第十一章 第五話

 今日用意されたのは、菊の柄の着物だった。自分には不相応に華やかすぎるのではないかとは思ったが、着てみると肌なじみの良い色あいで、柄も控えめに見える。
 には女性の装束にさほどの知識も関心もなかったのだが、「ここにはいない誰か」が貸してくれているらしい着物はどれも、今日のもののように落ち着いた印象があった。ほたるがよく知る女性といえば黄梅院で、彼女の出で立ちはいつもそれは華やかだったから、そういうものは自分にはとても似合うはずがないと思っていたのだが(何しろ黄梅院は顔立ちからして花開いたようで、華やかな色柄がよく似合ったのだ)、そんなが着てもおかしくはないような着物が揃っていることはとてもありがたいことだった。
 先日五助の手配で城下の反物屋が現れて、眼が疲れるほど様々な色柄の反物を見せられた。亡き太閤秀吉の采配により、大坂は京の都や近江に劣らぬほど商いが発展しているという。その言葉の通り、用意された反物は生まれてこのかた見たこともないような奇抜な色や柄のものも多くあった。世の姫君の装いを知るよい機会とひとつひとつ眼を通していたではあったが、途中から何が何だかよくわからなくなってきて、結局勧められるがままに決めてしまった。一体どんな着物が仕上がってくるのか、一抹の不安が胸を過ぎる。
「・・・・・・つうか、暇っすねえ」
「そうだな」
 脇に控えている鎌之助が足を崩しながら欠伸をしたのを視界の端に捉えながらは頷いた。
 大坂に身を置いて、半月ほどが過ぎようとしている。
 刑部少輔・大谷吉継の養子になったとはいえ、の立場は同盟のための人質。自由に出歩くことは許されていないようで外に出ようとすれば五助に止められた。用があれば何でも五助を通すようにと言われたが、何をするにしても彼の手を煩わせるほどのものではないと考えてしまい、結果できることはあまりない。
 さらに、身体を動かそうにも着慣れぬ小袖のせいで動きづらいことこの上なかった。歩くにも一苦労で走るなどもってのほか、そうでなくとも動きが逐一遅くなる。それが女性の所作であると理解はしていても、男として生きてきた身には不自由きわまりなかった。それに下手に動き回って借り物の着物を万が一にも汚すわけにはいかない。
 結局にできることといえば、室内で座って物思いに耽るか、鎌之助と会話するか、たまに風を動かしてみることくらいであった。
 脇に置いている刀に視線を落とす。鍛錬をしたいと申し出れば、やはり五助は渋面をつくるのだろうか。
 つくづく、これまでの自分は恵まれていたのだと、は思う。
 ――武家の姫君には、およそ自由という物は無い。
 かつてもそうだった。家の、血族の存続のために男子として生き、しかし年頃になれば極秘裏に婿を取って男子を産み家督を譲る。そう命じられていたし、自らもそうあるべきだと考えていた。家のために、ひいては北条宗家を守るために、そうあるべきなのだと。武士としての覚悟と誇りを胸に抱きながら、それでも子を成し次代に繋ぐという使命は、世の姫君と何ら変わりのないものだったのだ。
 しかし幸村と出会い、黄梅院に諭されて、は己の生きる道筋を「考える」ということを知った。そして故郷と守るべき家を、血族を繋ぐ使命を失い、――自由に、なった。
 幸村と想いを通じ合わせるという奇跡のような幸運に恵まれ、佐助や甚八、幸村のために志を同じくする仲間に恵まれた。自分で納得いくまで考えて、行動した。
 自由に、生きることができた。
 ――その結果、は今、おなごとして、ここにいる。
 この判断が誤っていたとは思わない。たとえ過去に戻って同じことが繰り返されたとしても、幸村と佐助のために、はまた同じ判断を下すだろう。それが、納得いくまで考えた結果であるから。
 それでも、こうして「姫君」という立場に立って、改めて思い知らされる。
 動きにくい着物に身を縛られるがごとく、にできることはごくわずかに限られている。
 大谷吉継の養子として大坂に留まると決まった時、幸村はに「身体の心配だけをして待っていろ」と言った。睡眠と食事をしっかり摂って己を健やかに保つ、それが今のすべきことだ。幸村に無用の心配をかけないためにも、そのことの重要性は重々承知している。
 だが、それだけで、いいのだろうか。
 ただここで座して、世の趨勢を見ているだけで、いいのだろうか。
 自分にできることは、無いのだろうか、――そう考えれば、答えは「無い」だった。
 自由の許されない身、姫君はかくあるべきとは頭では理解していても、それでも、何もできないということが、どうにも歯痒い。
「・・・・・・ほう、」
 声が聞こえて、と鎌之助は同時に顔を上げた。反射の動きで構える鎌之助を、は手の動きで制する。
「大谷殿」
 いつの間に開いていたのか、襖を越えてそこに居るのは、大谷吉継その人だった。相変わらずどういう仕掛けなのか、輿が音を立てずに畳に降りる。恐らくは何かしらのバサラなのだろうが、風の動きは感じない。
 ・・・・・・風の動きどころか、声が聞こえるまで気配を感じなかった。
 は普段からほぼ無意識に風を使って周りの気配を感じ取っている。特に意識しなければ広範囲には及ばないが、それでも同じ室内に入る気配を漏らすことなどありえない。そしてバサラ持ちではなくとも、忍びである鎌之助も気配には敏感だ。なのにふたりとも、ここまで近づかれて吉継の気配に気づけなかった。
 全身を包帯で覆った異形に慣れぬことを差し引いても、それでも思ってしまう。
 これは、本当に、ひとなのかと。
「おなごの着物を着せたとは聞いていたが、これはこれは」
 吉継はそう言って、の姿を舐めるように見つめた。
 くぐもった声が、愉快そうに笑っている。
「馬子にも衣装とはよく言うが、あれは馬子もある程度の見てくれがなければ成り立たぬとようわかった」
「んな、てめぇそれはさんが不細工だって言ってんのか!?」
 鎌之助が膝を立てて身を起こすと、吉継は唯一露わになっている目元を笑みの形に歪めた。
「ヒヒ、われはそのようなことを言うて居らぬ、口にしたのはぬしであろ」
「!?」
 その言葉に鎌之助は眼を丸くし、そしてがばりとに向き直る。
「いやそのっ、俺そんなこと思ってないっすぜんぜんまったく!!」
 はそれをゆっくりと瞬きをして見つめていたが、吉継の笑み交じりの声はまだ続いた。
「ましらの子分はやはりましらか、きいきいとよう吠えるわ」
「・・・・・・!!」
 眉を跳ね上げた鎌之助を、は嘆息して窘める。
「鎌之助、やめないか」
 そして、吉継へ視線を動かした。
 前触れもなく、わざわざ供も連れずにひとりでやって来たのだ、何の用があるのかと警戒するの内心をあざ笑うかのように、吉継の声は上機嫌であるように聞こえる。
「さて、ぬしと顔を合わせるはあの同盟のとき以来よの。何かと立て込んでおってな、いやスマヌ」
「いいえ。お忙しいのでしょう」
 温度の無い声で、は答える。
 この男には、油断してはならないと思う。
 この大坂の、事実上の主は石田三成であると、は理解している。だが、先だって真田忍びが潜入したときのことを思い返せば、どうもこの男の言動は、石田三成の考えの外にあるように感じられた。亡き豊臣秀吉の仇討を掲げる石田軍は、しかしその実一枚岩ではないのかもしれない。そうだとするならば、自分は慎重にならなければ。同盟相手の武田に、幸村に、間違っても害が及ぶことのないように。
 意を決してぐいと吉継を見据える。包帯に隠された顔に、どのような表情が浮かんでいるのかはわからない。目元が笑っているからといって、その者が心底笑っているとは限らないということは、も学んだのだ。主に佐助から。
「ついて来やれ。城を案内しよ」
 ふわりと輿が持ち上がって、吉継がそう言った。座したまま内心身構えていたは、ぱちりと瞬きをする。
「は、・・・・・・その、よろしいのでしょうか」
 是と答えながら、しかし疑問がぬぐえなかった。
 佐助の言を借りるならば、同盟とは友人ではない。現状の名目は徳川に対する共同戦線、その戦が終わった暁には同盟関係は終了し、は幸村の元へ戻ることになる。その後武田と石田の関係がどうなるかなど、この戦乱の世にあっては想像が難しい。石田家の人間ではないに、この城の造りを知られるのは、後々厄介ごとにつながる可能性もある。
 それを、「凶王の黒い腹」であるこの男は、きっと理解しているはずだ。
 それに、――
「おのれの暮らす場をよう知らぬのは何かと不便であろ」
 の問いに、吉継はヒヒと笑うだけだった。
 何を考えているのだろう、そうは思っても、しかしこの場で吉継の申し出を拒否する理由も思い浮かばない。
「・・・・・・は」
 とりあえずは頷いて、は浮かび上がった輿の後を追って立ち上がった。
 そのを見つめて、吉継が口を開く。
「ぬしひとりが着いて来よ」
「は!?」
 当然のようにに付いて立ち上がった鎌之助が、声を上げた。
「俺護衛なんで、さんの側を離れられないっすよ!」
「ヒヒ、護衛とな。忍びの分際でよう言う」
「!」
 嘲笑のような吉継の声に、と鎌之助は同時に眉を動かした。なぜなら、鎌之助が真田忍びの一員であることは、この城の誰にも知られていないはずだったから。
 鎌之助は先の大坂潜入には加わっておらず、同盟手続きのためにこの城を訪れた武田家の特使団のひとりとして、兵に混ざっていた。佐助によればこの忍びはとかく隠密行動に向かないのだと言う。それはここ半月の間生活をともにしたにもよくわかった。鎌之助がの供に選ばれたのは、忍びらしくないところが理由ではないかとは考えている。
 それなのに、吉継は初対面であるはずの鎌之助を忍びと言った。
 考えにくいことだが今この間の彼の挙動から忍びと見抜いたのか、それともなにがしかの情報網をもってそれを調べたのか。
 と鎌之助の視線の先で、吉継は鷹揚に言う。
「忍びのぬしは案内など無くともいくらでも自分で見知るがよかろ」
 蔑みの滲む声だった。何か言いたそうにしている鎌之助に、は声をかける。
「鎌之助」
 鎌之助はぐっと言葉を飲み込み、そして短く息を吐いた。
「・・・・・・何か、あったら、呼んでください。俺、耳だけはいいんで」
「ありがとう。だが大丈夫だ。わたしたちは同盟のためにここにいる。危害を加えられるようなことはないはずだ」
 押し黙った鎌之助を納得したものと判断して、は立ち上がる。無意識のうちに傍らに置いていた刀を取り上げて、
「・・・・・・」
 その刀を見下ろす。帯刀するなと、五助に言われた。たしかに今の格好では、刀を差すことは難しい。
「・・・・・・これは、預かっていてくれ」
 そう言って刀を差しだすと、鎌之助は不安気な視線を返してきた。
「・・・・・・いいんすか?」
「構わない。不要なはずだ」
 は小さく笑うと、刀を鎌之助に渡した。
 慎重に動くべきだとは、思っている。だがあからさまな警戒心を露わにすることも、得策ではないように思えた。無用な諍いは避けるべきであろうし、それに。
 はすでに進み始めている吉継の背を見つめる。
 あの男は今、義理とはいえ、己の父親なのだ。








 手入れの行き届いた長い回廊を、は着物の裾を踏まないように気をつけながら進む。
 追う輿の動きは存外に速い。男の装束であれば難なく歩いて追える速さではあったが、今のには難しいことだった。
 女物の小袖の、この長い裾が邪魔だ。
 叶うことなら裾をからげて持ち上げてしまいたい。が、行き交う侍女を見てもそんなことをしている者はいないし、黄梅院だって何不自由なく歩いていたのだ。おなごならば、この装束でも思うように動くことができて当然のはずである。
 考えていたら案の定裾を踏んで体勢を崩した。とっさに風を動かして、なんとか倒れ込むのを堪える。
「・・・・・・、」
 体勢を整えながら、は息を吐いた。
 なんという無様な姿だろう。
 集めた風が散って行くのを感じていたら、その風に乗った声が耳元を掠めた。
 思わず聞こえた方向へ顔を向ける。内庭を挟んだ回廊の向こうに、数人の侍女の姿が見えた。
 しまったと思った時にはもう遅い。風を散らす間もなく、その声は耳に届く。
 は眉根を寄せた。そのとき侍女たちがこちらに気づいたようで、一度こちらに視線を投げてからゆっくりと歩いて行く。
 面と向かって視線を投げてくるというのは珍しいと、は思いながら、そこから視線を外す。
 ――化け物、物の怪、そういう言葉が、聞こえた。
 大坂城の、この二の丸で暮らし始めて半月。
 こうした光景は、珍しいものではなかった。
 姫君という立場上、が普段接するのは鎌之助と五助を除いてはすべて女性、配膳や掃除をする女中たち、身の回りの世話をしてくれる侍女たちだ。その彼女たちがああやって離れたところで何やら話をしている光景を、よく見かける。陰口ならば、小田原ではよくあることだったし、も慣れたものだった。こちらを見ているからと言って、自分のことを話題にしているとは限らない、その内容はたとえ聞こえる距離であったとしても聞かないに限る。
 しかしながら、風を使うは生来音に敏感だった。意識して聞かないようにしなければ聞こえてくる声も、ある。
 そのすべては、蔑みと恐怖。
 対象はであることも多かったし、そして、
「――慣れぬようだな」
 先に進んでいた吉継が、ここまで戻ってきていた。
 は踏んで乱れた着物の裾を慌てて直しながら、口を開く。
「は・・・・・・、申し訳ありませぬ」
「ヒヒヒ、まあそう気を落とすな。そのうち慣れよう」
「は、」
「猿引きの猿とて、一月もあれば歩きやる」
「・・・・・・」
 吉継の引きつれた笑い声に、は顔から表情を落とした。吉継はなおも「ヒヒ」と笑いながら、輿を反転させてさきを進んでいく。
 その背を、は見つめる。
 そう、女中や侍女たちの陰口の対象は、であることも多かったが、それと同様に、この吉継に向けられたものであることも多かった。
 確かに彼は異形だ。何を考えているかわからない。それはひとに、恐怖心を与えもしよう。だが彼は少なくとも、この二の丸の主だ。ここで働く者たちの主であるというのに、何故。
 と、そこまで考えて、再び吉継との間に距離が開き始めていることに気づいたは、改めて歩を進める。
 今度は裾を踏まないように――
「・・・・・・!」
 相変わらず四苦八苦しながら進むが、先ほどまでより吉継の進む速度が落ちていることに気が付いて、は眉を持ち上げた。
 ・・・・・・気遣って、くれているのだろうか。


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20130419 シロ@シロソラ
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