第十二章 第二話 |
紅葉も散り、いよいよ大坂にも冬がやってきている。 薄く雲のかかる天の陽光は絹の衣のようなやわらかさで、時折冴えるように冷たい風が吹く。朝晩はずいぶんと冷えるようになってきた。 とはいえ躑躅ヶ崎の冬を経験しているには、まだ過ごしやすい寒さではある。聞けば、こちらでは雪が降ることもあまりなく、積もることなどは一年に数度あるかどうかであるらしい。小田原の冬にも似ているのかもしれないと思う。東国ではもうすぐ雪に閉ざされて身動きがとれなくなる時期となるが、ここ大坂や西の国々では真冬も自由に動き回れるのだろう。 雪の難儀を考えれば羨ましいような、しかしその間戦がなくならないことを考えればあまり喜べないような。 刑部少輔の執務室を後にしたは、案内された本丸御殿の一室で背筋を伸ばして座しながら、徒然と考えていた。 ここは本丸御殿の中でも特に奥になったところで、本来であれば城主の妻たちや姫君がたが過ごす場である。しかし現在の事実上の城主である石田三成には妻も子も無いので、人気は無くひっそりとしていた。室内に満ちる冷気が、ふだんここにひとの出入りがないことを感じさせる。 暮らす者がおらずとも、仮にも奥御殿であるので、鎌之助はの自室で待たせている。元々大谷吉継のもとをひとりで訪ねることにもいまだいい顔をしない(流石に不平は言わなくなったが)鎌之助は、今朝がたが部屋を出るときにも「何かあれば叫んで報せろ」と何度も言い含めたのだった。と鎌之助が大坂に身を置いて、すでに一月が過ぎている。その間なにも危ないことはなかったのだし、そうそう毎日警戒をしていては心が疲れようとは思うのだが、鎌之助は案外慎重な男のようであった。 もちろんとて、油断をしているわけではない。 刀を持たず動きづらい女性の装束であろうとも、風は使えるし体術の心得はある。万一何かがあれば、鎌之助が傍に居ずとも己の身は己で守れる。それだけの自信はあるし、覚悟もしている。 ただ、まずは信じようと、思ったのだ。 父となった吉継を、何かと近くにいる五助を、大坂の人々を。 なぜなら、幸村はに、そうしてくれたから。 「」をかたちづくるための要らぬ矜持や誇り、他者との間に築いていた己の身を守るための壁、そういったものと自身が向き合って、己の意思で前に進むことができるようになるまで、幸村はいつだってに手を差し伸べてくれた。がいくら無礼で邪険な物言いをしようとも、彼は絶対にを見捨てたりしなかった。そしてそれは、これから先もそうなのだろうと、今のは信じることができる。 つまりはそれが、「家族」というものなのだと、は理解している。 だから、今度は自分がそうすることで、吉継や、他の者たちと、家族になりたいと、は思っているのだ。 できうるならば、これから礼儀作法を教えてくれるという人物や、そして今も障子の向こうで密やかに会話を交わしているらしい侍女たちとも。 「・・・・・・」 障子のほうへ思考を向けたせいで無意識に風を使いそうになって、は意識してその力を押しとどめた。 障子を隔てた向こうに控えているのは、御殿仕えの侍女たちや、五助がに付けた侍女たちだ。初日に身体を見られて怯えさせてしまって以来、会話らしい会話をしたことはないけれど、いつも身の回りの世話をしてくれている、その仕事ぶりにはどこにも問題はない。 ただ、 「恐れられて、いる」 の、だろうな、と続く言葉は喉の奥に飲み込んだ。 この一月で理解したのは、彼女たちの恐れの対象はまず第一に、大谷吉継であるということだった。 全身を包帯で覆った姿は確かに異形だ。患っている病も、彼女たちには恐れるに足るものなのだろう。は義父の病を伝染する類いのものではないと理解しているけれど、皆が同じように理解するということは難しいものだ。一度疑心にかられた者は、なかなかそこから抜け出せないもの。それが複数人の間に広まっているなら、なおさら――小田原にいたころの経験で、はそれを知っている。 ひとは、己と、「普通」と違うモノを畏怖するものだ。そういう意味では、女でありながら男として生きてきた、何一つ女らしいことができないも、恐れの対象になるのは当然だった。 顔から表情を落として、は考える。 ・・・・・・言いたい者には、言わせておけばいい。 甲斐に渡って幸村と出会ってから、とんと忘れていた感覚だった。 小田原にいたころは、疎まれることも恐れられることも日常茶飯事で、こういったことには慣れていたはずだったのに。 それが心苦しいだとか、増して寂しいだとか、考えたことも、なかったのに。 「・・・・・・弱くなった、か」 幸村の傍は居心地が良すぎたのだと、離れてみて改めて痛感する。 結局のところは、一月の時間をかけても、侍女たちに対する接し方がわからないのだ。 周囲の気配が動いたのに気付いて、は俯き加減だった顔を上げた。 障子の向こうに意識を向ければ、そこに控える侍女たちの、どこか浮足立ったような様子が気配から感じ取れる。 どうやら件の人物が現れたらしい。 ――はあのとき、手の空いている侍女の誰かでよいからと頼んだのだが、五助は相応の身分の人物を手配してくれたらしい。 会えばわかるとだけ言われて、実際にどのような人物がやってくるのかはわからなかったが、今日は朝から借り物の着物の中でもいっとういいもの用意されていたし、ここまで案内してくれた者や御殿の侍女たちもどこか落ち着かない様子で、あえては聞こうとしていないけれど、噂話にもずいぶんと花が咲いているようだった。 どこか、豊臣臣下の家の姫君あたりだろうか。以前に五助から教わっている、大坂城内に屋敷を持つ者を頭に思い浮かべながら、とにかく無礼があってはいけないと、は平伏して待つ。 衣擦れの音が、近づいてくる。 裾を捌くしゅ、しゅ、という規則正しい音。その時点での歩き方とは天地ほどの差がある。 やがて、気配が障子の外で立ち止まると、音もなく障子が開いた。 ふわりと、香のにおいが鼻先をくすぐる。に香の知識は無いのだが、良い香りだと思った。 この人物の登場によるものだろう、侍女たちの密やかな話声を風が感じ取ったが今は無視する。 相手が上座に腰を降ろしたのを感じ取って、は口を開いた。 「大谷吉継が娘、と、申しまする。此度はわたしの至らぬがためにお足を運んでいただき、恐悦至極に存知まする、」 「・・・・・・」 の口上には答えず、その人物がすっと立ちあがった。 「!」 思わず、は頭を上げてしまう。何か至らないところがあったのだろうか、 ――その女性は、とてもかわいらしい姫君だった。 雪のように白い肌、すっと通った鼻梁、大きな眼を縁取る扇形の長い睫。顔立ちから判ずるにと同世代であるように見えたが、華やかながら落ち着きのある色合いの着物を見て、見かけよりも年上であるのかもしれないと思う。 姫君はなど眼中にないかのように障子まで歩くと、すぱん、と障子を開いた。 「!?」 呆気にとられたの視線の先、姫君は濡れ縁に控えていた侍女たちを一瞥して、口を開く。 「言いたいことがあるなら、本人の前で、お言いなさい。そうやって、陰で話すなんて、・・・・・・悪」 穏やかな声色だった。すっと、こころに届くような。 姫君は真っ直ぐと侍女たちを見つめて、訥々というべきか、言葉を区切るような話し方で、続ける。 「刮目なさい。悪と無駄口は、削除、よ」 障子の向こうになっていてからは直接見えなかったが、そこに控える侍女たちが一様に押し黙ったのが感じられた。 その様子に満足したのかどうか、姫君は嘆息すると音を立てずに障子を閉じる。そして動きを止めていたの前に、ふわりと腰を下ろした。 「・・・・・・失礼、したわ。でも、気づいていながら放っておくのも、悪よ」 「・・・・・・は、」 侍女たちの会話にが気づいていると、この姫君は見抜いている。 五助が選んだ相手だ、只者ではないのだろう、そう考えたの前で、姫君が美しい所作で礼をした。 「遅れて、ごめんなさい。淀、といいます」 「淀、殿・・・・・・!?」 姫君の名乗りを鸚鵡返しに呟いて、はわずかに眼を見張った。 この大坂で、知っておいた方がよいであろう人物の名は、すでに五助から聞き及んでいる。「淀」という名は、その中にあったものだ。 かつて日ノ本をその力で飲み込まんとした第六天魔王・織田信長の姪であり、覇王・豊臣秀吉の側室という立場にある女性。現在は伏見の城に居る豊臣家のお世継ぎの母君だ。秀吉亡き後の豊臣家で、名実ともに大きな権限を持つとされる人物で、淀の名は秀吉から与えられた城の名に由来すると聞いた。 まさか、そのような人物が、直々に現れるとは。 事前に一切の情報を告げなかった五助に、かすかにいらだちのようなものを感じながら、はがばりと平伏した。 「これは大変ご無礼を、」 「姫、立って」 唐突に、淀がそう言った。 何を言われたのか一瞬わからなくて、はぱちりと瞬きをする。 「は、その、」 「立って、って言ったの」 「・・・・・・は、」 言われて、は立ち上がる。すると淀もすいと立ち上がり(の所作とは比べ物にならぬほど美しい動きだ)、の姿をまじまじと見つめた。互いに立ってみると、身の丈はほとんど変わらないとは気付く。 「あの、淀殿?」 「・・・・・・変」 「え、」 淀は、表情のあまり変わらない御仁のようだった。笑うでも怒るでもなく、ただ真っ直ぐとこちらを見つめながら、言う。 「着物の、着方。変。姫付きの侍女は、どなた?」 その問いに、はぎくりと肩を動かした。 思い出す。あの日の、侍女たちの恐怖に塗りつぶされた眼を。 「・・・・・・これは、違うんだ、わたしが自分で着ていて」 「どうして?」 「・・・・・・その。わたしの身体には、戦で負った、たくさんの傷が、あって。見て、気持ちの良いものではないから」 の言葉を聞いて、淀はゆっくりと瞬いた。 「姫は、その傷を、恥じているの?」 「そのようなことは、ありませぬ」 は即答して、そして己の身を見下ろした。 「どれも、わたしが武人として、戦った証。背に負ったものは武人としては恥ずべきだが、それも生き残るためにやむを得なかったと、わたし自身が理解している」 淀はそれを聞いて、表情を変えずに、また考えるようなそぶりも無く、口を開いた。 「なら、淀が、手伝うわ」 「は!?そ、その、まさか貴方の手を煩わせるようなことは、」 「だって、ひとりで全部着ようだなんて、無理だもの。だから帯も少し、曲がってるのね」 「っ」 指摘されて再び自分の格好を見下ろすも、には帯が曲がっているのかどうかわからない。これまで誰も、それを指摘したことはなかった。毎日顔を合わせる鎌之助や吉継は、男性だから仕方ないのかもしれない。しかし、侍女たちも、何も言わなかったのだ。 羞恥に、の顔から表情が抜ける。 「ほら、脱いで」 淀の声に、はぎょっとしたように眉を持ち上げた。 「今、ですか!?」 「ええ。だって、おかしいんだもの」 ほら、と促されては、断ることもできない。 は俯き加減に視線を落としながら、上衣に手をかけ、曲がっているらしい帯を解いていく。 肌小袖一枚になると、手足の傷痕は露わになる。この時点で、あまり見目良いものではないはず、そう思いながらは下げていた視線を淀の方へと向けた。 淀はというと、驚くでもなく恐れるでもなく、変わらぬ表情でこちらを見つめている。 「・・・・・・少し、いいかしら」 そう言って、淀が手を伸ばし、肌小袖の上からの肩や腰に触れる。その掌がするりと胸元にまで伸びて、流石には身じろいだ。 「あ、の、淀殿?」 「――姫。あなた、いくつ?」 「年が明ければ、十八になりまする」 それを聞いて、淀は漸く手を降ろすと、ひたりとの双眸を見つめた。 「傷、よりも前の、ことだわ。こんな、骨と皮だけの身体じゃ、だめ」 「ほ、骨とは、」 「食事が、足りないのかしら。明日は、食事もご一緒するわ」 「いえ、食事は十分に頂いておりますので、」 歯切れ悪く答えるの言葉を制するように、淀は言う。 「そんな、身体で。やや子が産めると、思ってるの?」 「!」 は、ぐっと声に詰まって、口を閉ざした。 その様子に、しかし表情を変えることなく、淀は穏やかな声で、続ける。 「武門に嫁ぐおなごが、まずすべきは、跡取りを、産むこと。もちろん他にも、しなければならないことは、たくさんある。だから、何より、健やかな身体が、大事」 「・・・・・・申し訳ありませぬ」 「どうして、謝るの」 口をついて出た謝罪の言葉に、淀がわずかに眉を動かした。 言葉を探しながら、は言う。 「着物の着方、身のこなし、わたしは何も、知らない。おなごとしての、心構えすらも。恥ずべきことだし、それに淀殿にも、要らぬ手間をかけさせてしまう」 「姫のことは、五助から、聞いてる。知らないことは、できなくて、当たり前。それを謝るのは、悪、よ」 そう言って、淀は、ふわりと笑んだ。 「これから、覚えていけば、いいんだから。一緒に、がんばりましょう」 その笑顔が、凝り固まったこころを、溶かすようで。 はぎゅうと拳を握ると、淀に頭を下げた。 「よろしく、お願いいたしまする・・・・・・っ」 |
20130802 シロ@シロソラ |
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