それは、春の始まりの頃だったと、記憶している。
「――弁丸。貴様これより源二郎幸村を名乗り、越後へ参れ」
 久方ぶりに顔を合わせた父は、いつもの、人の悪そうな笑みを口元に湛えていた。
「出立は明日。夜明けとともに、この上田を発て」
 その言葉を聞いて、然したる感情の動きも無く、ただ清々したような気持ちになったのを、覚えている。
 後から思えば、父はそれなりに自分を可愛がってくれたように思うが、何より戦と酒と女を好む男だった。白昼堂々我が子の前で、母ではない女とよからぬことを為しているなど日常茶飯事で、母もそれを知っていて悲しんでいるようだった。なんとか元気づけて差し上げたいと幼心に思ったものだが、母は兄だけを見て、自分を見てくれることは無かった。
 それもそのはず。なぜなら自分の本当の母親は――
「ただし、俺は上杉に頭を下げようなどとは思うておらぬ。よって、貴様とはこれが今生の別れであろうから心しておけ」
 そう言って立ち上がったそのひとは、こちらに歩み寄ると、ぐしゃぐしゃと、およそわし掴むような調子で、弁丸――幸村の頭を撫でながら、笑った。
「貴様はきっと戦場で、鬼となれるであろうから、それが叶わぬのは些か心残りではあるがな」
 父のことが、嫌いだった。
 母のことが、苦手だった。
 この城には自分の居場所は無いのだと幼いながらに理解していたから、ここから離れられるというならば、たとえその先が死地であろうともどうでもよかった。
 だから、清々したと思ったのに、その父の笑顔は眼に焼き付いて、今も鮮明に思い出すことができる。
 ――それが、幸村が見た、父の、稀代の謀将・真田昌幸の、最後の姿だ。


  第十二章 第一話


「ちょっと大将、何ぼけっとしてンのさ」
 聞きなれた声に、幸村は我に返った。
 見れば背後に控えた佐助が、訝しげにこちらを見ている。
「しっかりしてくれよ、アンタは『大将』なんだ」
「・・・・・・ああ、わかっている」
 どうしてあんな昔のことを思い出したのだろうかと、郷愁に似たその思考を頭の隅に追いやって、幸村は前方へと視線を移した。
 武蔵国、神流川。
 初冬の、穏やかに晴れた空の下、しかし濃い霧で視界の利かぬそこに陣幕が張られている。
 旗印は紅の武田菱。武蔵・下野に侵攻せんとする武田軍の本陣である。
 先の上田城の戦では、城に残存していた真田の兵だけで応戦したから、幸村を総大将とした武田軍の、これが初戦であった。
 対するは宇都宮広綱率いる軍勢。兵力ではこちらの圧倒的有利であるが。
「――攻め倦ねている、か」
 陣幕から出て、幸村は自軍の布陣を眺め――るには霧が濃すぎた。
 白く立ち込めた霧で、敵方どころか味方の姿も見えない。
「この霧だからね、それに聞こえてると思うけど」
「うむ、何やら獣の咆哮のようだな」
 背後に控える佐助の声に、幸村はそう答えて頷く。
 濃霧のなか、聞こえるのは剣戟と怒号、そして戦場には似つかわしくない、獣の咆哮と、思われるもの。
「虎だってさ。かなりの数を揃えてるらしい」
「なんと、虎だと?」
 思わず幸村は佐助を振り返った。
「それは・・・・・・、」
 この眼で見てみたいものだが、と思った言葉を、飲み込んだ。
 そのような悠長な戦況ではない。
「一応言っておくけど自重してよ。被害だってそれなりに出てる」
 追い打ちのような佐助の冷たい声に、幸村は頷く。
「・・・・・・わかっておる」
 絞るような声で言って、幸村はぎりと槍を握る腕に力を籠めた。
 霧だろうと虎だろうと、恐れるに足りない。まずは突っ込んで敵がいれば斬り、敵陣は落とす。――これまでの幸村ならば、そうしてきた。
 だが、もはや、戦を修練とする日々は過ぎた。
 この霧の中、軍の指揮を執るべき大将が本陣を離れてしまっては、他に誰が軍を統制するというのだ。
 ・・・・・・歯痒い。
 座して待つことが、ここまで歯痒いとは、思わなかった。
 いつだって、幸村が一番槍を駆けている間、「お館様」は、――信玄は、そうしてきたというのに。
「・・・・・・この、霧も。敵方の策のひとつと見るか」
 今にも駆け出したくなる足を推しとどめながら、幸村は二槍をその場に突き立てた。
 佐助は単調な声で答える。
「そうだろうね、天気的におかしいからさ。こういうのは才蔵が専門だから、今調べに行かせてる」
 報告が来るまで待つしかない。わかっていて、しかし虎の咆哮の間に混じる悲鳴に、幸村は奥歯を噛みしめる。
 視界の利かぬ中、未知なる獣に為すすべなく食われる無念はいかばかりだろうか。せめて霧の正体を掴むまでは兵を退かせるべきだったかと、考える。
 ・・・・・・いや、ならぬ。
 この霧の中防戦にまわれば相手方の思う壺だ。それに、武田軍はここから攻め入ろうとしているのだから、兵を退いては今後の士気にも影響しよう。
 武田領を取り返す、その目的のためには、犠牲もやむを得ない、そう、――わかっては、いるのだ。
「・・・・・・ッ」
 もう、迷うことは無いと。己にできることからやっていこうと、そう思っていたのに。
 いざ戦場に出てみれば、この様だ。
 己の采配には、ひとの生命がかかっているのだと、頭では理解していても、その重さに足が竦みそうになる。それを振り払うために、がむしゃらに動きたくなる。
 ・・・・・・政宗殿ならば、どんな状況であっても本陣で悠然と構えられるのだろう。
 先日相対したばかりの宿敵の姿を、幸村は思い浮かべる。
 何故家康を目指す、あの男はそう問うた。
 お館様が彼の者との戦いを何故望んだのか、それを理解し、己の糧とするため、――そう答えた。
 それを聞いた独眼竜は、不敵に笑って、言ったのだ。
 ――『・・・・・・おキレイな建前を吐く前に、よく考えるこった』
 その言葉に、幸村は、反論できなかった。
 己の望む世のため、槍を振るうのだとこころに決めて、もう迷うことなどない、そのはずだったのに。
 どうしてこうも、あの竜の背は、遠いのだろう。
 がりと唇を噛んで、しかし地に突き立てた二槍はそのままに、ただ大地を踏みしめるようにして、幸村はその場に立つ。
「才蔵に、できうる限り急げと伝えよ」
 内に宿した炎を必死に押し込めているのだろう、主の身体から滲むようなその熱波を感じ取って、佐助は薄く笑った。
「御意に」


 それから数刻の後、才蔵以下忍隊の尽力により霧を生み出していた仕掛けが看破され、視界の晴れた戦場は乱戦となる。
 霧さえなくなれば、戦場で目立つ虎も囲み討ちにすることで、それほどの脅威にはならなかった。さらに、陣頭に立った幸村の爆炎が、敵方の兵を飲み込んだ。
 そうして、陽の傾くころには宇都宮軍を撤退させることに成功した。初戦を勝利で飾ることはできたが、それを喜ぶにはあまりに犠牲の大きい、それは辛勝であった。
 









「・・・・・・というわけで、宇都宮軍は降伏、ひとまずは武蔵・下野の元武田領は回復できたようだ」
「左様か」
 すでに日常に風景となりつつある。大坂城二の丸の一角、は「父親」の背をまっすぐと見つめて、淡泊な表情で言った。
「これから東国は戦のできない雪の季節に入る。その間に武田は、上杉と同盟を結ぶ予定だということだ」
「ほう、上杉と。われの記憶が正しければ、越後の龍と甲斐の虎は長年睨みおうた宿敵同士ではなかったか、それを同盟とは、虎の歯牙は抜け落ちたとの噂はまことのようだ」
 こちらを見もせず、文机に向かって筆を動かしながらそう言う吉継の声に滲む侮蔑を、しかしは表情を変えずに受け流す。
「同盟には、やはり婚姻が結ばれる。信玄公の末の姫君が、上杉に嫁ぐ手筈となっているらしい」
 あくまで平坦なの声に、吉継が筆を硯に置くと、輿ごとくるりとこちらを向いた。
「・・・・・・ぬし、そのように武田の内情をぺらぺらと口にしてよいのか」
 頭巾に、顔の鼻から下を覆う布、戦装束を解いてもなお目元しか露出の無い父の顔。表情は読みにくい。
「これくらいのことならば、貴方にも知る術があるのだろう。同盟国の動向は知っておきたいところだろうし、ならばわたしの口から申し上げたほうが早いかと考えたまでだ」
 の声を聞く吉継の、羽織の袖から覗く手指には、やはり先まで隙間なく包帯が巻かれている。
 吉継の全身を覆う包帯は、病のために巻いているのだと、も聞いている。具体的にどういうものなのかはわからなかったが、周囲に害を与えるようなものではないのだと、は理解している。もちろんその異様な姿を見慣れるのには、それなりに時間がかかったが、毎日見ていれば流石にもう慣れた。
「それに、真田忍びは優秀だ。貴方や石田殿に知られては不都合な情報ならば、まずわたしにも知らせないだろう」
 それを聞いて、吉継は肩を震わせた。
 その目元が、愉快そうに弧のかたちを描いて歪む。
「ヒヒ、さもありなん。いつわれらがぬしを拷問にでもかけて、知りうるすべてを吐かさんとするかも知らぬでな」
 は、表情を変えなかった。
「それは違う、こうしてわたしが貴方に、自ら話すからだ」
 その返事に、吉継は面白くなさそうに笑みを収めると、「左様か」と答えた。
「刀も供もなくばさぞ心細かろうと思うておったが、なるほど我が娘はなかなかに心根の図太いことよ」
 刑部少輔の執務室にあるのは、吉継の他はの姿のみである。はここを、いつもひとりで訪ねていた。女性の装束であるから刀を置いた丸腰であるし、護衛である鎌之助は自室で待たせている。
「特段図太いというわけではないさ、ただ信じているだけだ」
 はあくまで吉継から視線を外さずに、そう言った。
 吉継の眼球が動くのが、見える。
「信じる?何をだ」
 不気味な光を宿す双眸が、を捉える。
 は表情も、声の調子も変えない。ただ息を吸って吐くように、自然に答える。
「わたしの父、大谷吉継を、だ」
「――姫君、そろそろ」
 の言葉に被さるように、声が聞こえた。五助の声だ。わずかに襖が開いていて、そこに控える姿が見える。
「ああ、もうそんな時間か。――父上、わたしはこれから作法を教わるという方にお会いすることとなっておりますので、本日はこれにて」
 そう言って頭を下げると、吉継は口元を覆う布の下で吐息した。
「五助が何やら手を回しておったようだが、――まぁ、適任であろ。早いところ、その妙な振る舞いを直すがよいわ」
 早く去ねとでも言うように、投げやりな様子でそう言った吉継は、もう一度礼(ただし所作が男性のものなので不恰好この上ない)をしてが退室するのを見送ると、文机に向き直って筆をとった。
 ・・・・・・馬鹿ではないとは思っていたが、どうやら見込み違いか。
 筆を走らせながら、考える。
 価値があるうちに利用して、使い終われば不幸に堕とす。
 やはりそれがあの娘の、有効な使い方だ。


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20130719 シロ@シロソラ
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