第十一章 第四話

 穏やかな風が、色づき始めた桜の葉を揺らしてさわさわと音を立てている。
 秋本番を迎えている信州上田城本丸広場には、その葉擦れの音を裂くような風切り音と、気合いのかけ声が響いていた。
「――ふッ」
 振るうは両の腕の模擬槍。素振りであるが、まるで目の前に倒すべき相手がいるがごとく、その動きは力強い。
「はッ!」
 二槍の動きに呼応するように、頭の後ろで一房だけのばした髪が生き物のように踊る。散った汗が陽の光を反射してきらと輝くその姿は、下働きの若い娘たちからときに憧れのまなざしを向けられるものだ。
 どこをどうとっても、それは上田城主、「真田幸村」の姿。
「――ただいま戻りました」
 交差させた槍を振り切って動きを止めたところで声がかかって、「幸村」は体勢を整えて声の聞こえた方へ顔を向けた。
 そこに立つ人物の姿を認めて、表情を緩める。
「甚八!戻っておったか!」
 軒先から広場へ降り立ったのは、薩摩から戻って以来しばらく躑躅ヶ崎にいたはずの忍び、根津甚八だった。「幸村」は溌剌とした笑顔で彼をねぎらい、そこで周りに他の気配がないことを確認してから、口元を大きく曲げる。
「ちぇー、アンタじゃなくて幸村様はまだ帰ってこないのかよーつまんねぇ」
「・・・・・・お前な」
 同じく周りに他人がいないことを確認して、甚八は呆れた息を吐いた。
 幸村が率いる武田家の特使団は、大坂からの帰路の途中だ。そろそろ甲斐に差し掛かかる頃合いではあるが、先に躑躅ヶ崎の勝頼の元を訪れるはずで、上田に戻ってくるのはまだ先だった。
 つまりここにいるのは城代こと幸村の影武者、忍びの穴山小介である。
「だーってアンタみてぇなウドの大木視界に入れたってなーんもおもしろくねぇもんよ、まだ佐助のがマシだわー」
「せめて長と言え」
 げんなりとした甚八の声にも、小介は悪戯っぽく笑って肩をすくめただけだった。こうして笑うところなどは幸村とは似つかない。だが小介が本気で幸村の振りをしているときは、忍隊の者であっても、ときに見分けがつかないことがあるほどだ。
 生まれついて「真田幸村」と酷似した容姿と声を授かった。この小介が城代を任されている理由が、しかしそれだけではないことを、甚八も理解している。
「そーだ甚八、ちょっと相手してくんない?」
 小介が模擬槍を持ち上げながらそう言ったので、甚八は頷きながらも聞き返した。
「まだやるのか」
 見れば小介は前髪から滴るほど汗をかいている。甚八が上田に帰城したのはつい先ほどだが、ずいぶん前から鍛錬をしていたのだろうと想像に難くない。だが小介はにいと口角を上げてみせた。
「俺はしばらく幸村様に会ってないけどさ、なんでも一皮二皮剥けちゃってるんでしょ?逞しくなったとか聞いたし、その辺ちゃーんとそろえないとね。ってか甚八はずっと幸村様と一緒だったんじゃねぇか、どうよ?背丈とか、離れてたりしない?」
 そう。小介という男は、性格的には一癖も二癖もあり、甚八も実際に手を焼いているのだが、こと自分を「真田幸村」に似せることに関しては、その努力を決して怠らない。
 それこそが、この小介が真田忍びのひとりであり続け、また城代という立場にある理由だ。
 甚八は小介の問いに是と答える。
「ああ、体格も問題ないと俺は思う」
「そっか!っしゃ、じゃあ一本勝負と行こうぜ」
 にかりと歯を出して小介が笑ったところで、ばたばたとこちらに近寄る足音が聞こえた。とたん、小介はすうと表情を引き締め、甚八はその場に控える。
「幸村様!一大事にございます!」
「いかがした!」
 駆け寄ってきたのは櫓に詰めているはずの物見の兵だった。小介が幸村そのものの抑揚で問うと、年若いその兵士は息を切らしながらその場にひざをつく。
「てッ、敵襲の伝令にございます!騎馬の一軍が国境に、その数およそ五千騎!」
「旗印は見えたか」
「は、紺地に金の丸との由!」
「伊達だと、」
 甚八がわずかに眼を見張ってそう言う。小介は一瞬考えるようなそぶりを見せてから、兵に命じた。
「あいわかった、すぐに軍議を開く!皆を集めよ!」
「ははッ!」
 平伏してから兵は走り去っていく。その背が見えなくなってから、小介は吐息した。
「戻ってばっかのとこ悪いけど、甚八。働いてよね」
「・・・・・・幸村様がまっすぐこちらに戻られたとしても、まだ十日はかかるぞ」
 甚八の静かな声に、小介はにやりと笑って答えた。
「こういうときのために俺がいるんだ。持ちこたえるさ」










 伊達軍による上田城急襲の報を幸村が聞いたのは甲斐国境にちかい宿場町であった。
 驚きに一瞬声を無くした幸村に対し、その報告を上げた佐助は嫌そうに口元を歪める。
「ったく、ちょっとナリをひそめてたと思えばこれだもんなァ、復活はいいけどイの一番にウチを狙うってのが独眼竜らしいっつうかなんつうか」
 報せを聞きつけた武田の将兵たちはにわかに色めきだった。
「なんと、我らの不在を突くとは、」
「しかし甲斐は奥州とは同盟を結んでいたというのに、魔王は潰えたとはいえなんたる恥知らずな!」
「よもやお館様のことを聞きつけたか、あの小童めが!」
 将兵たちの声を聞きながら、幸村は思考を巡らせる。
 戦が常の世の中、役目を終えた同盟がいつまでも効力を持ち続けるなどとは幸村も考えてはいない。さらに相手はあの独眼竜。いつかは雌雄を決せねばならぬ相手だ。
 だが、どうにも間が悪かった。
 今、上田城には兵力と呼べるようなものがほとんど無い。
 主家たる武田の代替わりにともない主戦力は躑躅ヶ崎に集中しているし、そのうちの精鋭が今回の大坂行に随行している。上田に残っているのは小介を含む忍隊と城の警備のための兵のみ。上田の地そのものを守るには、到底足りない。
 ――いや、間が悪いなどという言葉を使うわけにはいくまい。
 小田原の役で大敗し、徳川軍の侵攻を受けたと聞いて、しばらく伊達は動かないと考えた自分が浅慮だったのだ。
「背を疎かにするなと、あれほどお館様も仰っておられたというのに・・・・・・!」
 膝の上で握った拳に力が入り、掌に爪が食い込んだ痛みでわずかに思考が冷えた。
 そう、今は悔やんでいる時間は無い。賽はすでに振られたのだ。
 どうする。
 現在の上田城の戦力では、伊達軍相手にまともな戦はできない。籠城したとしてもいくらも耐えられまい。そして上田が陥落すれば、竜が次に牙を剥くのは躑躅ヶ崎だ。奥州の双竜が上田だけを平らげて満足するはずが無い。
 この宿場町から馬を駆けて、通常なら躑躅ヶ崎まで五日、上田までさらに五日。伊達軍はすでに上田城に肉薄している、十日もかけては到底間に合わない。
 ならば躑躅ヶ崎で戦陣を整え、南下する伊達軍を迎え撃つか。
 考えて、幸村はぐっと眉根を寄せる。
 それはつまり、上田を見捨てるということだ。
 それはならない。
 それだけは、ならない。
 祖父が拓き、父が興した上田の地を、己は何としても守らなければならない。
 かくなる上は。
「――佐助」
「単騎駆けなら許すわけにはいかねぇよ、大将」
「なっ」
 こちらが何か言う前に、傍らに控える佐助は平坦な面持ちで口を開いた。
「アンタのことだ、一人ででも上田に戻ろうとか考えてるんだろ。確かにアンタの早駆けに敵う奴はこの場にはいない、上田が落ちる前に間に合うかもしれない」
「ならば!俺一人でも、」
「馬鹿野郎」
 はー、と佐助は息を吐く。
 急に薄ら寒くなったような気がして、幸村は思わず口を閉ざした。
 動揺が広がり、口々に打倒伊達を唱え始めていた将兵たちも、気圧されたように顔を見合わせる。
 佐助の、底冷えするような視線が、幸村を貫く。
「アンタは、大将だ。アンタひとりが先陣を切れば勝てる戦はもう終わったンだよ」
「ッ、」
 佐助の言葉に、幸村は愕然と眼を見開いた。言葉を失った口からひゅうと息が漏れ、そして痛みに耐えるかの如く目を伏せる。
「・・・・・・、お前の、言うとおりだ」
 言って、ひらりと馬に跨る。
「上田に戻る。できうる限り先を急ぎたい、皆の者、よろしく頼むぞ!」
 見渡した将兵たちが、一斉に応と答えた。
 その様子に小さく息を吐いてから、佐助は馬に跨った幸村を見上げる。
「いいのかい大将。ひとつ間違えれば躑躅ヶ崎が危ないんだよ」
「重々承知しておる。だが俺は、小介を信じる。あ奴はそう簡単に、城を明け渡しはせぬ」
 甲斐へと続く街道、その先を見据えて、幸村は手綱を握った。
「ゆくぞ、佐助!遅れるな!」
「はいはいっと」
 呆れたように応えながら、佐助の口元にはわずかに笑みが宿っていた。


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20130330 シロ@シロソラ
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