第一章 第五話 |
――今川義元に翻意あり。 その情報を佐助が持ち帰ったのは5日ほど前のことだ。 駿河の今川家が、甲斐との同盟を捨て、織田へ恭順するような動きがあった。 さらに、奥州の独眼竜が上洛の動きを見せたとの知らせもあった。 この東国から上洛するには、どうしても駿河を通る必要がある。 「伊達政宗に先を越されてはお館様のお顔に泥を塗るようなもの!今川は我らで討たねばなりません!!」 「よく言った!そなたの言うとおりぞ。今川が織田に寝返ったとあっては猶予もない。すぐ準備せい幸村ァ!」 「お館さまあァァ!」 「ゆぅきぃむぅるぅああぁぁ!!」 「ぅお館さまあァァ!!!」 ・・・・・・といういつものやりとりを経て、武田軍は今、相模の国境を伊達軍を追って進んでいる。 徹夜の行軍であったが、伊達軍に後れをとるまいと息巻いていた幸村の前方、砂煙をあげて一騎の馬が降り立った。 「何者だ!」 幸村は一歩前に出て相手を注視した。 月明かりに照らされたのは、栗毛の馬と、 ――少女? 目を細める。 一瞬少女と見間違えるほど線の細い、若武者であった。 年のころはおそらく幸村と同じか少し下。 武者、と言っていいのだろうか。 兜もなければ鎧もない。若草色の着物のうえから身を固めるのは胸当てと籠手、脛当てのみで、もちろん陣羽織もない。 狩りにでも出かける格好のように見えたが、しっかりと刀を差している。 長い黒髪をきちりと結い上げ、さらりと風に揺れる前髪の間からまっすぐこちらを見つめる双眸が見えた。 吸い込まれるようにその眼を見つめる。 夜空を押し込めたような、きれいな眼だと、思った。 かつ!という若武者の馬が一歩前に出た蹄の音で幸村は我に返る。 ――俺はいま、何を考えていた? 「――馬上より失礼する!甲斐の武田信玄公とお見受けする!」 少し高めの、凛とした声が静寂を破った。 若武者の視線はいつの間にか幸村から外れ、その背後、二頭の馬に立つ信玄に向けられていた。 「わたしは北条氏政が家臣、と申す!」 まさか甲斐の虎の異名を知らないわけではないだろう。 若武者はしかし、背筋を伸ばし、臆することなく信玄を見上げている。 ――老いて戦には不慣れであるという北条氏政の評を聞き及んではいるが、相模にはこのような立派な武者もいるのだな。 若武者へ槍を構えた歩兵を手の動きで制しながら、幸村は胸の内で感心していた。 頭上より、信玄の重い声が降ってくる。 「・・・・・・いかにも、我が名は武田信玄である」 「何故武田の軍隊がここにあるのか!この地を北条の領内と知っての行軍であるか!」 しまった、と幸村は思った。 伊達政宗を追うがあまり、誤って北条領内へ入ってしまったのだ。 「殿と申したか!某は真田幸村と申す!この地へ踏み入ったは相模への侵攻ではござらぬ!」 若武者の眼がすぅ、とこちらへ動く。 それだけで心の臓がどくりと動いたのがわかった。 この若武者はなんなのだ。 「幸村。よい」 頭上より信玄の声がし、幸村は「は、」と控える。 「殿。この幸村が申したとおり、我らに北条に攻め入る意図はない。北条領内と気づかず踏み入り、申し訳ない」 若武者はふたたび信玄を見上げる。言葉の真偽を図っているようだ。 「では、この行軍の目的はいったい何か」 「それは――」 信玄の言葉を遮るように、軍隊の後方から銃声と馬の嘶きが聞こえた。 「どうした!」 幸村は振り返る。 「それが!崖の上に騎馬隊が!」 見上げると、報告のとおり騎馬隊が見えた。北条軍だ。 すでに崖から降りてきているものもあり、武田軍の後方部隊と小競り合いになっているようだった。 若武者を振り返ると彼も意外であったのか、目を見開いている。 北条軍はおよそ百騎と見えた。幸村ひとりの力でも蹴散らすはたやすい。 しかし、そうこうしている間にも伊達軍が今川へ迫っているのだ。 「幸村、行けィ!」 幸村の逡巡を撥ね退ける声が、頭上より降ってきた。 見上げると、信玄がひとつ頷く。幸村は「は!」と短く応え、馬を駆った。 数歩で若武者とすれ違う。 その眼が幸村を射抜くように見ている。 ほんの一瞬であるはずなのに、すべての動きがやけにゆっくりと流れた。 待て、と若武者が口にするのがわかった。 答えずに前を向く。すべての動きがもとの速さを取戻し、馬が蹴立てた砂煙がばちばちと頬にあたった。 ――、。 いったい何者なのだろう。 武田軍の若武者、真田幸村がすぐ横をすり抜けて行ってしまってから、は我に返って声を上げた。 「一郎!!」 一郎が駆け下りてくる。 「すまん!!慣れてないやつが発砲しやがって」 ――主が主なら兵も兵か! 戦場で不用意に発砲するなどもっての他だ。 「――信玄公!」 微動だにせずこちらを見つめていた信玄に向き直る。 こちらの胸のうちなどすべて見抜いているかのような目線だ。 内心冷や汗をかきながら、はそれを悟られまいと声を張り上げる。 「こちらの不手際である、申し訳もござらぬ!我らにも、甲斐と争う意図はありませぬ!」 そして一郎の着物の首をつかんだ。 「一郎、あと任せる」 「えぇっ!?」 「とにかく撤退だ。武田軍と争うな。城に戻ったら殿に伊達軍は素通りしたと報告しろ。あとはわたしが戻ったら報告する」 「戻ったらって、どこへ」 「真田幸村を追う!彼奴の目的を確認したら戻る!!」 それだけ言い置いては馬の腹を蹴った。 「ちょ、さまァ」 一郎が世にも情けない顔をするのが見えたが、ぐいと親指をたてて見せる。どうやら信玄公に北条を侵略する意図がないのは本当のようだし、一郎はあれでが信用を置いている家臣だ。 それより単騎で行った真田幸村の動向が気になる。緋色の奇抜な風貌もさることながら、彼の男は只者ではないと直感で思う。 あの、鳶色の眼。暗がりでは松明の火に照らされて、黄金色にも見えた。 なんだ、あの眼は。 悪いものは感じなかった、だがなにか心に引っ掛かるものがある。 しばらく馬を駆って、しかし先を行くはずの男の気配が感じられず、彼が存外速く馬を駆っていることがわかった。 も速駆けが得意な方ではあるのだが、さすがは甲斐の若虎、このままでは追い付けない。 ――これをやると、追い越してしまいそうだが。 一瞬だけ逡巡し、馬の速度は下げなまま、その耳元へつぶやいた。 「お前は城に戻りなさい」 馬が鼻を鳴らす。 「いい子」 そう言って馬の首を何度かさすり、そのまま馬上で立ち上がって鞍を蹴った。 前を見つめる。意識を集中する。 ひゅう、と耳元で音が鳴る。風が集まる。 「――ッ!」 声にならない声を上げて、は風を蹴った。 馬が数歩先で速度を落とし、が爆発的な速さで飛んで行くのを見つめる。 あたりには巻き上げた枯葉がひらひらと舞い落ちていた。 「何だァ・・・・・・?」 木の葉を散らす枝から逆さづりの状態で、猿飛佐助は気が抜けたような声をだし、 「っと、いけね」 木々の間を縫ってすぐに姿を消した。 |
20120528 シロ@シロソラ |
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