第一章 第六話

 一気に駿河の国を越えて森を抜けた先、桶狭間が見えては地面に降りた。
 見下ろすと、合戦、というより混戦の状態である。
 青を基調にした騎馬の一団が、一方的に猛威を振るっているように見えた。
「紺地に、金の丸」
 無意識につぶやく。斥候からの報告通り、それは奥州の伊達軍の旗印だった。
 ということは、あの青い一団が伊達軍。
 一方的に追い立てられている白っぽい一団は・・・・・・
「――!」
 白地の旗、紋は丸に二引き両。今川軍だ。
 青い一団の先端、横倒しになった輿が見えた。
 このご時世に戦場を輿で移動する武将といえばこの辺りでは一人しかいない。
 今川義元がいる。
 なぜ伊達軍が今川軍と戦っている(一方的に今川軍が蹴散らされているようにも見える)のかはわからなかったが、とりあえず今すぐ北条が被害を蒙ることはないように思えた。
 どうやら追い抜いてしまったらしい真田幸村の目的も今川義元だろうか。それともあの伊達軍だろうか。
 どっちにしても関係ないからもう帰ろうか。
「・・・・・・いやだめか」
 今川義元が伊達軍に打ち取られて駿河が伊達に占領されでもしたら、相模は奥州と駿河から伊達軍に挟み撃ちにされてしまう。
 今川家と北条家は同盟関係でもあるから、このまま見捨ててしまうのもなんとなく目覚めが悪い。
「今日は厄日か」
 ひとりごちて、は再び地を蹴った。
 風に乗って、戦場を飛ぶ。
 しかし、伊達軍は強い。
 今川家とて、駿府の名門だ。その軍事力は侮れないし、今でも伊達軍より今川軍の方がどう見ても人数がけた違いに多い。
 それなのに今川軍は指示が行き届いていないのか、陣形は崩れ逃げ出す者も多く見えた。
 ・・・・・・伊達軍にはバサラ者が混ざっているのか。
 そう思えば、先ほどから不自然に空を走る雷光にも納得がいく。
 ・・・・・・これは、義元公をひとり助けても、駿府は占領されるかもしれないな。
 圧倒的な戦力の差を目にして、は溜息を吐く。
 そして担ぎ手もなく横倒しになった輿のそばにひらりと降りた。
 躊躇なく輿をゆする。
「おッ、おじゃッ!」
 やはりいた。
「・・・・・・今川、義元公か?」
「おじゃ、そなたは誰じゃ」
 白粉を塗った顔を出したのは、もう泣きそうな顔をした狩衣の男。
 この京趣味、間違いない。
「わたしが時間をかせぎます。早くここから逃げるのです」
 今川義元は一瞬驚いたように目を丸くし、すぐに背後でうずくまっている家臣(と思われる)をがくがくとゆすった。
「は、早う!まろの影武者を用意するのじゃ!」
「Hey、なんだ、アンタは」
 今川義元が行動を起こし始めたのを見て、はゆっくりと背後を振り返った。
 夜明けが近い、仄暗いこの場において、それでも目立つ鮮やかに青い陣羽織。
 奇抜な装飾の鎧と腰に差す六振りもの刀に目が行くも、やはり際立つのは右目の眼帯。
 噂でしか知らないが、おそらく間違いないだろう。
 この男が、奥州筆頭。
 独眼竜、伊達政宗。
「もう一度問うぜ、アンタは何だ」
 伊達政宗が半眼になって問う、どう答えるべきかとは考えていた。
 武田軍のときとは違う。自分が――北条の人間が、この場にいたというのは後々よろしくない。
 このまま今川義元が逃げおおせたとしても、今度は北条が伊達の敵と見なされることになるだろう。
 今この目に見せつけられた伊達軍の力に、おそらく北条軍は勝てない。
 とにかく、北条は今の老将を頂いた状態で、どこかと戦を交えるべきではないのだ。
 どうする。
「Hey」
 伊達政宗がこちらへ一歩、歩み寄る。
「なぜ黙っている?お前は今川の家臣か」
 どうする。
「わたしは――、そうだな、今川家家臣が一。な、名無しの権兵衛だ」
「Ah?」
 自分で言っておいて、は内心うなだれた。
 もう少しましな偽名はないのか。
 しかしどこの家の者とも名乗れない。
 とにかく今川義元が逃げる時間を稼がなくてはいけない。
 伊達政宗がその独眼を釣り上げるのが見えた。
「――テメェ、けんか売ってンのか」
 やはり怒らせたらしい。
 は周囲へ視線を泳がせる。
 今川軍はほぼ壊滅だ。伊達軍の大半はすこし離れたところにいるようで、ここには伊達政宗と、家臣と思われる男がひとり。
 男のほうはこちらを見ているが、手出しをする気はないように見える。
「どこ見てるンだよ」
 致し方ない。
 独眼竜を、殺そう。
 ただし、相手は噂に聞く竜だ。自分の実力で確実に殺せるだろうか。
 それが無理だと判断した場合は、ある程度時間を稼いですぐ逃げよう。――逃げられれば、だが。
 そこまで考えて、は右足を一歩、前に出す。足元の土くれを潰す、ざり、という音。
 そして身体の重心を、落とした。
「・・・・・・義元公を。見逃してはもらえまいか」
「Ha、愚問だな」
 伊達政宗が一振りの刀をすらりと抜く。
 あと一歩で間合いに入る。
 帰れたら、今後のために役立ちそうな偽名を考えようと心の隅で誓って、は右手を刀に添え、左手を鯉口にかけた。
 おそらくこちらを見下しているのだろう、およそ不用心とも思える大胆さで、伊達政宗の左足がの間合いに入った。

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20120529 シロ@シロソラ
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