第一章 第四話 |
あたたかな気持ちだった。 「」 自分を呼ぶ声が聞こえる。 春の庭で、縁側に腰掛けた父が自分を呼ぶ。 「ちちうえ!」 父の姿がうれしく、しかし手合せ中であったことを思い出し、相手を見上げると、笑ってうなずいてくれたので、今度こそ父のもとへ駆け寄った。 「ちちうえ!」 「殿、姫様はまこと筋がよろしゅうございます」 背後から、手合せをしていた父の家臣がそう言うのが聞こえた。 父はそれを聞いて、 ――ほんの少し、顔を曇らせた。 ・・・・・・そう、見えたと、思う。 なぜだろう。 父は自分が強くなることを望んでいるはずなのに。 こころに、不安がよぎる。 しかし父は自分へ笑顔を向けた。 「そうかそうか」 その笑顔は確かに、自分に向けられたものと信じている。 「そなたが男子であればと思うが、それは言っても詮無いことだな」 頭を撫でてくれた大きな手のあたたかさは、真実であったと信じている。 あの春のあたたかな日。 父が病に倒れたのはあの年の夏ではなかったか。 気配で目が覚めた。 一瞬自分がどこにいるのかわからなくなって、落ち着こうと息を吸う、吐く。 そう、小田原城だ。御本城様から呼びだしがあって今日は客室で泊まっていたのだ。 こちらが起き上がるのを待って、障子が開く。 「小太郎」 予想通り、そこには月明かりを背に主に仕える忍びが控えていた。 小太郎の背後、夜空は月があかるい。まだ夜明けまでは時間がありそうだ。 ただならぬ気配を感じ、まさかとは思うが問う。 「敵襲か」 小太郎は小さくうなずいた。 「すぐ行く」 そう言って立ち上がる。すでに小太郎の姿はない。 夜着を捨てるように脱いで、着物を手に取る。袖を通す前に、胸元に巻いた布の締まり具合を確認した。 ――ずいぶんと昔の夢を見た。 手早く着物を身に着け、髪を結いあげる。手近に置いてあった刀を差し、室の外へ出た。 静かな夜だ――静かすぎる。 虫の音も聞こえない。 多少音を立てることも構わず、は城内を走る。 小太郎の雰囲気から察し自分で聞いたものの、敵襲とはにわかに信じがたかった。 いったい、どこからの。 昨日の話がもう隣国――甲斐へ、漏れたのだろうか。 混乱は他の者たちも同様らしい。城内は漸く人々が動き始めた気配があるが、浮足立っていると感じた。 胃の腑をぞろりと何かが這うような、嫌な予感がする。 「にございます!」 「うむ、入れ」 「は!」 許可の声を聞き、は主の室へ入った。 灯りのともされた薄暗い室の上座に、夜着に上掛けを羽織っただけの氏政が座っていた。 「敵襲と、聞いております」 「うむ、そろそろ斥候が戻るじゃろう」 室内を見回すが、灯りの火が届かない暗がりに小太郎が控えているのがわかる程度。別室で寝ていた一郎にはすでに馬の用意を指示した。他の家臣はまだ到着していないようだ。 「この北条に攻め込むとは、どこの不届きものか・・・・・・」 氏政はひとりごとのようにつぶやいた。 「とにもかくにも、が城内におったは僥倖であった」 「・・・・・・は」 正直のところ、ここでのんびり斥候を待つ時間がもったいなかったが、顔色には出さず頭を下げた。 背後にあわただしい気配を感じる。 「も、申し上げます!」 振り返ると斥候であったが、動転しているのか床についた拳が震えているのがわかった。 戦において斥候が震えるとはいかがかとはどこか冷えた心で思う。 どんな状況においても情報を正確に伝えるのが斥候の仕事であり、そこに驚愕や恐怖の感情があってはならない。 だが、斥候の報告を聞いてさすがにも眉を動かした。 「軍旗はこ、紺地に金の丸!」 「・・・・・・奥州の竜だと?」 「なんじゃと!あの若造が!」 意外な名であった。 奥州は相模よりさらに東国。ここまで来るためにはいくつかの国を通らなければならないし、その間北条の忍びはその動きを察知していなかった。 昼間に一郎と言い合った不安がまた生まれる。 戦とはただ戦場で命の取り合いをすることだけにあらず。戦場で会いまみえるまでのあいだに幾多の情報戦が繰り広げられるのだ。そこには、忍びの力が必要不可欠。 ・・・・・・伝説の忍びがひとりいれば小田原城ひとつくらいは守れると、殿はお考えなのかもしれないが・・・・・・。 「殿。ひとまずこのが確認してまいります。伊達の独眼竜は気性が荒いと聞きますが、まさか使者も立てずに奇襲はしますまい。とにかく他の方々が到着するまでこちらでお待ちを。城内の騎馬隊を一団、お借りいたします」 「う、うむ、そなたの言うとおりじゃ。頼むぞ」 「は」 平伏し、は立ち上がった。 このままこの老将が「御本城様」である限り、この先北条家の道筋はそう長くないかもしれない。 それでも自分は北条家の家臣・として、「相模の獅子」の血族を守るべく、ここにいる。 百騎ほどの騎馬隊を連れ、は馬を駆った。 小田原城から山に入ると、街道が見下ろせる場所がある。 見知った人影を見つけ、は馬を止めた。 「一郎」 「様」 一郎が年下の主を認め一礼した。この男がふざけていないときは、緊急事態だ。 「どうした」 「それが。見てくれ」 一郎のただならぬ気配を察し、騎馬隊をその場で静止させると、は馬上から街道を見下ろした。 ぞろぞろと進む一団が見え、息を殺す。 ところどころを照らす松明、騎馬が多くを占めているように見える。 月にかかっていた雲が晴れ、その場が照らされた。 「――!!!」 照らされた一団の旗印。 ――風林火山だと!? 「どういうことだ、斥候は伊達だと」 「確かに伊達軍もここを通り、西へ通り過ぎました」 「通り過ぎた?」 はまだ夜明けの遠い西の空を見つめる。 「西・・・・・・駿河か」 「そして後から、この武田の軍が」 どういうことだ。何が起こっている。 やはりこちらが今川とともに同盟を破棄する動きを早々と察知したのか。 だがまだ決定事項ではないし、何よりあれから一日もたっていないのに甲斐からここまで移動できるのか。 考えをめぐらせながら見つめたさき、武田軍の一点に噂に聞く軍旗を見つけ、はさらに目を見開いた。 その馬の旗印。 朱地に金の花菱――武田菱の文様。 甲斐国主、武田信玄その人が出陣しているのだ。 「一郎、わたしが降りる。お前はここで待て」 「しかし!」 「待て」 食い下がる部下に言い捨てて、は街道への崖を駆け下りた。 |
20120528 シロ@シロソラ |
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