「家族になろうよ」シリーズ 7

 夕食の用意ができて、乾いた洗濯物を全て片付けてしまえば、基本的に佐助にはすることがなくなる。
 以前は雇い主のの帰宅までぼんやりとテレビを見ていたのだが、あまりに生産的でないので最近は本を読み始めた。徒歩圏内に図書館があるのだ。の家に居付くようになってしばらくたち、この生活にも慣れてきて時間に余裕ができてきた今、読書はちょうどいい暇つぶしである。元々そう読書家だったわけではなく、借りてくる本はその時の気分によってジャンルも内容もまちまちだ。先日は海にすむ不思議な魚の写真集と田舎の小さな水族館の起死回生を描くドキュメンタリーと魚料理のレシピ本を借りてきたら、に「意味不明」と切り捨てられた。単にその時「魚」がブームだっただけで、佐助としてはわかりやすすぎる本のチョイスであり、あんな「悪趣味」みたいな言われ方をしたのは甚だ遺憾である。
 今日の一冊は百年以上も前のドイツの哲学者の名言集だ。たまたま「今日返ってきたばかりの本」が並ぶ本棚にあったので何の気なしに借りてみた。確か少し前にテレビで、とあるスポーツ選手が愛読書にしていると言っていたのを見た気がする。若者の間で流行していると、そのテレビでは言っていたような。ぱらぱらとページをめくり、斜め読みしながらコーヒーを啜る。内容のほとんどは、佐助にしてみれば当然だろうと思われることだった。今更他人に言われるようなことではない、そう思いながらめくったページで、視線を止めた。
「・・・・・・へぇ」
 要約すればこんな内容である。
 限りある人生においてチャンスはいつも「今」だ、嘆くことなどオペラ役者に任せておけ。
 




 点けっぱなしにしていたテレビの中で、いつもの報道番組が終わってしまったのに気が付いた。時計を見れば、午後十一時半。の平均帰宅時刻は午後十時なので、これは遅い。
佐助はひとつ息を吐くと、読んでいた名言集をテーブルに置いて、キッチンに入った。炊けたごはんが入っている炊飯器の「保温」をオフにして、中身をラップで包む。さすがにすぐ冷凍庫に放り込むのは憚られるので先に炊飯器の釜を洗い始めた。
 これまでも何度かあったことだ。だいたい十一時を過ぎてもが帰ってこないときは、飲みに行っているときである。
 それならそれで連絡してくれたらいいのにとは思うが、一人暮らしだったの家には固定電話などなく、そして佐助は携帯電話を持っていない。もとから予定されていた飲み会ならともかく、その日急に決まったものなのであれば連絡のしようがないので仕方ないことなのだ。特に今日は金曜日である。あまり休んでいるところを見たことはないが、の勤める会社も一応は土日祝日が非営業日なのだ。休日前に飲みに行きたくなるのは働く人間の性(さが)というものだろう。
 釜を洗い終えて、少し冷めたラップのごはんを冷凍庫に入れる。冷蔵庫の中には今日焼くはずだった下処理済みの魚が眠っているが、これは明日に回しても問題ないだろうと判断。
 もう一杯コーヒーを淹れてからそれを持ってキッチンを出て、テレビの前のソファーに腰を下ろす。番組表をテレビに出して(という技術を最近知った)、深夜バラエティを選択する。バラエティ番組はあまり好きではないと思っていたのだが、深夜の時間帯はそこそこ面白いものもやっていることを知った。
 リモコンを置いて、コーヒーのマグカップを持ち上げる。ちなみにこのカップは佐助用にが買ってきてくれたものだ。一見何の変哲もない白いカップなのだが、実はこれには仕掛けがある。カップの底にブタの鼻が描かれていて、傾ければそれが向かいにいる人から見える、要するに飲んでいる人物にブタの鼻をくっつけてくれる代物なのだ。初めて使った日、は笑いが止まらない様子で出勤していき、朝から何をそんなに上機嫌だったんだろうと不思議に思いながら洗い物をしていて、そのカップを洗い桶にさかさまに置いたときに漸く気が付いた。そんな妙な茶目っ気を持つ彼女を佐助は決して嫌いではないのだが、いつか仕返ししようと思っている。
 ソファーの上に参加座りで両手でブタの鼻のマグカップを持ちながら、佐助はテレビを見始めた。
 たまに「うへ」とか変な笑い声が出るのは、一人だから許してほしい。







 午前二時、四杯目のコーヒーを飲み干したころ、佐助の耳は漸く玄関先の足音を聞きつけた。
 リビングを出て玄関の電気を点けるのと、玄関のドアが開いたのが同時だった。
「おかえり、ずいぶん遅かったじゃ・・・・・・」
 佐助は目を丸くして、言葉は途中で消えていった。
 そこに立っているのは、確かにである。
「・・・・・・、うふ、たらいまあぁ」
 ただし首筋まで赤くして、眼が座っていて、ろれつが怪しい、――泥酔状態の。
「ちょ、え?ちゃん?何事!?」
 今にも落としそうな鞄をとりあえず受け取ると「うむ、くるしゅうない」とかよくわからないことを言いながら、はずかずかと歩き出す。が通ったあとが、ものすごく酒臭い。
「ぅわちょっと靴!脱いで!」
 踏まれたら確実に痛そうな八センチのヒールで廊下を歩くに追いすがると、ぐるん、と酔っぱらい特有の動きでがこちらを振り向く。
「何よ」
「いやだから靴、脱ごうよ」
「はぁ?」
 うわあ。
 佐助は内心冷や汗をかく。これは本当に酔ってる。とはいえこのまま放っておくわけにもいかない。すでに数歩歩いてしまった廊下も、その先のリビングも床はフローリングで、あんなヒールで歩いた日には一発で傷が入ってしまう。
「えーと、」
 考えて、佐助は思いつく限り一番の笑顔で口を開いた。
「ねぇ、お姫様。お疲れでしょうから靴はこちらでお預かりいたします」
 恭しく跪く(単にの足からパンプスを奪うためだ)と、は満足げに鼻から息を吐いた。
「あらさすけ、踏んであげようか?」
 支離滅裂である。
 とりあえず俺のことはわかってるんだと少しだけ安堵してから、佐助は計算しつくした上目使いで小首を傾げた。
様に踏んでもらえるなんて、俺様大感激、ってね」
「よろしい」
 にんまりと笑って、が片足を上げる。その瞬間を見計らって佐助は手を伸ばし、の足からパンプスを抜いた。バランスを崩したの腰辺りを支えながら、もう片足のパンプスも脱がせる。
 窮屈なヒールから解放されたのが嬉しかったのか、は「えへへ」とか笑いながらリビングへ歩き始めた。
「さぁすけ!あしたかいものいこーねえ!」
「はいはい仰せの通りに」
 適当に相槌を打ちながら玄関にパンプスを戻し、佐助はの鞄を開けた。携帯と財布は入っている。少しためらってから、二つ折りの財布を開き、とりあえずすべてのポケットに何らかのカードが入っていることと、札入れに数枚の諭吉がいることだけ確認して鞄に戻した。元々何が入っていたのか知っているわけではないが、恐らくクレジットカードもお金も無事なのだろう。あんな状態だ、よく無事でここまで帰って来れたものである。物盗りとか、その他イロイロ、誰に何されても不思議はない。
 の後を追いながら、珍しいこともあるものだと考えた。
 先述のとおり、が飲んで帰ってきたのは何もこれが初めてではない。これくらい遅い時間になったこともある。
 それでも、があそこまで泥酔しているのを、佐助は見たことがなかった。
 佐助の知る限り、は割かし酒には強い方だ。家でビール五缶開けたときも顔色ひとつ変えなかったし、飲んで帰って来ても多少機嫌がいいなと思うくらいでそれ以外は思考も口調もいつものと変わらなかった。
 とりあえずは無事に帰って来てくれたからいいものの、いったい何があったのか。
 無意識に眉をひそめながらリビングに入ると、がソファーに突っ伏していた。
「おーい」
 返事がない。
 鞄をテーブルに置いて、ソファーに歩み寄る。
「大丈夫?」
 やはり返事はない。眠ってしまったらしい。
 一息吐いて、佐助はの身体を横抱きに持ち上げると、寝室のドアを足で蹴って開け、ベッドの上にそうっと降ろした。
「うふふ」
 へにゃりとした寝顔で、の口から笑い声のようなものが漏れる。
 それを見下ろしながら、ふと思い出した。
 先ほど、が言った言葉。
 『明日買い物行こうね』。
 佐助の記憶によれば、明日の土曜日は、確か重要な取引先との商談があるとが言っていたはずだ。
「・・・・・・」
 リビングに戻り、テーブルの上のの鞄をもう一度開く。
 中からが使っている手帳を引っ張り出す。
「見るよー」
 答えがないのをわかっていながら一応そう言って、佐助は手帳を開いた。明日の日付を探す。確かに赤字で商談の予定が書きこまれていたが、その上から恐らくはボールペンで、ぐりぐりと塗りつぶすような線が引かれていた。
「・・・・・・あらま」
 手帳を元の通り鞄に収めて、佐助は寝室に戻る。
 は完全に寝入ったようで、くうくうと寝息をたてている。
 スーツは皺になるから脱がせようかと考えたが、どちらにしろ酒臭すぎる。もうクリーニングに出すことにしよう。
 明日の商談はなくなってしまったらしい。
 つまり今夜は自棄酒だったのだろう。
「ま、それなら明日は久々に休みなんだし、ゆっくり寝な」
 佐助が眉を下げてそう言って、の頭を撫でると、が心地よさそうに「うに」とか言った。
 何の夢見てるんだか、小さく笑って佐助はそう思った。


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20121203 シロ@シロソラ