「Hey、どうした、浮かねぇ顔だな」
 婚約者の声に、は我に返った。
「は、いえ、申し訳ござりませぬ」
 庭園の東屋で、月見の酒を飲んでいたことを、思い出す。
 同盟の手続きのため来訪している隣国の王は、グラスを置くと、小さく笑ってみせる。
「何か、考え事か」
「そのような、ことは」
「ま、俺には言えねぇことなら、仕方ないけどな。アンタも不本意なんだろう、この婚儀は」
 の肩がびくりと震える。
「あァ、違う違う、アンタが不本意だろうとどうだろうと、この婚儀により同盟は成立させるさ、安心しな」
 そう言って笑う王を、は見つめる。
 そう変わらない年齢だというのに、若くしてあの大国の全てを背負っているこの王は、口調の軽さとは裏腹に本当によくできた人間だ。
 聡明で見目麗しいことはもちろん、人の感情に敏感で、に対しても気遣いを忘れない。
「そのドレス、よく似合ってる」
「・・・・・・もったいない、お言葉です」
 ドレスの見立ても完璧で、が極度に身体を締めつけるものや動きにくいものを嫌がっていることをこの城の者より早く見抜いた。
「・・・・・・ま、俺はアンタも結構気に入ってるんだ、アンタにその気があるんなら、仲良くやろうぜ?」
 政略結婚の相手としては、これ以上ない男だというのに。
 の脳裏からは、彼の姿が離れない。
 あの、口づけの後の、苦しそうな、表情。
 ――庭園の向こうから、騒がしい物音が聞こえた。
「・・・・・・何だァ?」
 王が、その柳眉を持ち上げる。
「政宗様!」
「小十郎、どうした」
「それが、どうやら賊が入り込んだ様子。すでに城の兵士が何人もやられているとのこと」
「・・・・・・ったく、どうなってんだこの国のsecurity は、女ひとり口説かせねぇつもりか」
 shit、と小さくつぶやいて、王が立ち上がる。
「俺が蹴散らしてやるよ」
「ではわたしも、」
 立ち上がりかけたを、王が手で制す。
「アンタがそこそこできるのは知ってる、けどその恰好じゃ無理だろう?俺と小十郎でさっさと片付けてくるから、アンタはここで大人しくしてな」
「・・・・・・は」
「いいこだ。――行くぞ小十郎!」
 ひらり、と王は東屋から飛び降り、従者の男と庭園の向こうへ駆けていく。
 ひとり残されたは、そのまま座りなおした。
 いつもの刀は、部屋に置いたままだ。今は護身用の懐刀しか持っていない。
 隣国の王とその従者の実力は、も知っている。彼らが敵わない相手に、自分が敵うはずがないから、ここで待つしかないのだ。
 細く、息を吐いた。
 静寂が、落ちてくる。
 賊がいるというのに、静かな夜だ。
 月が、あかるい。
「!」
 気配を感じてが懐刀を首の右に構えるのと、その刃に何かが当たるのが、同時だった。
 甲高い音が、耳を劈く。
 視線を動かす、懐刀で防いだのは刃だと知る。その刃を追って、背後を振り向く。
「・・・・・・姫」
 そこには、全身を紅に染めた人魚姫が、立っていた。




 人魚姫は、の首を狙っていた槍を持つ腕を降ろした。
 その刃から、赤黒い血が滴り落ちる。
 血にまみれたその体躯からは、炎のような覇気が立ち上っている。
 その色に照らされて、黄金色にも見える双眸が、爛々と狂気じみた光を湛えている。
「姫、」
 声をかけると、それが合図であったかのように人魚姫が動く。
 槍の刃を何度か懐刀で防ぐが、力の差は如何ともしがたい。
「姫っ!」
 大きく動いた槍をかいくぐり、そこにできた隙に、半ば無意識に踏み込む。
 懐刀を振るう。その切っ先が、人魚姫の口元を浅く裂く。
 散った血がの頬にも跳んで、我に返る。
 ――違う、姫を傷つけたいわけじゃない。
 その思考が、致命的な隙を生む。
「――!」
 防ぐのが間に合わないと判断し、は上体を限界まで反らせ、
 人魚姫の刃がの身体を袈裟懸けに切り裂いた。
「ッく、」
 一拍置いて、ドレスに血が滲む。
 大丈夫、傷は浅い。
 ・・・・・・傷は、浅い?
 彼の武器は槍だ、その間合いの広さから、今のは確実に致命傷になるはずだった。
 は自分の胸元を見下ろす。
 ドレスが赤く染まっていくが、出血量はともかく、傷自体はそこまで深くはない。
 もちろん痛みはある。
 が、そんなものはどうでもよかった。
「姫」
 声をかける。
 人魚姫が、こちらを見る。
 その、苦悶に満ちた表情。
 彼は、悩んでいるのだと気付く。
「――貴方をそこまで追い詰めたのは、わたしだな」
 は懐刀を、落とす。
 木で組まれた床に、それは乾いた音を立てて転がった。
 人魚姫を見る。
 彼の、自分に対する想いも、自分の、彼に対する想いも、心の底では、気づいていたのだ。
 だが自分はそれに、気づかぬ振りをした。
 彼の優しさに甘えて、彼をひどく傷つけた。
 その償いは、するべきだ。
「わたしが、憎いか」
 そう問うと、人魚姫はびくりと肩を震わせる。
「わたしが、憎いか。殺したいか」
 もう一度問う。
 人魚姫はずいぶんと逡巡してから、首を縦に振る。
「そうか」
 は鷹揚に腕を広げて、人魚姫に歩み寄る。
「貴方の気の済むようにすればいい」
 構えられた槍の穂先は視界に映っているが、は人魚姫の双眸から眼を逸らさずに、足を進める。
 ついに、槍の穂先がの胸元に食い込む。
 痛いはずだが、痛覚は麻痺しているようだった。
 好都合にできている自分の身体を、内心ありがたく思う。
 人魚姫が、わずかに槍を引く。
 その動きにつられるように、刃を身に食い込ませて、とうとうは人魚姫のもとにたどりつく。
 笑おうと思った。
 彼に殺されるいまこの瞬間は、笑って逝こう。
 そうすれば、彼にも後悔の念は生まれまい。
「・・・・・・貴方がいない世界で、わたしは生きていくことができないのだから」
 だがその前に、自分の気持ちは、彼に伝えなければ。
 きちんと言葉にして伝えなければ、伝わらないのだ。

 ――わたしは笑顔が下手だから、上手に笑えていればいいのだが。




 そう言って、彼女は笑った。
 ぎこちなくても不恰好でも、それは彼女の笑顔だと、幸村は知っている。
 どうして笑う。
 今まさに殺されようとしているその瞬間に、なぜ。
 腕から力が抜けて、槍が滑り落ちる。
「ッ!」
 がわずかに眉を動かす。突き刺さっていた刃が抜けたからだ。
 どくり、と、その傷口から、血が流れ出る。
 青いドレスを、紅に染めていく。
 そう、彼女にはこの色が似合うのだ。白い肌に、血の色がよく映えて。
 今そんなことを考えている自分はどこかおかしいと思う。
「ひ、め」
 苦しそうな声でそう言って、は幸村の背に腕を回した。
 抱きしめられていると気付くのに、しばらくかかった。
「もはや、信じてはもらえないのかも、しれないが」
 こちらを見上げる、深い色の瞳。
 初めて見たときに心を奪われた、そのままの。
「わたしは、貴方のことが、すきだ」
 ――太陽が、眩しく光っていた。
 ――ふうわりと頬に感じたあれは、風というものだ。
「貴方を、愛している」
 ――あたたかく、きらきらしたイメージが、そうしてすべて、彼女に繋がる。
「ひめ?」
 の、震える指先が、そうっと幸村の目元を撫でる。
「ないて、いるのか?」
「・・・・・・ッ」
 耐え切れず、幸村はの身体を抱きしめた。
 彼女は、初めて会ったあのときから、何一つ変わってなどいなかったのだ。
 変わってしまったのは自分だ。
 彼女の笑顔が見られれば、それでよかったというのに。
 たとえ彼女が他の誰かと結ばれようとも、その想いは変わらないものであったのだ。
 彼女に伝えなければいけない。
 俺も、あなたを愛していると。
 伝える方法は、ひとつしかない。
 彼女の深い色の瞳を見つめる。
「――ひめ」
 そう、掠れた声を呟く唇に、己の唇を合わせる。
 どうか、伝わりますように。
 そうして、両の足が、ざわりとうずいた。
 この感触は、知っている。
 魚から人になったあの日に感じたものと同じ。
 つまり、今自分は魚に戻ろうとしているのだろう。

 ――愛するひとを、この手で殺したから。




 人魚姫の唇に、は己の唇を合わせた。
 どうか、伝わりますように。
 血を流し過ぎたのだろう、手足の感覚はもうない。
 最後に残ったのが唇の感覚だったことは、幸運だったのだろう。
 

 舌が、鉄のような味を、感じた。
 血の味だ。
 そういえば先ほど、彼の口元を傷つけたのだったか。
 

 そう思ったのが、最後。
 の意識は、光に呑まれた。


!」
 東屋から上った光の柱を見て、隣国の王とその従者が駆け付けたそこには、
 紅色に染まったドレスだけが、残されていた。




「それで、姫君の行方は」
「まだわからぬ様子です。ただ、あの出血量では・・・・・・」
 従者の報告を受けて、王は渋面のまま煙管を吸った。
 あの日、王の婚約者は姿を消した。
 賊の姿が消えたことと、無関係ではあるまい。
 残されたドレスは胸元が切り裂かれていて、紅に染めていた血は彼女自身のものだろうと判断された。
 その量から、おそらく彼女の命はもうないものと、王は考えている。
 そして婚約の解消により、同盟の話は頓挫していた。
「ま、どっちにしろあの国はいただこうと思っていたんだ。遅いか早いかの違い、だな」
 同盟して内側から食らうか、純粋な軍事力で外側から奪うか。
 王の意図を読んで、従者は頭を下げる。
「では、戦の用意を」
 従者の声に頷く王の脳裏には、青いドレスの姫が浮かんでいた。
 煙管の煙を燻らせながら、従者に答える。
「あぁ、派手なpartyにしようぜ」
 ――死なせるには、惜しい女だったが、な。




 今日もこの国は、穏やかだ。
 ここは海流も柔らかく、遠く天から注ぐ太陽の光が帯のように連なっている。
「旦那?」
 自分を呼ぶ声がして、幸村は振り向いた。
「俺はここだ、佐助」
 岩の上に腰を下ろしていた幸村のもとへ、佐助がすうと泳いでいく。
「如何した。定時報告の時刻にはまだ間があると思うておったが」
「まあね、ちょっと手が空いたからさ。旦那と、姫さんの顔見にきた」
 幸村の傍らに、ひとりの人魚がいる。
 臍から下のしなやかな身体を包むのは幸村と同じ紅の鱗と尾鰭。
 上半身は華奢な少女のそれで、佐助をまっすぐと見つめる意志の強そうな瞳は、吸い込まれそうな、深い色。
 人魚が、口を動かす。
 声は、ない。
 だがその唇の動きを、幸村は読み取っている。
「――殿、何度も言うが、俺のことは幸村と呼んでほしいのだが」
 そう言うと、はわずかに眉根を寄せて、顔を赤らめる。
 彼女はどうやら、自分を「幸村」と呼ぶと照れるらしい。
 その様子は大変可愛らしく、彼女の知らない一面を見れて嬉しかったが、とはいえいつまでも姫と呼ばれるのはこちらが恥ずかしい。
「いーじゃん旦那、傑作だよ?あの紅蓮の鬼が、『姫』呼ばわりなんてさァ」
「な、言うな佐助!だいたい本来姫君は、殿なのだ」
「どっちでもいいよ、なんならどっちも姫さんだよ、俺様にとっちゃ、さ」
 くるりと宙返りをして、佐助はの顔を覗き込んだ。
「ねぇ姫さん」
 は一度幸村を見つめ、それから佐助に視線を移し、こくりと頷いた。
「なんだ、佐助は殿を嫌っておるかと思っていたのだが」
 佐助はじとりと主を見つめる。
「そりゃあね?大事な主人を誑かされて、挙句ここ何年も不可侵領域だった松永に正面からケンカ売って結構しんどい目にもあったしね?旦那がやらないんなら俺様が殺ろうかとも思ったけれどもさ」
 がじいと不穏な言葉を口にする佐助を見据える。
 その瞳のまっすぐさに、佐助は呆れたように眉を下げ、その額を中指で弾いた。
 ビシィ、と結構な音がして、がのけぞる。
「さ、佐助!」
「うるさいアンタもだ」
 同様の仕打ちを受けて、幸村は額を両手で抑えた。
「ふ、普通に痛いぞ佐助!」
「あったり前でしょ痛くしてるもん」
 幸村は涙目になって、起き上がってきたを抱き寄せる。
殿、大事ないか」
 その額がわずかに赤くなっている。
「でも結局、旦那のこころを救ったのも姫さんだからさ。――恩義は、感じといてあげるよ」
 じゃあね、と言い捨てて、佐助は泳いでいく。
 その背を見送りながら、幸村は息を吐いた。
「まったく、素直でないな」
 が口を開く。
「――そうだな、今回あやつに迷惑をかけたのは、俺たちであるから反省はせねばな」
 そう言って、幸村はすいと浮き上がる。
 後を追って浮き上がってきたを待つ。
 この身体に慣れていないは、まだ泳ぎがぎこちない。
「今日はこの先に、景色のきれいなところがあるので、見に行こう」
 追いついたが、こくりと頷く。
 その口元には、笑みが浮かんでいる。
 その顔を見て、幸村も笑った。
 そして二人は手を取りあって、泳いでゆく。

 姫君は、人魚の血を飲んで、その声を代償に、人魚姫となった。
 そうして、海の国の王子と、真実の愛を育み、いつまでも幸せに暮らしたという。


(おしまい)



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201206026 シロ@シロソラ