第一章 第一話 |
相模の国、小田原城の城下町は今日も穏やかである。 一際暑かった夏も終わりを告げ、家の屋敷では、庭の紅葉が漸く色づき始めていた。 「平和ですねぇ」 のんびりとした声をきいて、家の若き当主・は読んでいた書物から面をあげた。 侍女が開け放っていた障子の脇に控えていた。 「・・・・・・はなさん」 「失礼いたします、でも何度か呼びましたのにお返事がございませんでしたから」 お茶をお持ちしました、と言ってはなという侍女は主の返事を待たずに部屋へ入ってきた。 今年十六になったとは、親子ほど年の離れた侍女で、母親を知らないにとっては本当の母のような存在である。 「それは申し訳ない」 「あらやだはなは謝ってほしかったわけじゃございませんよ。ずいぶんと熱心にお読みのようですね」 ころころと笑うはなにつられて、も小さく口元に笑みを作った。 「この平時にこそ、勉学に励めとの・・・・・・父の、言いつけだったから」 「そうでございましたね。そうそう、様のお好きな団子、仕入れておきましたよ」 父、という言葉に詰まったことを、おそらく気づきながら、はなはさらりと話題を変えた。 「まことか!」 「ええ。多めに買っておきましたからあわてずにどうぞ」 皿に盛られた団子に手を伸ばし、 「わーぁ嬉しそうっすねー」 「!」 好物に緩んだ顔が、聞こえた声にすぐ仏頂面をつくった。 はながそちらを振り返って平伏する。 「東山様」 「はなさんお久しぶりですー」 「・・・・・・一郎」 は冷めた目つきで、家臣の名を呼んだ。 「お前曲がりなりにもわたしの家臣なのだから、主を前に挨拶のひとこともないのか」 一郎はひょいと肩をすくめ、その場にどかりと腰を下ろした。 「東山一郎重信、ご命により馳せ参じましてございまする。殿におかれては、ご機嫌うるわしゅう」 「うるわしくない」 平伏する一郎を一瞥し、口上を遮っては息を吐いた。 「ちょっとさっきまでの和やかなサマはどこ行った」 「そんなモノはもとからいない」 「うわぁヒドイ。唯一の家臣くらい大事にしてよー」 「そうだな、お前に出す俸禄をなくせば節約になるな」 「えー!」 ひどーい、と泣いた真似(気味が悪い)をするこの男はの三つ年上の乳兄弟であり、現在家に仕える唯一の家臣である。 家は相模を統べる北条家の家臣であり、遡れば北条家の始祖たる「相模の獅子」、北条早雲に仕えた古参であった。 家には本家以外の血筋がなく、代々家臣も少ない。それでも先代・和重には幾人かの家臣、戦で率いる軍、屋敷には常時十数人もの侍女が働いていたが、和重は病に倒れたおりにそのほぼすべてに暇を出していた。 和重の病死後、が七つで家督を継いだときには侍女ははなと乳母であった老女だけとなり、その乳母が亡くなってからは、狭くはない屋敷にはなとふたりで暮らすことになった。 先代に仕え、子のなかった東山家に養子に入り、元服した一郎だけが、に仕えている。 一郎の分の茶を運んできたはなに、一郎が芝居がかった口調で言う。 「はなさんはなさん、サマのご機嫌がななめなんですけどー」 「お前はいちいち語尾を伸ばすな、だらしがない」 うんざりしたようなの言葉が聞こえなかったふりをして、一郎ははなの耳元に掌をそえてつぶやいた。 「なんか今日すごいカリカリしてるみたいなんだけど、何?今日あれ?月のものでもきてンの?」 「まぁ!」 はなががちゃん、と叩きつけるように茶器を置き、今にもつかみかかりそうな権幕で言った。 「東山様、おっしゃっていいこと悪いことがございます!!」 「はな、」 「ですが様!」 「はな」 なおも言いつのろうとするはなを、は視線で制した。 怒りはなく、羞恥や他の感情も一切感じられない眼だった。 「・・・・・・今のは、オレが悪かった。申し訳ない」 「いい」 一郎はきまり悪そうに頭を下げたが、はそれが聞こえなかったかのように、まるで温度を感じさせない声で話題を変えた。 「――今日お前を呼んだのは、御本城様(ごほんじょうさま=北条宗家の家督)から城に上がれとの命があったからだ」 「え、」 一郎は居住まいを正す。 「戦、ですか?」 「このご時世だ、ないとは言い切れないが・・・・・・いい予感はしないな」 田畑の収穫は終わった時期だから、戦ができないわけではない。 しかしこの相模は隣国の駿府・甲斐と同盟関係にあり、すぐに戦をしかけるような相手は見当たらなかった。 「夕方までには来いとのお達しだ、今から行く。ついて来い」 それだけ言うとは音もなく立ち上がった。結い上げた長い髪が揺れる。 返事を期待しないのか、そのまま部屋を出て行った。 「・・・・・・やっちまったあ・・・・・・」 一郎が立ち上がりながら、がりがりと頭を掻いた。 茶器を片付けながら、はなが言う。 「哀れだとか、そういった感情は無用ですよ」 「わぁかってるよ・・・・・・アイツの、誇りと覚悟を汚すことになる」 すべては、家に流れる、血のチカラのためであった。 |
20120525 シロ(シロソラ) (20120620 一部修正) |
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