第十一章 第十話 |
秋はいよいよ深まりを迎え、木々の葉を紅に染め上げている。 躑躅ヶ崎館の、日当たりの良い濡縁に腰を下ろした幸村は、時折吹き抜ける風に紅の葉が舞うのを視線で追いながら、今年は甲斐の山のあの紅葉をのんびりと眺めるような暇はなさそうだと考えていた。 伊達軍が上田より退いて五日。 あの後、幸村は戦後処理を小介に任せて(小介の手傷は重いものではなかったので安堵した)、国主である武田勝頼への報告のためすぐに馬を駆り、この躑躅ヶ崎へやって来ていた。先ほど勝頼に目通りが叶い、報告を済ませてきたところだ。 同盟は恙なく済んだこと、そして上田城が伊達の急襲に遭い、これを退けたこと。 ――大坂を中心に勢力を拡大する石田軍との同盟は、周辺国への牽制にもなろうと考えてはいたが、西の国々へはともかく、東や北はそう簡単にはゆかぬのだと、今回の伊達軍の侵攻で肌身に沁みて思い知った。油断は禁物、伊達だけでなく、このところなりを潜めている上杉の動向も気がかりである。 それゆえ、とにかく背後の備えを固くすることが重要であると幸村は勝頼に進言し、勝頼はそれを認めた。 まずは失った領地の回復が何よりも急がれる。台頭を始めた領主たちを叩いておくこと、そして伊達や上杉に対抗する術を考えなくてはならない。 ――石田軍との同盟の件も然り、勝頼は幸村の言葉に難色を示すことはあっても、こちらが言葉を尽くして説明すれば、基本的には反対はしない。ただ任せると、そう命じるだけだ。 今は、試されているのだと、思う。 この身が、「真田」が、武田家に貢献できるのか否か。 佐助は勝頼が真田嫌いだなどと口にした。確かにあまり好意的には接してもらえないようには感じるが、しかし勝頼は、当代の「お館様」は、己の好き嫌いひとつで采配を振るうような御仁ではないと、幸村は思っている。この先幸村の活躍次第で、信頼関係を築いていくことも不可能ではないはずだ。 今の武田にとって、当主の勝頼と、大将を務める幸村の一致団結は不可欠であるし、それを他の家老方にも認識してもらわなくてはなるまい。 武田家は、信玄を欠いてもなお盤石なのだと、内外に知らしめる必要がある。 とにかく、これからが勝負だ。 ・・・・・・俺は、俺にできることを。 そう考えながら、幸村は懐に手を入れる。 取り出したのは、精緻な細工の施された、櫛。 陽の光に翳してみれば色合いが変わるように見える、不可思議な細工の。 「らでん、だったな」 口に出すと、夏の色の鮮やかな思い出が脳裏に浮かんだ。 南国の市場でが買い求めようとして、危うく騙されそうになったところを武蔵に助けられたもの。 本来の贈るはずだった相手には、しかし渡すことの叶わなかったもの。 信玄がこの世を去ったあの日、が落としたものを才蔵が拾い、幸村は彼からこれを受け取ったまま、に渡す機を逸していたのだ。 黄梅院への土産という目的を果たすことはもうできないけれど、これは己の手で、に返さねばなるまい。 そう遠くない将来、徳川家康を討ち果たしたそのときには、きっと。 「・・・・・・・・・・・・」 呟きは、秋の終わりの風が、浚ってゆく。 晩秋の大坂は、今日もよく晴れている。 相変わらず慣れない着物に袖を通し、朝餉を終えたは、呼び寄せた湯浅五助を前に、背筋を正した。 「・・・・・・忙しいところを、呼びつけて申し訳ない」 「いいえ」 短くそう答えた五助のいかめしい顔つきを、は静かに見つめる。 の後ろにはいつものように鎌之助が控えていて、いまだこの五助を天敵のように思っているらしい鎌之助の痛いほどの視線が、の背にも感じられた。 「三点ほど、貴方に頼みたいことがあるのだ」 「何なりと」 五助の受け応えは常に必要最小限、会話も手短であることが多い。この男も、何を考えているのかよくわからないとは思うが、しかし悪いものは感じなかった。座しているだけでその身から滲み出ているような、ひとかどの武士たる気配が、そう感じさせるのかもしれない。 は意を決して、口を開く。 「・・・・・・まず、ひとつめだが。貴方も知ってのとおり、わたしはこれまで男子として生きてきて、おなごの作法を何も知らぬ。それゆえ、どなたかに作法を習いたいのだが、可能だろうか」 の言葉に、五助は少し驚いたようだった。 「外からわざわざ雇い入れるようなことはなさらずともよい、どなたか手の空いた侍女殿にでもお願いできればと思うのだがいかがだろう」 わずかに眼を見開いた五助を見つめながら、は続ける。 「貴方も言っておられたように、わたしは大谷家の姫として、ふさわしくありたい」 「・・・・・・承知仕りました。早急に手配いたします」 の真意を酌もうとしたのか、しばらく口を閉ざしてから、五助はそう答えた。早急に、という言葉が気にかかって、は慌てたように言う。 「いや、その、貴方もお忙しいだろうから、そう急ぐことも」 「早急に、手配いたします」 「・・・・・・」 五助の語調に押されて言葉を飲み込んでから、鼻から息を吐いた。 もしかしたら、のこの申し出が五助にとって都合がよかったのかもしれない。少し機嫌が良いようにも見える。 この調子なら次も問題ないかもしれない、はそう期待した。 「――ふたつめだ。三日に一度、いや五日に一度でもいい。剣の鍛錬をしたい。どこか場所を借りたいのと、その間、元の着物を着る許可を、いただきたい」 五助が、眼を細めた。 「鍛錬、にございますか」 「そうだ。わたしは確かにおなごで、今は大谷家の姫だ。だがその前に、ひとりの武人だ。いずれ望まぬ争いが無くなる世がくるまで、真田幸村の傍らで戦いに生きるのだと、このこころに決めている。なればこそ、いつなんどきも刀を振るえるよう、鍛錬を重ねなければならない」 五助の鋭い視線が、を射抜く。 もただまっすぐと、五助を見つめる。 風が吹いて、庭園の木の葉を揺らした。緋色に染まった葉が、はらはらと落ちる。 「・・・・・・承知、つかまつりました」 五助が息を吐いて、そう言った。 これは許されないかもしれないと思っていたは安堵して、わずかに眉を下げる。 しかし五助は眼を細めたまま、硬い声で言った。 「ただし、条件がございます」 は揺るみかけた頬を引き締めた。 「何だろうか」 「御身に傷が残るようなことはなされますな。怪我をされましたらその時点でお辞めいただく」 「っ、」 「大谷家の姫として、ふさわしくと仰られたでしょう。ならばその額のような傷跡を、間違っても見えるところに作られませんよう」 額の傷は、五助に見せたことはないはずだった。普段は前髪に隠れて、よく見なければわからないものだ。 おそらくは武士としての、この男の観察眼によるものなのだろう。 そう考えて、は表情を動かさないまま、是と答える。 「・・・・・・承知した。無理なことはしないと約束する」 「いいでしょう。場所については後ほど案内させます」 いかめしい表情をほぼ変えていない五助の顔を見据えて、はぐいと顎を引いた。 作法についても鍛錬についても、五助に頼まねばならない大切なことだ。 だがが最も重点を置きたかったのは、この後。 この大坂で、大谷吉継の娘として生きるための、覚悟。 「そして、みっつめだが、――」 大谷吉継は認めていた書から顔を上げ、筆を置くと輿ごとゆらりと背後を振り返った。 大坂城二の丸、外出や他の用が無ければ一日のほとんどを過ごす刑部少輔の執務室。小姓も置かずひっそりと静まったその室の、吉継の視線の先に、襖の側で座するの姿がある。相変わらず着物が似合っていない。いや、色柄自体はにも合いそうなものではあるが、どうにも「着られている」という感が拭えないのだ。いまだに男がかった、その立ち居振る舞いのせいかもしれない。 「・・・・・・して、何用だ」 問えば、はまっすぐと、こちらを見る。 「・・・・・・いえ、特段の用はございませぬ」 「・・・・・・」 吉継はゆるりと瞬きをして、包帯の下で息を吐いた。 「用も無いのに、わざわざわれに会いに来たと?」 「五助殿にはお許しを頂いた」 「左様か」 さも面白くなさそうに、吉継はそう言った。 五助め、何を考えておる。 心中では家臣に対しそう思いながら、吉継はを見つめる。 が、少し考えるようなそぶりを見せてから、口を開く。 「先日、貴方は私を娘だと、仰った。ならば貴方は、私の父だ」 の言葉に、吉継は適当に相槌を打った。 「・・・・・・まぁ、そうよな」 「まだわたしは貴方のことをあまり知らないので、日に一度、しばらくの間でいいから貴方の側に居させてほしいと、五助殿に頼んだ」 ひくりと、吉継は眉を動かす。 「・・・・・・それは、なにゆえ」 「特別な理由など無いが、強いて言うならば、わたしと貴方は家族だから。日に一度くらいは顔を合わせるものだと思った。もちろん執務の邪魔をするつもりはないし、居るだけで邪魔だと仰るなら出て行くが、いかがか」 まるでそれが当然のことだとでも言うように、澱みなくすらすらと、はそう言って、こちらを見つめる。 その、深い色の双眸。 ――何のつもりかと、思った。 先の猿(ましら)の一件や、同盟の時に口を挟んできたことを鑑みれば、この娘は馬鹿ではない。多少見通しの甘いところはあっても、己の頭で考えてものを言うことができる人間だ。この城に根付く、使用人たちの懐疑の心にも気づいているようだし、自分に対しても、正しく警戒していた。 ・・・・・・それが、家族、だと? 「・・・・・・ぬしの好きにするがよかろ」 そう答えて、吉継は喉の奥でヒヒと笑う。 この娘が何を企んでいるのかは知ったことではないが、こちらにしてみれば好都合ではあった。 自分を警戒しないというならば、この先利用するのも容易いというもの。 ――こちらの今の答えを聞いて、眼に見えて上機嫌になるの姿に、視界がぶれるような感覚があって、吉継は幾度か瞬きをした。 「父上?」 気づいたがそう言って、 「・・・・・・ぬし、今われを、」 「ああ、父上と呼んだ。わたしは貴方の娘としてふさわしくあろうと思うから、まずは呼び方を改めたのだが」 何がおかしいのかわからないというようにがそう言うので、吉継は腕を持ち上げての言葉を制する。 「いや、よい。ぬしの好きに呼ぶがよい。・・・・・・ならば、ぬしがその場にいようと、われは常どおりにしておけばよいということだな?」 「仰るとおりだ。貴方の仕事ぶりを、拝見するだけでいい」 「左様か」 そう答えると、それ以上取りあわぬとばかりに吉継は輿を浮かせ、文机に向き直った。 包帯の下で、嘆息する。 ・・・・・・やれ、五助よ。これはぬしの嫌がらせか。 湯浅五助は吉継がもっとも信をを置いている家臣であるが、時折こうして吉継の承諾なしにものごとを進めることがある。が今着ている着物についても、そうだった。確かにほたるの身の回りに関しては一任すると言ったのは他でもない吉継であったが。 ・・・・・・まるでいつぞやの光景よ。 どうせ問いただしたところで、五助はのらりくらりと躱すのだろうが、それにしても嫌がらせにしか思えなかった。 そうでなければ、この娘が。 まるで「あの者」のようなことを、言うなど。 顔こそ似ても似つかぬが、の今の陣取り、その身に纏う着物、 ――久しく忘れていた光景を思い出して、吉継は不快げに眉を動かしてから、仕事に戻るべく筆をとった。 陽が傾き始めたころ、が自室に戻ると、鎌之助が待ち構えていた。 「さんっ!無事っすか!?何もされませんでしたっ!?」 「・・・・・・」 いつかのような反応には半眼で鎌之助を見つめ返す。 「まさかと思うが、毎回そう言うつもりなのか貴方は」 冷めた口調でそう言うと、鎌之助はぐっと言葉に詰まってから、浮かしかけた腰を落ち着けた。 「・・・・・・だって、ひとりで刀まで置いて行って、何されてもおかしくないじゃないっすか」 不貞腐れたように背を丸める鎌之助に、は小さく笑って言う。 「もし、何かあったとしても。この城の中程度の広さなら、叫べば貴方には聞こえるのだろう?ならば何の問題もない」 「・・・・・・そっすか」 「まあそう腐るな、父上はわたしたちに害を加えるようなことはなさらぬ」 背を丸くした鎌之助が、じとりとこちらを見る。 「『父上』、ねぇ・・・・・・、痛い目に遭っても、そりゃ俺の手の届く範囲内なら守りますけど、大坂城(ここ)じゃ何がどうなるかわかったもんじゃないっすよ」 「多少痛い目を見ようとも、それは覚悟のうえだ。わたしは、まずは父上を、信じる。――それが、家族というものだろう」 こちらを睨むように見ていた鎌之助がふいと視線を外し、あさっての方向に向かって声をあげた。 「あーもー!そういう言い方ずるいっすよ反対できませんもんいいっすわかったす俺も覚悟決めますからッ」 「鎌之助、」 「そんでさんは俺なんかに気を使うより前にはいこれ!」 ずいと突き出されたのは小さく折りたたんだ文だった。見覚えがある、いつだったか甚八が佐助から受け取っていた、鴉に化ける文だ。 「長からの、俺への指示っすけど、最後に幸村様から、さんに伝言があるんで」 「幸村殿から?」 受け取って、文を広げる。両の掌ほどの大きさの、細かく折り目の付いたその文は、大半が鎌之助が言った「佐助からの指示」なのか、暗号のようになっているところはよく読み取れなかったが、しかしその最後の一文。 「・・・・・・あちらも、万事問題なく、幸村殿は元気にされている、と」 「みたいっすね。なんか、その言い回し、こないだこっちから報告したことと同じっすよね」 「・・・・・・、そうだな」 文を元の通り畳んで、鎌之助に返しながら、は穏やかに笑った。 「幸村殿がそう仰られたのなら、そうなのだろう」 先行きはまだ、わからないことの方が多い。 だが不思議と、には不安はまったくなかった。 ・・・・・・離れていても、わたしたちは、ひとりではないから。 |
20130605 シロ@シロソラ |
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