頬をくすぐるような感覚に、幸村は眼を開けた。
 初めに眼に入ったのは、己の腕の中のだった。
 瞼は降りたままだが、息はある。眠っているように見える。
 安堵の息を吐いて見上げると、こちらに鼻先を近づけている愛馬がいた。
「月影」
 名を呼ぶと、月影はぶるると鼻を鳴らして首を擡げる。
 そこで漸く気づく。
 自分たちが倒れているそこが、草原であると。
 すでにタタラ場の民たちによって切り拓かれた、裸の山だった場所だ。
「ッ、起きるのだ、」
 腕の中のに呼びかけると、ひく、と眉を動かして、が眼を開く。
 深い色の瞳に、己の顔が映り込むのが見える。
「・・・・・・ゆきむら」
、見てみろ、」
 腕を引いて立ち上がらせる。
「・・・・・・!」
 が眼を丸くする。
 青く晴れ渡った空の下、山々は常と変らぬ姿で、穏やかに吹き抜ける風が、緑のにおいを運んでくる。
 まるで、何事もなかったかのような、豊かな森。
「・・・・・・それでも」
 は一度眼を伏せ、眉根を寄せる。
 再び眼を開ける、飛び込んでくる穏やかな緑、それでも。
「もうここは、シシ神様の森ではない」
 夜の姿のシシ神は、夜明け前にあのシシ神の池で、昼の姿に戻るのだと聞いている。
 夜の姿のままでは、朝日を浴びると消えてしまうからだ。
「シシ神様は、死んでしまった・・・・・・」
 その頬に、幸村の右の掌がそうっと触れる。
 大きく、あたたかな掌。
「シシ神は、死にはせぬ。生と死、どちらも持つ神だろう」
 その掌を、に見せるように降ろす。
「この俺に生きよと、言ってくだされた」
 その右腕にあった、あの黒々とした痣が、痕も残さず消えている。
 はおずおずと手を伸ばし、幸村のその掌に触れる。
 顔を上げる、その眼がまっすぐと幸村を見つめる。
「・・・・・・幸村が、すきだ」
 まるで侍が決闘でも申し込むときのような、生真面目な表情。
「でも、ニンゲンを許すことは、できない」
「それでいい」
 幸村はその顔に微笑みを浮かべる。
は森で。俺はタタラ場で、暮らそう」
 ふうと頬を撫でていく風が、幸村の一房だけ伸ばした髪をふわりと持ち上げる。
「ともに、生きよう」
 その言葉に、は一度瞬きをする。
 そして、眉を下げて口の端をわずかに上げた。
 よく見なければわからないような、不器用なそれは。
 まぎれもない、の笑顔だった。




「・・・・・・やれやれ」
 ふたりからさほど遠くない場所で、松永がのそりと起き上がる。
「馬鹿には敵わないと、いうことか」
 苦笑を浮かべながら、山を下りるために歩き出す。
 人生はこれだからわからない、とひとりごちながら。




 タタラ場の大屋根は苔むしたように緑に覆われ、家々もかろうじて形を残しているものには草が生い茂っている。
 大屋根前の広場に、民たちが集まっていた。
 その中心に、意識を取り戻した政宗と、その前に膝をつく小十郎がいる。
「ザマぁねぇな、この俺が狐のおかげで助かったか」
「・・・・・・政宗様」
 小十郎が、政宗の前に正座し、着物の前を左右に開く。
「・・・・・・何のつもりだ。小十郎」
 政宗が隻眼を細めるその先、小十郎は懐刀を手にする。
「政宗様の背をお守りすることこそこの小十郎の使命であるにも関わらずその傷・・・・・・、もはや右腕は刀を握れますまい、その責任は全てこの小十郎にござりますれば」
「・・・・・・腹を切るってか」
 面白くなさそうな政宗の声に、民たちがどよめく。
「そんな!」
「片倉様!!」
 しかし小十郎はまっすぐと政宗を見つめたまま、懐刀を鞘から抜く。
「甚だ不作法ではござりまするが――」
 その刃が躊躇なく腹に向けられ、
「待て!!」
 政宗の恫喝が、タタラ場に響いた。
 その、蒼い燐光を宿す隻眼が、小十郎を見下ろす。
「ナメんじゃねぇぞ!!テメェは俺の右目だろうが!俺が右腕を失ったってンなら、その右腕にもなりやがれ!!」
 小十郎が驚いたように眼を見張り、そして懐刀を納めてその場で平伏する。
「申し訳、ござりませぬ」
 それを見て政宗はフンと鼻を鳴らし、そして取り囲む民たちを見回した。
「・・・・・・すまなかったな、お前ら」
「筆頭!」
「頭下げるなんて止めてくだせぇ筆頭!!」
 民たちが驚いたように口々に筆頭、と言う。
 それを見て、政宗は笑う。
「Ah、もう一度最初からやり直しだ」
 空を仰ぐ。
 雲一つない、晴天。
 そういえば、こうやって空を見上げることがずいぶんと久しぶりだと気付いた。
「・・・・・・今度こそ、ここをいい国にしよう」
「筆頭ー!!」
「ついていきやす、筆頭!!」
 民たちの声に政宗はにいと口の端を上げ、そして思い出したように言った。
「――そうだ、お前ら真田幸村を見かけたら俺のところに連れてこい」
 何が大切なのかと、あの青年は言った。
 わかっていた、つもりではあった、が。
「・・・・・・アイツに礼を言わねェとな」
 その、清々とした笑顔に、着物の前を整えた小十郎は満足げな笑みを浮かべた。




「――ちょっと、鬼の旦那。起きないなら殺すよ」
 小突かれた感触と、その理不尽な物言いに、元親はゆっくりと瞼を持ち上げた。
 ぼやけた視界、何度か瞬きを繰り返すと焦点が合う。
 こちらを見下ろす、佐助の顔。
「・・・・・・あ?なんで見えてやがる」
 ものが見える。
 久方ぶりの感覚に、元親は半身を起こして辺りを見渡す。
「やっぱ見えてンの」
 佐助の問いに、頷く。
 視界に映るのは、ずいぶんと昔、まだ眼が見えていたころに来たあのころと何ら変わらぬ、シシ神の森。
 いや。
 まったく同じというわけではなさそうだ。
「・・・・・・シシ神の気配が、薄い・・・・・・?」
「どーやったのか知らないけど、その生命を森中にばらまいて消えたみたい、だね」
 呆れたように、佐助が笑う。
「つうか、お前なんで生きてンだ」
「そりゃ、アンタが生きてる理由と一緒でしょ。ったく、どうせ生命をばらまくンなら、鬼の旦那の眼よりも俺様の右腕をどーにかしてほしかったんだけど」
 そう言って佐助が左腕で自分の右腕を掴んで持ち上げる。だらりと力ない右腕は、指の一つも動かない。
「そうかい、それは悪いことしたな」
「悪いと思ってる顔なの、それ」
 思ってる思ってる、と笑いながら、元親は立ち上がる。
「さァて・・・・・・、野郎共に生き返った奴はいねぇ、か。きちんと弔ってやらねぇとな。アンタはどうする」
「どうするって、どうもしないよ、この森はそもそも俺様のねぐらなんだから。――ま、せっかく生きながらえたんだし?チカラが集まって次のシシ神が現れるくらいまでは、ニンゲンどもを牽制してよっかな」
 そう言う佐助の、存外穏やかな笑顔を見て、元親はにやりと笑う。
「どうやらお嬢ちゃんも親離れしたみてぇだし、なァ?」
「・・・・・・やっぱり殺すよ?」
 殺気を放つ佐助に、元親は豪快な笑い声を上げる。
 木々の影から、森に戻ってきた小さな生き物たちが、そのカミたちの様子を窺っていた。


(おしまい)

  

もはやパラレルというよりばさら変換だったもののけ、最後までお読みいただきありがとうございました!
20120830 シロ@シロソラ