あの日は確か、雪がちらついていた。 他には誰もいない放課後の図書室。空調が弱くて、寒かった。指先がひどく悴んで、もはや感覚もあまりなかった。でもそれは寒さによるものだけではないという自覚はにもあった。何をどう考えても、緊張のせいだ。 が両手で突き出すようにして差し出した小さな箱。濃紺の和紙で包んで赤い組紐をリボンに見立てたそれは、が自分で選んだ包装だ。二月十四日、今日という日から考えれば中身は推して知るべし。 それを見下ろした彼――クラスメイトで、片思いの相手であった石田三成の眼が、ほんのわずかに揺れるのを、は見逃さなかった。 「・・・・・・なんの、つもりだ」 そう問う、声の調子だって、いつもとは違うとわかった。 それがわかるくらいには、は彼と近いところにいた、そのはずだ。 「何って、ほら、今日バレンタインやんか」 の言葉に、彼は、――今度ははっきりと、眉を動かした。 ほとんど表情を動かすことがない彼にあって、これは間違いなく「動揺」だった。 ・・・・・・薄々、気づいては、いたのだ。 彼のこころには、以外の誰かがいることを。 彼がそれを口にしたことは一度もないし、交際をしている所謂「彼女」はいないことも確認済みだった、けれどきっと、彼はいつも、自分以外の「誰か」を気にかけている。それが誰なのか、どこにいるのか、そもそも女なのか、は知らない。 詳しいことは何一つ知らなかった。それは捉えどころのない、ぼんやりとしたもやもやだった。 だが、それはこのとき、確信に変わった。 彼には誰か想う相手がいて、自分が今日この日にチョコレートを差し出したことに戸惑っているのだと。 は、だから、笑った。昔から、笑うのだけは得意だ。 「――嫌やな、そんなびっくりせんといてよ。友チョコやって、高校生活三年間、いっつもお世話になったお礼」 「・・・・・・友、チョコ」 「そう」 「つまり、私は貴様の友人ということか」 「当たり前やん、いつもありがとぉ、石田」 がそう言ってにこりと笑えば、ようやく差し出したままのチョコレートの箱は受け取られた。 「ありがとう」 彼らしい、折り目正しい礼だった。 「どういたしまして。――でさあ石田、ここわからんのやけど」 「・・・・・・貴様の数学は穴だらけか。いったい授業で何を聞いていた」 「ひー厳しい、けど公式つっこんでも計算できひんねんて」 「だから使う式が違うのだ」 チョコレートを鞄にしまうなり、向かいの席から身を乗り出して、彼は律儀に公式の説明をしてくれる。 はそれを、終始笑顔で聞いた。 高校三年生のバレンタイン、受験勉強に明け暮れたあの図書室で、の恋は終わったのだ。
空から視線を降ろして、はコートの袖を少しずらして腕時計を確認した。 十八時を少しすぎたところだ。移動時間を鑑みてもぎりぎり間に合う、小さく吐いた安堵の息は白く染まって消えていく。 まったくはた迷惑な話だった。 年度末の繁忙期本番ではないとはいえ仮にも平日、しかも木曜日だ。こんな日に同窓会を開催するのはどこのバカだと思ったが、幹事が懇意にしているバーが今日なら格安で貸し切れるのだということだった。バレンタインに安く貸し切りってどういうバーだ。一抹の不安が過ぎったが、しかし同窓会を取り仕切る幹事は、の記憶通りならそうおかしな店を手配するような男ではなかったはずだった。埃をかぶった記憶がどこまで信用できるかは定かではないけれど。 そう、今日は二月十四日。バレンタインなのだ。 早上がりするのも一苦労だった。「なんや早瀬、デートか?」などとにやにやしながら聞いてきた上司に至っては、正直な話セクハラで訴えてもいいと思ったのだが、その程度のセクハラは流してなんぼである。「だとよかったんですけどねー、てかそんなん言うんやったら課長がデートしてくださいよぅ」と笑顔で答えてフロアを出てきた。 別に嘘は言っていない。 事実として、ここしばらくには、男っ気というものがまったくない。入社して二・三年くらいまでは合コンの話もよくあったのだが、このところそれもぱったりと無くなった。同期の多くは彼氏持ち、中には寿退社した子もいる。みんなそれなりに落ち着いたよなあ、というのが最近の女子会の常套文句だった。 はといえばそんな時流には乗り損ねたような形だが、特段後悔も焦りもない。最後の彼氏は入社二年目に付き合った人だが、三ヶ月ともたずに「性格の不一致」からその彼と別れたときに重々思い知らされたのだ。焦って彼氏を作ってもろくなことはない。誰か好きになれるひとが現れるまでのんびり待とうと決めたのである。そういうわけでここ数年、バレンタインにも縁は無い。 地下鉄の駅へと階段を降りる。件のバーは大阪キタの繁華街・北新地にあって、このビジネス街からでも歩けない距離ではないが、寒すぎてとてもそんな気にはなれない。 ホームに降りたところで、タイミングよく電車がやってきた。帰宅ラッシュの時間帯なので人の流れに押し込まれながらも、なんとか戸袋付近のスペースを確保する。バッグからスマートフォンを引っ張り出し、フェイスブックを開いて幹事からの案内メッセージを確認した。 今日集まるのは高校時代の同級生だ。案内メッセージによると仲良いメンバーで盛り上がりたいということだったが、彼は顔が広いからかなりの数が集まるのかもしれない。にとっては、卒業後も会うことがあったごく少数の女友達を除けば、幹事を含めたほとんどが約十年ぶりの再会である。そこまで顔が広いわけでも友人が多かったわけでもないとしては平日夜の同窓会などあまりモチベーションが上がるものではなかったが、仲の良い友達が行くということだったので自分も行くことを決めた。 ・・・・・・理由は、それだけの、はずだ。 十年も前の、あのバレンタインの失恋が、頭の中をちらつく。 顔を上げると、ドアのガラスに、自分の顔が映っていた。仕事明けの疲れた顔はかなり残念な状態のような気がする。最低限のメイク直しはしたからこれ以上は無駄なあがきと諦めた。 ――その、疲れ切った自分の顔に、制服姿の自分の顔が、二重写しに見えた。 「!」 瞬きをすると、やはりそこには疲れ切っている自分の顔だけが映っている。 一瞬だったけれど、その姿は脳裏に焼き付いていた。というより、自分の記憶の中の姿が鮮明に思い起こされたということなのだろう。 白シャツと紺のブレザー、プリーツスカートという公立らしい飾り気のない制服は高校のときのもの。あれは高三のときの自分だ。そう断定できる理由は、シャツの上に着ている、袖も裾も長すぎてブレザーからはみ出ているベージュのニットだった。あれは、三年生の時に、着ていたものだから。 ぱっ、と目の前が明るくなって、は我に返った。 いつの間にか電車は駅に入っていて、ホームを照らす蛍光灯の真っ白い光が眼に飛び込んでくる。 『西梅田ー、西梅田、終点です。御堂筋線、谷町線、阪神線、阪急線、JR線はお乗換えです、――』 アナウンスと同時、ドアが開いて、人の波に押しだされるように電車を降りた。 そのまま人波に逆らわずに、改札への階段を昇りながら、はコートのポケットから定期入れをを取り出す。革製の定期入れをぎゅうと握りしめていることに、自分でも気が付いていない。 ・・・・・・もう何年も、あの高校生活を締めくくるかのような失恋は忘れていたというのに、同窓会だというだけでずいぶん自分はテンパっているらしい。 大丈夫、声には出さずに口の動きだけでそう呟きながら、は改札を出て堂島方面への地下道を歩き出す。
石田三成は、とかく騒がしいイベントが嫌いだった。友達だって少なかったし、クラスでもどこか浮いた存在だった。だから今日の同窓会にはきっと来ない。 あるいは、何かの間違いで来たとしても、バーを貸し切るような人数が集まるなら顔を合わせずに済むかもしれない。 ・・・・・・百歩譲って、顔を合わせて会話をしなければならなかったとしよう。それでも、あれからもう、十年もたっている。はあれからそれなりに変わったと思うし、それは彼も同じだろう。何もなかったかのように、笑顔で当たり障りのない会話をすることくらい、簡単なことだ。は今でも、笑顔が得意だ。
ドアを開けると、わっと騒がしい音楽が身体にぶつかってきた。高校生の頃よく流行っていたパンクロックバンドの曲。音割れしたギターリフが懐かしくて、思わずはその場で立ち止まった。 モノトーンを基調にしたダイニングバーで、そこそこの広さの店内にはすでに二・三十人ほどの若者が集まっている。シャンデリア型の照明はきらきらと店内を照らしているが、それほど明るくはないのでここからでは誰が誰だか顔の判別がつきにくい。おそらくはカップルがデートするのに最適なバーなのだろうが、響いているのが如何せんハードコアパンクで店の雰囲気とは合っていない。貸切だから音楽も自由に流しているのだろう、それにしてもこのバーは何故バレンタインに同窓会の貸切を許したのか、やっぱりさっぱりわからなかった。 「っあー!早瀬じゃねぇかよ!」 出入口付近でぽつりと佇んでいたに、人垣をかき分けるようにして大柄な男が声をかけてきた。 「お前もう来ねぇかと思ったじゃねえか!」 十年ぶりに見る顔だったが、記憶とそう変わっていなかった。ほたるは鼻から息を吐くと、わずかに眼を細める。 「遅刻はごめん長曾我部、けど場所わかりづらすぎ。めっちゃ迷ったやんか」 不機嫌を隠さずに言うと、高校時代のクラスメイトにしてこの同窓会の幹事である長曾我部元親は、にかりと歯を見せて笑った。 「それはすまねェな、電話くれたら迎えに行ったのによぅ」 「いやあんたの番号とかケータイに入ってないし」 「それもそうか、つうかお前携帯変えたんなら連絡寄越せよ、いきなり連絡つかねぇから心配したじゃねェか。フェイスブックで見つかったからいいけど」 「あー、ごめん、前のケータイ壊れてデータ消えてん」 これは嘘だった。 大学生のころ、は携帯電話をキャリアごと変えた。当時一世を風靡した写真機能付きが欲しかったからだ。そのとき電話番号とメールアドレスが変わったのだが、古い携帯電話に登録されていたクラスメイト全員のうち、ごく一部の女友達にしか登録変更の連絡をしなかった。そもそもクラスメイト全員と連絡先を交換したのは、当時の流行というか暗黙の了解のようなもので(クラス替えの当日に、携帯片手に大登録会が催されたのだ)、卒業してしまえば連絡を取る必要もなく、そして今後もその必要はないだろうと判断したからだった。その判断が間違っているとは思っていなかったけれど、心配してくれたというのなら、長曾我部くらいには連絡してもよかったのかもしれない。 考えていることをおくびにも出さずあははと苦笑してみせると、長曾我部もつられたように眉を下げた。 「お前、どんくさいのは相変わらずかァ?仕方ねェな、連絡先教えろよ」 「えー、今のケータイ赤外線ついてないから無理やわ、あとでフェイスブックで送っとく、てかフェイスブックあればいいやん連絡先とか」 「なんだスマホ使いこなせてないクチか、赤外線のアプリくらい落とせよ」 「うるっさいな、いいやん別に」 「ハイハイ、妙に噛みつくとこも変わってねェのな」 十年ぶりだというのにこの気安さは何なのか。はひくりと眉を動かした。 「べっつに噛みついてへんし、未だにハイスタ流すようなひとに言われたないし。コレあんたの趣味やろ?」 アップテンポのパンクを響かせている天井のスピーカーを指さしながら言うと、長曾我部はどこか誇らしげに笑う。皮肉が通じないところも、あの頃から全く変わってない。 「永遠の名曲だろうがよ、つうか、今日のは俺らが高校生くらいのころに流行ってた曲を集めてンだ。女子向けにはハマサキとか流れるぜ?」 「・・・・・・そうゆう妙にマメなとこ全然変わってへんねんな」 冷めた声色で言いながら、は着たままだったコートを脱いだ。人数が多いせいか、店内は暑いくらいだ。無駄にイケメンな店員が近づいてきたので、コートを預けて、バッグから先払いの会費を入れた封筒を取り出して長曾我部に押し付けた。受け取りながら、長曾我部が思い出したように視線を巡らせる。 「っと、そうだ、俺なんかよりもお前のこと心配してるやつがいるんだよ、どこ行ったアイツ」 「は?」 心配?とは聞き返す。そんな気をかけてくれるような相手は、今は全員フェイスブックで友達登録済みだ。はあまり頻繁に書き込む方ではないけれど、最低限生存報告くらいはできているつもりである。 首を傾げるの視線の先で、長曾我部は目当ての人物を見つけたらしく、大きく手を振った。 「ぅおーい、石田ァ!」 その名にがぎくりと肩を強張らせたが、長曾我部は気づかない様子だ。 「ちょ、待、長曾我部、呼ばんでええよそんなん、心配とか大げさな」 「あァ?大げさもクソもあるか、お前石田がどんだけ心配してたと思ってンだよ」 「嘘やろ何言ってンの石田が心配?」 「バーカ、嘘じゃねぇよ」 「馬鹿ってゆうなせめてアホって言えや」 「ンだよこれだから大阪人は面倒だな、つうかそれはどうでもいいんだよ、石田!」 だから呼ぶな空気読めと出かかった言葉を、は口を開けたまま飲み込んだ。 「何だ、長曾我部」 石田の声だ。 あのときから変わらない、少し低めの落ち着いた声。 「早瀬が来た、お前心配してたろ」 「なッ、早瀬だと!?」 どうしてそこで、声を荒げるのか。 自分のことなど、きれいさっぱり忘れてくれてよかったのに。 そのとき、人垣の向こうから長曾我部を呼ぶ声がした。「おォよ!」とそちらに応えてから、「じゃあまた後でな」とに声をかけて、長曾我部は大股で歩いて行く。 待って行かないで、そう言いたくて、だが声はかすれて音を成さなかった。 「早瀬」 石田の声がする。そちらを向く勇気をとにかくかき集めようと奮闘する。もう空気だけでわかる。そこに、石田三成が、いるのだ。 「早瀬、貴様なんだな」 詰問調の声に、は強く瞼を閉じた。十年分の埃が払われて、記憶がよみがえる。これは石田が、怒った時の声。 一度だけ深く息を吸って、吐いた。 よし。 気合いを入れて、顔を上げる。口元と頬に力を入れて、 「石田、めっちゃ久しぶり。ちょっと背ェ伸びた?てか髪型は変わらんねや、仕事とかで何も言われんの?」 笑った。 うまくいったと思う。学生時代のレジ打ちバイトのときにもお客さんたちから好評を得た笑顔だ。 「・・・・・・」 一度口を噤んだ石田は、相変わらず色白で痩せていた。背は伸びたように見えて、だが横幅は変わらないから、ますますひょろ長くなったように見える。平日だからだろう、黒のスーツ姿で、身体に沿うような細身のスーツはやんごとなきブランドのオーダーメイドなのだろうか、恐ろしく似合っていた。 「仕事は、研究員だ。髪型について何か言われたことはない」 生真面目にそう答えて、そして石田は眦を釣り上げた。 「それより貴様!今までどこで何をしていた!メールも電話も通じない、どういうことだ!」 アルバムひとつを丸ごと流しているのだろう、店内に響くのはまだあのパンクだ。おかげで石田が声を荒げていても、それを気にする人間はいないようだった。そもそもの到着に気づいている者も長曾我部を除いてはいないのかもしれない。 「えと、ごめん心配してくれてんて?そんなん気にしやんでもちゃんと大学出て会社勤めしてこの通り元気にやっとるって。連絡つかんかったんはほんまごめん、ケータイ壊れてデータ消えてさ」 にこりと笑って、は言った。自分でも驚くほど、すらすらと言葉が口から流れ出た。 よし、これなら賭けに勝てる、そう思った。 あとはうまく話しを切り上げて、友人を探そう。例によってフェイスブックで、彼女たちがこの場に来る予定なのは把握している。そうだあそこにバーカウンターがある、飲み物を注文しに行けば自然にこの場を離れられるかも、 「・・・・・・貴様、その下手な笑顔の癖はまだ治らんのだな」 何を言われたのか、理解が遅れた。 「・・・・・・は?」 幻聴かと思って聞き返したが、石田はどこか静かな表情で、言った。 「笑顔が下手だと言っている」 「・・・・・・、」 言葉が見つからなかった。 の顔から笑顔が落ちて、うろりと視線を彷徨わせる。 何か言わなければ。なんでもいい、会話を切り上げられるような何か、 「貴様は、何とも思わないのか。私と連絡が取れなくなって久しく顔を合わせなかったというのに、そうやって嘘の笑みを浮かべるのか」 「そんな、嘘とか、」 「違うのか。ならば問う。十年前の今日、貴様は私を友人だと言った。あれは、真実か」 息が止まると思った。 どうして。 どうして、十年も前の、あのバレンタインの話が、ここで出てくるのか。 当たり前やん友達やって、そう言って笑うのは簡単だ、そうすべきだと、思った。 だが、完全に埃を落とした十年前の記憶が言う。 石田は嘘を嫌う。 他の罵詈雑言には顔色ひとつ変えないが、嘘だけは許さない。 「私は貴様を友人と思うから、姿を見れず連絡も取れないことを心配した。だが貴様にとっては違うのか。私を友人と言ったあれは、――嘘なのか」 「・・・・・・ッ」 何重にも鍵をかけて、こころの奥底に隠していたはずの、あの日の思い出が、溶けだしてくる。 だって、仕方が無かった。 石田を困らせたくなかった。だから友達だと言った。だけどあれは紛れもない失恋で、あれ以上石田の顔を見るのも辛かった。だから携帯を替えても、石田に連絡はしなかった。 普通ならあのシチュエーションで、「友チョコ」が気まずい雰囲気を払拭するための嘘であることくらいわかるものだろう。そのまま関係性も自然消滅というのが、常套手段にして最も誰も傷つかない方法ではないか。十年たって再会して、「そんなこともあったね」なんて笑い話にするならまだしも、何故ここまで問い詰められなければならないのか。 「答えろ、早瀬」 ああ、詰んだ。 あんなに勝てる要素ばかりだと思っていた賭けは、あっさりと敗ける。 敗因はただひとつ。 石田が、あのときのの言葉を、信じていたこと。 否、石田がその言葉を信じると、が信じなかったことだ。 知っていたはずなのに。 石田がその手の「空気」を読めるような男ではないということを。 ・・・・・・どうして同級生との再会を楽しみに同窓会に来たのに、こんなに苦しい思いをしなければならないのか、なんだかものすごく腹が立ってきた。 「・・・・・・そんなん、」 頭の中が熱い。 思考が固まるより前に、口から言葉が出た。 「そんなんぜんぶ嘘や!あんときのチョコは本命で、私は石田がすきやった!でもあんたには他に気になるひとがおったんやろ、やから友達やって言うた、私からしたら失恋やねんから、石田のことなんか忘れたかったに決まってるやろ!」 一息にまくしたてるように、言うだけ言ってしまってから、動きを止めた石田の顔を見て、は我に返った。 今。 自分は何かものすごいことを言わなかったか。 「ッ、!」 居てもたってもいられなかった。 こうなってしまったからには、もう方法はたったひとつ。会費はもう払ったし、問題はないだろう。 すなわち、逃げの一手だ。
「――待て!」 腕を掴まれた。 これも、記憶通りだった。 石田は恐ろしく足が速い。 もう顔も見れない。というかそれなりに人通りのある繁華街なので、騒ぎにもしたくない。はとりあえず立ち止まって、せわしなく視線を動かして逃げ道を探す。 「・・・・・・もう、帰るのか」 拍子抜けするような言葉が、背後から聞こえてきた。 なるほど。十年という時間は伊達ではない。石田もそれなりに、成長したということなのだろう。 テンパったの、過去形とはいえ告白を、スルーできるくらいには。 これでいいのだと、そう思って、は息を吐く。 「もう、帰るわ」 そう答えると、掴まれていた腕を離された。よし行こう、あっちがたぶん御堂筋、そう考えたところで、 ふわりと、肩に何かがかかった。 「え、」 「着ていけ」 思わず振り返れば、そこにはシャツ姿の石田がいて、自分の肩を見下ろせば、そこに掛けられているのは彼のスーツのジャケットだった。 そういえばコートは店に置いてきたのだ。そう気が付くと、寒さに歯が鳴った。何しろ小雪のちらつく夜だ。 「そんないいよ、どうせすぐ地下鉄やし」 「いい。着ていけ」 有無を言わさぬ口調も、十年前から全く変わらない。基本的に頑固な彼は、一度決めたことをまず覆さない。これは反論しても無駄だと、は知っている。 「・・・・・・、ありがと」 もうここには居たくなかった。正確には石田の前から消えたかった。 コートはまた明日にでも、あの店に取りに行こう。そう思って、は踵を返す。 「・・・・・・私は。貴様に会えなくて、・・・・・・寂しいと、思った」 背後から聞こえた声に、は答えることなく歩き出す。 石田がそう思ったのは、の嘘を信じたからだ。
明るい駅舎内では、男物のスーツを羽織るは明らかに不恰好だったけれど、正直なところには恰好を気にするような余裕はなかった。 相変わらず体温が低そうな石田のジャケットは、泣きたくなるくらいあたたかかった。 |
20130214 シロ@シロソラ |