将ってば、それじゃ俺様がちゃん心配してるみたいじゃん」
「違うのか」
「・・・・・・」
 真顔で問われて、佐助は一瞬言葉を無くし、それを振り払うように手にした紙片を持ち上げた。
「で、見る?コレ」
「要らぬ」
「えっ、なんでさ」
「息災であるならばそれでよい」
 頑なな様子の主に、佐助は「へェ?」と意味ありげな視線を送る。
 その視線に気づいているのかどうか、幸村は独り言のようにつぶやいた。
「それ以上のことを知れば、・・・・・・会いとうなるではないか」
「ふうん?」
「何だ、悪いか!」
「俺様何も言ってませーん」
 悪びれない様子の佐助を睨んでから、幸村は雪の積もりつつある庭園に身体ごと向き直る。
「――のことを考えるとな。それだけで俺の頭は埋まってしまうのだ。何をしておるのか、何を考えておるのか、・・・・・・笑って、おるのか。そればかりをな、考えてしまう」
 話すたびに、白い息が漏れる。
「俺は未熟で、多くのことを一度に考えることができぬ。まして今は、考えねばならんことが、山とある」
「・・・・・・武蔵攻めのことなら、気にしない方がいいと思うよ。結果勝てたんだから、アレでいいさ」
「よいわけがあるか、・・・・・・いや、お前に言っても始まらぬ」
 すまぬと短く謝罪する幸村に、佐助は一度眉を下げると、笑顔を張り付けて話題を変えた。
「そういえば、手が空いたら来るようにって姫サンが」
「俺に、か?」
「そ。まぁいいんじゃない?姫サンとお話しても。まだ婚前、上杉領にも入ってないんだし」
「な、は、破廉恥なッ」
 どかどかと床板を踏み鳴らすようにして、幸村が歩いて行くその背を、佐助はやれやれとばかりに嘆息して見送った。









 先だっての伊達軍の上田急襲は、武田に少なからず動揺をもたらした。
 石田軍との同盟が成ったからとて、手をこまねいていてはならない、あの上田急襲は家中の誰もにその危機感を植え付けたのだった。特に伊達と上杉、この両軍が本格的に動き出しては、今の武田にとっては十分すぎる脅威となる。早急な対応が要されると、議論が繰り返された。
 冬が来たのが、せめてもの幸いだったといえよう。雪深い奥州と越後は、これから春まで行軍ができない。伊達の方へは斥候を放って動向を見守ることとし、そして幸村は勝頼に、上杉との同盟を具申した。上杉は、信玄の力をもってしても、川中島での五度の決戦を経てもなお、打倒すことのできなかった相手。むやみに戦を仕掛けるより、同盟を結ぶべきではないかと、そう言った幸村に、しかし家中の反応は割れた。川中島を経験してきた武将たちの中には、上杉と手を結ぶなどともっての他だと反論する者も少なくなかった。
 それら全ての意見を聞いたうえで、勝頼は上杉との同盟を選択したのだ。妹姫を上杉の跡取りに娶らせることを織り込んだ書状は早々に上杉方に送られた。
 ――『戦の世にあって、おなごは道具ぞ』
 あの最期の、信玄の言葉を、幸村は思い出していた。
 いかに年頃であるとはいえ、満足な準備もできぬような急な輿入れを、当の本人はどう思っているのだろう。
 考えている間に目的の部屋の前に辿りついて、侍女の控える襖の前で幸村は膝をついた。
「菊姫様、幸村にございます」
「お入りになって」
 返事が聞こえて、侍女が襖を開ける。
「失礼仕ります」
 一礼して中へ踏み入れると、華やかな香のにおいが鼻先をくすぐって、幸村は思わず顔を赤らめると、その場で腰を下ろした。
 背後で襖の締まる、たん、という音が聞こえる。
 幸村の視線の先には、旅装束を解いてくつろいだ様子の姫君の姿がある。この姫君こそ、武田信玄の末の姫にして此度の同盟の要、菊姫である。齢は幸村より一つ下、姉姫・黄梅院によく似た、華やかな印象の姫君だ。
 信玄や黄梅院が病に倒れてからは病の伝染を恐れた周囲の勧めにより兄である勝頼の元に身を寄せていたので、幸村も顔を合わせるのは久しぶりであった。
 端で固まったように動かない幸村に気付いて、菊姫は笑み交じりの声で言う。
「まぁ、そのような端ではお寒いでしょう?もう少しこちらにいらっしゃったらいかがですの」
「い、いえ某は!こちらで結構でございまする、して何用にございましょうか」
「あら、用がなければもう顔を合わせてもくださらないの?嫁(い)きさきが決まると、殿方が冷たくなるとは本当ですのね」
「そ、そのような!しからば、失礼いたしまする」
 菊姫の言葉に慌てて首を横に振ると、幸村はどこかぎくしゃくとした動きで、じりじりと膝を進めた。そのまま歩いて二歩も行かない距離でまた腰を落ち着けたのを見て、菊姫はころころと笑う。
「ま。女慣れなさらないのは相変わらずですの?昔は手を引いて遊んでくださったこともあったというのに、源二郎兄様ったら薄情なおひと」
「初陣前の時分のことなれば、某も姫様もまだ童のようでございましたし・・・・・・、その、ご容赦いただきたく」
 顔を真っ赤にしながら、幸村は言葉を探して答える。その様子に、菊姫はまた笑った。
「そうやってすぐ子ども扱いなさるのね。言っておきますけれど、わたくしたちおなごは殿方よりもよほど早く、大人になるのですわ」
 そう言って、菊姫は幸村の方に身体を向けて、姿勢を正した。
「本当に、お久しぶりですわ。源二郎兄様はずいぶんとたくましくなられましたのね」
 その言葉に、幸村も居住まいを正して、頭を垂れた。
「お久しゅうございまする。それならば姫様も、お、・・・・・・お美しく、なられました」
 その様子はまさにいっぱいいっぱい。床板に額をこすりつけんばかりの幸村に、菊姫は目を丸くして両の掌を合わせた。
「まあまあ!そんなことも仰るようになられましたのね。許嫁の姫君にもそうやって甘い言葉を囁いてらっしゃるのかしら」
「甘ッ・・・・・・!?」
 信じられないような言葉を聞いた気がして、思わず幸村はがばりと顔を上げる。
 菊姫はそれを見て見ぬふりで、手にした扇子を玩びながらほうと息を吐いた。
「本当に、ご自分でお相手をお見つけになったと伺ったときは天地の引っくり返る思いでしたのよ。源二郎兄様が近づけるおなごなのだから、よっぽど女らしくないんじゃないかなんて噂もございましたけど、その辺いかがなのかしら」
「は、いえ、その、・・・・・・っ」
 そろそろ冗談ではなく火を噴きそうな幸村の顔をしばらく眺めて、菊姫はぱちりと扇子を閉じた。
「ま、よろしくてよ。機会があればまた教えてくださいましね?源二郎兄様の奥方様なら、わたくしの姉上様のようなものですもの。・・・・・・今日、源二郎兄様に伺おうと思ったのは、上杉景勝様のことについてですの」
 菊姫が声の調子を落としたことに気付いて、幸村は背筋を伸ばした。頬に赤みは残っているものの、その顔はまっすぐと菊姫を見据えている。
「上杉景勝殿について、でございますか」
「ええ。・・・・・・家老衆方にはもう一方、上杉景虎様を推す声もあるなか、四郎兄様が景勝様にとお決めになったのは源二郎兄様の一声があったから、と耳に挟んだものですから」
「そのような、大それたことではござりませぬ。某はただ、景勝殿とは面識がございましたので、人となりをお館様に申し上げたまで」
「まぁ、謙遜なさって。四郎兄様も源二郎兄様を頼りになさっていると、専らの評判ですわよ?」
 それは買い被りでござると、幸村は眉を下げた。
 ――上杉景勝と、上杉景虎。
 この二人の人物は、武田にとって、今回の同盟における重要人物である。
 一部の反対を半ば押し切る形で勝頼が上杉に送った同盟を打診する書状に対し、妙なことに上杉からは二通の返書が届いた。その差出人が、それぞれ件の上杉景勝と上杉景虎、どちらも軍神・上杉謙信の養子という立場の人物である。
 先に返答してきたのが、上杉景虎だった。子のない謙信の養子であるからには、同盟の取次買って出たこの人物こそ上杉の後継ぎなのだろうと武田家中も判断し、いざ詳細を詰めようと手配を始めたその矢先、今度は上杉景勝からの返答が届いたのだ。
 そもそも勝頼が自ら認めた書状は、上杉謙信へ宛てたものである。謙信本人からの返書でなかった点も不審であるうえに、同じ「菊姫の輿入れを条件に同盟を承諾する」という内容の書状が二通も届いたとなれば、これはただ事ではなかった。
 すぐに忍びが上杉に放たれ、彼らが持ち帰った情報によれば、返書を送ってきたこの両名は、水面下で上杉の家督を争っているのだという。
 不敬な話だ、と、報告を聞いた勝頼は不快げに言ったのを、幸村も覚えている。当主が健在だというのに跡目を争うなどということは聞こえの良い話ではない。幸村もそう思った。
 問題は、二通の返書のどちらに、対応をすべきか。
 つまり、上杉景勝と上杉景虎、どちらを交渉相手として武田は選ぶのか。
 元々上杉との同盟を快く思っていなかった者も含め、武田家中ではふたたび紛議が巻き起こった。
 跡目争いということは、どちらかが勝ち、どちらかが負けるということだ。ここを見誤れば、後々同盟を反故にされることもあるやもしれない。菊姫の身の上だって、危うくなる可能性がある。
 家老衆の間では、特に古参の者を中心に、景虎を推す声が大きかった。元々北条家の人間であった景虎は、一時人質として武田に身を寄せていたことがあったからだ。当時の景虎を知る者は彼の人となりを評価しているようだった。
 一方の景勝はといえば、こちらはちょうど景虎が武田に滞在したのと同じような時期に、上杉に身を置いていた幸村が、当時最も近しく接した相手であった。勝頼が最終的に、上杉景勝にと決定した要因のひとつには、確かに幸村がそのときの記憶をもとに申し述べた内容があったのかもしれない。
「・・・・・・姫様も、上杉景虎殿をご存じなので?」
 上杉景勝は幸村よりも少し年上、報告によれば上杉景虎も同じような年齢だという。あの当時の武田は子どもが多く、皆を自由に遊ばせるような風潮があったから、同世代ならば人質だった景虎と菊姫に面識があってもおかしくはなかった。
 幸村の予想通り、菊姫はこくりと頷く。
「ええ、当時は三郎様と名乗っておいででしたけれど、」
 そのはにかむような表情の、頬にさっと差したほのかな赤。
「たくさん遊んでいただきましたの。懐かしいわ。三郎様が北条に戻られてからは、文の遣り取りもして。そのあと上杉に行かれてしまって、お父様が上杉と戦をなさっていたから、もうずいぶんと文も送っておりませんけれど」
「左様で、ございましたか」
 幸村の表情を見て、菊姫はぱたぱたと掌を振った。
「いやだわ、源二郎兄様ったらそんな心配そうなお顔をされて。わたくしとて武田の姫ですもの、四郎兄様が景勝様にと決めたのだから、そのとおりに嫁ぐ覚悟はあってよ?だからこそ、源二郎兄様には、景勝さまのことを教えていただきたいのですわ」
 ふわりと笑う菊姫に、なおも気遣わしげな視線を向けてから、幸村は口を開いた。
「もう、十年近くも前の記憶にございますゆえ、今とは異なることもあるやもしれませぬ」
 幸村は勝頼にも、そう言った。
 そのときのことを思い出しながら、続ける。
「景勝殿は、その当時からとても立派な方でございました」
 記憶を巡らせれば、生まれて初めて目の当たりにした、海の青がある。
 誰にも必要とされていないのだと、己はいつ死んでもよい存在なのだと、そう考えていた、あの頃の記憶だ。
「――景勝殿は、某に義のなんたるかを教えてくださった方にございまする」
 話しながら、幸村はその記憶に思いを馳せた。


+ + + + + 

今回はいつも以上に登場人物の年齢や時系列が史実とは異なります。一種のパラレルだと思って読んでくださると光栄です。
また上杉景虎が人質として一時武田にいたというのは、近年では否定的な見解も多いそうです。
20130807 シロ@シロソラ
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