第一章 第三話

「――つまり、甲斐と、袂を分かつ、と・・・・・・?」
 できるだけ平静を装って、声を絞り出した。
「そうじゃ」
 だがこちらの動揺を知ってか知らずか、老将はあっさりと肯定する。
 北条氏政の手にある書簡。そこに書いてある内容。
 駿府の今川義元より、同盟を抜けないかとの誘いがあった。
 同盟とはもちろん、駿府・相模・甲斐の三国で結んでいる不可侵の同盟。締結したのは駿府の今川義元、甲斐の武田信玄、そして北条家の先代・北条氏康である。
「今川への、ご返答は、」
「まだじゃ。広く相談してからと思うての」
 それを聞いて内心、胸をなでおろす。
「殿のおっしゃる通りです。他の皆様方のご意見も聞いたうえでお決めになられるのがよいかと」
 おそらく全員が止めるのではないか。
 そう思いながら言うと、氏政は「ふむ、」と一言言って手に持つ扇をぱちんと閉じた。
「そなたは、どう思うのじゃ」
 は、言葉を選ぶ。
「・・・・・・確かに、今川と我らで手を組めば、その力は強大です。が、甲斐を相手取るには・・・・・・、甲斐の虎、並びにその家臣はみな勇猛果敢と聞き及びます。我らであっても、無傷で勝てるとは思えず、そこに万一越後や奥州から攻められれば、いくら我らでも・・・・・・」
 言葉につまった。
 老将がもそりと言う。
「防ぎきれぬと、そう申すか」
「・・・・・・恐れながら」
 本当は今川と手を組んで束になってかかったところで、甲斐に勝てるとは思えなかった。
 甲斐の武田信玄といえば、一人で何十人もの兵士を吹き飛ばすまさに虎と聞く。さらに家臣にも勇猛な戦士が多くいるらしい。それにひきかえ、北条の君主は自分の体を動かすのも大儀な老人。今川の当主、義元も慢心家で京都の公家趣味を愛し、戦には不向きであると聞いていた。
「良い、苦しゅうない。そなたのそういう歯に衣着せぬ物言いを、わしは信用しておる。じゃから、他の家臣たちより先にそなたの意見を聞こうと思うたのじゃ」
 確かに、他の家臣たちはもっと回りくどい言い方をして止めるのだろう。
「じゃがの、今川は越後にも声をかけているようじゃ」
「越後へ?」
 思わず聞き返す。
「我らと越後とで甲斐を挟み撃ちならばどうじゃ」
 確かに挟み撃ちができるならば、あるいは甲斐を落とすことができるかもしれない、とは思う。
 だがおそらく、挟み撃ちを実行する前にその動きを察知した甲斐の虎が北条に牙を剥くのだろう。
 言いよどんでいると、氏政は嘆息した。
「そなたずいぶん、虎の力を評価しておるようだの」
「いえ、そのようなことは・・・・・・、噂を聞くだけにございますれば」
「まぁよい、このことは明日、他の者も集めて結論を出す。そなたは今宵、こちらに留まるようにな」
「承知しました」
 よっこらしょ、とつぶやいて氏政が立ち上がる。
「有事の折には、そなたの力を期待しておるからの」
「は」
 主の退室を察し平伏する。
 その気配が感じられなくなってから、頭をあげた。
「ね、まずくね?」
「まずいな」
 こそりと背後から一郎の声がして、は溜息を吐いた。
 この部屋には小太郎がいるから、おそらく他国の忍びはいないと思うが、今の会話を甲斐に聞かれただけでも十分虎が牙を剥く理由になる。
 甲斐は忍びが充実しているというし。
「とにかく確実な情報がほしいな」
 一郎を振り返ると、主君がいなくなって気を抜いているのか、一郎が姿勢を崩して足を投げ出していた。
「ほんと、ここの忍びって頼りないよね。殿サマもいーかげん、小太郎に頼るのやめねぇかなぁ」
「お前は本当に小太郎が嫌いなのだな」
 先ほどの続きなのか、聞こえるように言っているのだろう一郎を見て、しかし彼の言う通りなのだとは思った。
 このご時世、どこの国だって組織だった忍びを雇っている。もちろん北条家も雇っているはずなのだが、氏政が当主となってからはあまり予算がかけられていない。
 氏政が風魔小太郎を重用しているためだ。
 風魔小太郎は金でのみ動く。一応本人に聞いたのだから間違いない。その働きは忠義心に基づくものではなく、ただひたすら金を積めばそれ相応の仕事をするというものだ。
 おそらく小太郎には巨額の俸禄が支払われているのだろう。その分他の忍びにまわす予算がなく、結果として北条家の忍びは素人のから見てもあまり質がよろしくない。
 ・・・・・・まぁ、小太郎がいなくなるとわたしが武術を習う相手がいなくなってしまうから、それはそれで困るのだが。
 ちなみに、武術の稽古については、彼の本来の主である北条氏政に許可はもらっているものの、原則との個別の契約になっている。稽古のたびに、相応の金子を包んでいた。としては、家の財政的には許容範囲内の支出であるし、それ以上に稽古で得られるものも大きいため、相応の礼をして然るべきと考えているが、一郎が小太郎をよく思わない要因のひとつともなっている。
「とりあえず、今川から誘いがあったのは、確実だよね」
 一郎の声にうなずく。
「そうだな、書状があったのだから」
「今川が越後に声をかけたっていうのは」
「それもおそらく、書状に書いてあるのだろう。・・・・・・その話を越後の上杉家が承諾したか否かは不明だな」
 越後を統べる上杉謙信は軍神の異名を持つ。戦となれば負け知らず、甲斐の虎とも対等に渡り合う武将と聞く。
 その気があれば自国の力のみで甲斐を落とすことができるかもしれないものを、わざわざ同盟など結ぶのだろうか。
「そんで、甲斐と奥州の動きも不明、さらに最近調子に乗っている織田の動きも不明ッと」
 おどけたように言う一郎に、呆れながらもうなずかざるを得ない。
 何だろうか、良くない予感が大きくなる。
 このところ、相模の国は大きな戦からは遠ざかっていた。
 三代目までの隆盛を極めた北条家ではあるが、当代の氏政に武将としての能力が足りないことは誰の目にも明らかだった。
 だが氏政ももう高齢だ。これから数年の間に、きっと家督が譲られることとなる。
 とにかくその数年を、何としても持ちこたえなければ。
 は膝に置いた拳を固く握った。


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20120525 シロ@シロソラ
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