――むかし、この国は深い森に覆われ、そこには太古からのカミたちが棲んでいた。



 雨の、地を叩く音が、耳に木霊するようだ。
 雨脚が強まるとともに、山には霧がかかり始めている。
 これは、好機だ。
 あの男の、息の根を止めるには。
 大粒の雨が顔を、身体を打ちつけていく。
 その中で、瞬きひとつせず、はじいとはるか眼下を見下ろしている。
 山肌に沿うように作られた、街道。
 そこを行く、ニンゲンと牛の、列。
 牛には罪はない。が、ニンゲンに飼いならされた獣はもはや獣ではない。
 刀の鯉口に左手をかける。ちきりと、音がする。
 眼を凝らす。
 その、深い色の瞳が、ひとりの男の姿を捕える。
 ――いた。
 細く長く、息を吐く。
 その瞬間、世界から音が消えたような、気がする。
 視界にはただ一直線、ここからあの男までの道筋だけが見える。
 殺してやる。
 その言葉だけが、こころを埋め尽くした。



 精製した鉄を麓の里まで売りに行き、米などの食料を手に入れた帰り、山に入ったところで嵐に見舞われた。
 降り続く雨の中、泥にぬかるむ山道に足を取られる牛たちをなだめながら、それでも立ち止まることなく列を進ませていく。
 部下たちの様子を窺いながら、政宗は外套の下で刀の柄に手をかけていた。
「てめぇら!もう少しだ、足とめんじゃねぇぞ!」
 応、と部下たちが答えるのを聞いてから、側近であるその男は主に近寄る。
「――政宗様」
「Ah、小十郎」
 ふたりとも、山道の上、霧に霞む木々から眼を離さない。
「出るでしょうか」
「そりゃあな、好機だろ。奴にとっちゃァ」
「――出たぞ!」
「狐だ!!」
 部下たちが指さす先、こちらに向かって一直線に駆け下りてくる少女の姿。
「政宗様!」
 主を庇うように、小十郎が躍り出る。
 まるで獣のような身のこなしで少女が抜いた刀を、小十郎の刀が弾く。雨の中、鋼の硬質な音が響き渡る。
 少女の、そのぎらぎらと光る双眸が、小十郎を通り越して政宗を見据える。
 政宗は口の端を上げて、面白そうにそれを見返す。挑発でもあるその表情に、少女の瞳がさらに光を増し、
「――オラァ!!」
 小十郎が振りぬいた刃を受け止めきれずに、後方に跳んだ。
 もういちど忌々しげに政宗を一瞥して、少女が踵を返す。その姿が木々の間に消えていくのを見届けて、小十郎が刀を鞘に納めた。
「口ほどにもありませんな」
 しかし政宗は、辺りを警戒して視線を動かす。
「アレはただのガキだ、親玉が何故出てこねェ」
 その視線の先。
「ぎゃああ!」
「うわあ!!」
 隊列の後方から、闇色を滲ませて「奴」が来るのが見える。
 牛と人を蹴散らしながら、こちらに迫るそれに、小十郎も気づく。
「政宗様!」
「手ェ出すんじゃねェぞ小十郎!」
 とうとうそれが、政宗に跳びかかる。
 政宗は六爪をずらりと抜いて、その大手裏剣の刃を受け止めた。
「よォ、久しぶりだな」
 にいと笑って見据える相手は、どこまでも怜悧な、温度を感じさせない眼をこちらに向けている。
 暁の空のような髪の、青年の姿をしたそれは、太古の昔よりこの山に棲むというカミ。
 カミの名を、天狐という。
 天狐は答えず、両の手に握る手裏剣を振るう。
 そのすべてを政宗は刀で受け止め、弾いた衝撃で天孤が数歩後ろへ退き、
 ――どん、と、音がした。
「――ッ」
 天狐が肩を押さえて体勢を崩し、崖から下に落ちていく。
「やった!」
「ざまぁみやがれ!!」
 部下たちが囃し立てるのを聞きながら、政宗は六爪を鞘に納める。
「やりましたな」
「アイツは不死身だ、あの程度で死ぬはずねぇ」
 小十郎の声に面白くなさそうに答えてから、政宗は背後を振り返る。
 そこには、火薬の煙を細く上げる石火矢をまだ構えたままの、男の姿。
「――誰が手を出していいと言った」
 怒りを孕んだその声に、しかし男は鷹揚に笑って答える。
「なに、あのような獣に卿の手を煩わせる必要はないと思ったまでだよ」
「・・・・・・チ」
 気に入らないとばかりに舌打ちをして、政宗は乱れた隊列をざっと見る。
「何人やられた」
「は、三人ほど落ちたようです」
「そうか」
 小十郎の答えに、眉を顰める。
 この崖の下は川だったはずだが、この豪雨だ、助からないだろう。
 目の下に皺を刻んで唇を噛んでから、政宗は告げる。
「――すぐ出発する」
「御意」
 雨除けの外套を翻して、政宗は歩き出す。
 数歩で石火矢を納めている男の元に近づく。
「――アイツは俺の獲物だ。次に手を出したら、アンタを先に殺すぜ?」
「ふむ、私としては卿が契約を守りさえしてくれればそれで結構」
 微塵も悪びれる様子のない男を、政宗はその隻眼で睨みつけた。



 木々の間を走る。
 雨に濡れた草木が、足元を濡らす。
 嵐は去り、明け方に雨は止んで、すでに天高く陽が昇っている。
 あれからどれくらいたった。
 不安が、思考を黒く塗りつぶす。
 風に乗る、かすかな気配だけを頼りに、は獣道を駆け下りる。
 水の音がする。谷底が近い。
 最後の木々を抜けて、視界が開ける。
 この大雨で勢いが増している川の岸に、目指す姿を見つけては声を上げた。
「佐助!」
 駆け寄ると、暁の空の色の髪がふわりと揺れて、天狐がこちらを向く。
 天狐は、その名を佐助と言う。
「・・・・・・
「佐助、無事か!」
 岸辺に腰を下ろしていた佐助の傍らに膝をつく。
 その肩を押さえている手を掴んで剥がし、その下の傷口を凝視した。
 一部始終を、は見ていた。
 あれは、あのニンゲンたちが最近使うようになった新しい武器。ニンゲンたちの言葉を借りれば、石火矢、というらしい。
 あれから放たれて、そして今この佐助の肩に食い込んでいるのは、鉄の塊。その身体に毒を植え付ける礫だ。
 佐助の着物の肩を毟るように剥がして、いまだ血を噴くその傷口に躊躇なく噛みつくように口をつける。
 毒ならば、まずは汚れた血を取り除かなくてはいけない。
 吸った血を吐き出す、また口をつける。
、いいから」
「黙っていろ!」
 有無を言わさぬ口調でそう言って、さらに何度か血を吸って吐き出すのを繰り返す。
 何を言っても無駄と諦めたのか、佐助が小さく息を吐いて、自由に動く左腕で己の肩に口をつけるの頭を撫で、
「――!」
 ぴくりと、眉を動かした。
 それに気付いたが佐助の顔を見上げ、その視線を追って川の方に顔を向ける。
 気配を感じて、立ち上がる。
 睨むように見据えた先。
 川の対岸近くに流れ着いていた大きな岩の影から、ひとりの青年が現れた。
 陽の光が彼を照らす。
 一陣の風が、彼の、一房だけ長く伸ばした髪を巻き上げる。
 その、清廉な光を宿す鳶色の瞳が、まっすぐとこちらに向けられている。
「――某は、真田源二郎幸村!東の地よりここへ来た!そなたらは、この山に棲むというシシ神の眷属か!」
 凛とした声。
 は口の中に溜まっていた血を吐き出して、腕で口元をぐいと拭った。
 その深い色の瞳が、幸村と名乗った青年を見据える。
 ニンゲンだ。
 それは、間違いがない。
 ニンゲンは普通、自分たちの姿をみて驚き、怯える。化け物と言って、蔑む。
 だがこのニンゲンは臆することもなく、ただこちらを見つめている。
 妙な、ニンゲンだ。
 背後で佐助が立ちあがったのがわかった。振り返ると、佐助は一度こちらを見て、森の中へと歩いて行く。
 は青年に眼を戻す。
「去れ」
 そう一言告げて、佐助の後を追った。
 

  


20120820 シロ@シロソラ