祝言のその日のことだった。
 はじめて己にかけられた言葉を、今でもはっきりと覚えている。
 
「ぬしを、この世で最も不幸な花嫁にしてやろう」

 そう言ったそのひとの眼が、可笑しそうに嗤っていたのを、はただ見つめていた。
 これが、夫・大谷吉継との出会いだったのである。





 月のあかるい夜だ。
 燭台に入れた火がじじと音をたてたのを聞いて、吉継は書を認(したた)める手を止めた。
 相変わらずやらねばならぬことが山積みであり、休む暇などない日々を送っているのだが、これくらいの時間になるといつも彼女がやってくるのである。
 ほら、きた。
 いまだに戸惑うことがあるのか、決して軽くはない足取りで気配が近づいてくるのを、吉継はあえて気づかぬふりをして、文机から顔を動かさずに待った。
 気配が室の前で止まる。まだ躊躇しているらしい。悪戯心が湧いて、声をかけてみた。
よ」
「ひゃっ」
 襖の向こうで、裏返った声。
「そのようなところで立っておるならば、入るか行くかすればよいものを」
「は、ははは入りますッ!」
 おずおずと、襖が開く。
 現れたのは、その場で三つ指をついて頭を下げるまだ少女とも言えるような女の姿だ。
 そちらを見もせずに、吉継は言う。
「ぬしもよくよく飽きぬことよな」
「あ、飽きるなんてそんなっ、妻たるもの、一日に一度くらいは夫の姿を眼にしたいと思うのは世の摂理だと思うわけです!」
「摂理、とは。頭の弱いぬしの割には難しい言葉を使ったものだ」
 返す言葉が見つからぬのだろう、「あ」とか「う」とか小さく唸るような声。
 気配だけで必死さが伝わる、という名のこの女は、吉継の妻だ。祝言をあげて、三月ほどがたつ。
 の実家は武士とは名ばかりの、畑仕事で生計を立てていたような家であったが、吉継の主君である豊臣秀吉は才覚があれば身分を問わず登用する人物で、の父もそのひとりであった。
 その急な出世と同時、ひとり娘のが刑部少輔である大谷吉継に嫁いだとあって、大坂ではこんな噂が飛び交った。
 曰く、あの男は己のために娘を売ったのだと。
 の父を認めた太閤すら冒涜しかねないその噂に三成あたりは激昂していたが、当の吉継はそれがまったくの嘘ではなかろうと考えている。
 業病を患い、城内の者からも気味悪がられているこの己に娘を差し出すなど正気の沙汰とは思えなかった。しかし太閤御自ら仲人を務める縁組とあらば、断ればそこで出世の道が途絶えよう。結局は己の出世と娘を天秤にかけて出世を取った。それだけのことだ。人の世とは、かくも醜い。
 哀れといえば、ただの村娘同然の生活から、一躍刑部少輔の正妻に躍り出ただ。
 最低限読み書きができる以外は特筆するような才はなく、右も左もわからぬ状態で城に上がって以来、吉継とひとまとめに気味悪がる侍女たちの陰口に晒されながら、与えられた一室で一日の大半を過ごしている。
 足が不随である吉継はたとえ眠るときであっても輿から降りることはなく、執務室からも出ないため、閨を共にすることもない。ともすれば一度も顔を合わさぬまま一日が終わることすらある。
 見知らぬ場所でひとり、さぞかし心細かろう。しかし吉継はそれでよいと思っている。この己と番(つが)い合ったが最後、不幸になるのは自明の理であるのだ。
 そのが、このところ何を思ったのか、毎夜吉継の執務室を訪れている。会話も、他に何をするでもなくただ吉継の仕事の様子を眺めているのだ。
 夜が更けて眠そうな様子を見かねた吉継が退けと命ずれば素直に退室していくが、次の晩もまた何事もなかったかのように現れて、そしてまた吉継が退室を命じるまでただ眺めていく。
 何のつもりかと問えば先ほどのように答えるのだ。
 妻は夫の姿が見たいものなのだと。
 そのうち飽きるのだろうと、それ以上なにも言わずにおいたらそのままひと月以上が過ぎた。五助などは面白がって「子犬のようで可愛らしいではありませぬか」などと言いやったが、なるほど、そう言われてみれば、遠い昔、子どものころに懐かれた犬のように見えぬこともない。
 妻という立場の女には、興味がなかった。
 この日、に声をかけたのは、子犬のようだという五助の言葉を思い出したから、ただそれだけだと、吉継は思っている。





や」
「は、はいっ」
 声をかければ面白いように背筋を伸ばして返事をする。後ろに振り千切れんばかりの尻尾が見えるなどと思いながら、吉継は輿に乗ったまま漂うように、障子を開け放していた窓際へ移動し、板張りの床に輿を降ろした。
「こちらに来やれ」
「えッ!?」
 よほど驚いたのか目を丸くしたは、己の口から出た言葉を失言と判断してか掌を口に当て、そして答える。
「はい、ただいま!」
 着物の長い裾を捌くのにまだ慣れぬのだろう、時折その裾を踏みそうになりながら、が吉継の斜め後ろに腰を下ろす。
 気配でそれを察して、吉継はひとつ息を吐くと首だけで彼女を振り返る。
「こちらへ来やれと言うたであろ」
「そちらへ、とは、」
「われの元だ、どうにもぬしは物分りが遅い」
 言うと、また「うぅ」などと漏らしながらは吉継のすぐ隣に腰を下ろしかけ、
「・・・・・・それでは触れられぬの」
 吉継は口の中でそうつぶやいて、輿をくるりとへ向けると、器用に傾けてへ腕を伸ばしてその身体を抱き上げた。
「っ、ひゃ!?」
「・・・・・・ぬし、もう少し艶のある悲鳴などあげぬのか」
 呆れたように言いながら、の身体を横抱きにして、組んだ己の足の上へ降ろす。
「よ、吉継さま、」
「言うておくが、暴れると落ちるぞ」
 二人を乗せた輿がふわりと持ち上がる。それだけでは息を詰めて声を飲み込んだ。
 その様子を見下ろして、吉継はくつくつと笑う。
「なに大人しくしておれば落とすようなことはせぬゆえ」
 言いながら、己の腕の中で縮こまるの頭をゆっくりと撫でる。
 常の女ならば、病が移るなどと言って逃げるのだろう。子犬ならば、尻尾を振って喜ぶはずだ。
 この者は、どちらだ。
 そう思って見下ろしたの顔は、ほの暗い月明かりの下でもなおはっきりとわかるほど、耳の先から首筋に至るまで赤くなっていた。怯えているようにも見えるのだが、その小さな手がしっかりと吉継の着物を握っている。
「・・・・・・」
 予想外の反応だった。
「・・・・・・病でも得たか?」
「そっ、そんなわけありませんっ、これはそのなんていうか、はは恥ずかしい、のです!」
「恥ずかしい?」
 聞き返すと、はこちらを見上げる。その眼が、僅かに潤みを帯びているように、見える。
「その、殿方に、こうして抱きしめていただく、など・・・・・・ッ、はじめて、で」
 その言葉は尻すぼみに小さくなっていった。
 吉継はその言葉に、首を傾げる。
「ぬしには、われが『殿方』に見えるのか」
「あったりまえじゃないですかっ!」
 が眉を跳ね上げた。
 こんな顔をのを、見たことがなかった。
「どこからどう見たって殿方でしょう!ああどうしようこんなだったらもっと良いお香を使っておくんだったって持ってないけど、まさか吉継さまがわたしをだ、だだ抱き、やだもうどうしよう、」
「・・・・・・考えておることがだだ漏れよ」
 静かに言うと、がびしりと固まった。
「・・・・・・こうされるのは、嫌、か」
「嫌な訳ありませんっ!」
 弾かれたようにが答え、そして口調を落として続ける。
「その・・・・・・、わたしは吉継さまの妻ですのに、こちらでは何もできることがなく、何のお役にも立てず、でもどうしても寂しくて御姿だけでも見られればと思っておりましたが、でもきっとご迷惑でしたよね、申し訳ありません、でも、何のためにわたしはここにいるのか、というかいてもいいのかわからなくて、吉継さま、ふえ」
 言っている間に感極まったのかその大きな眼から涙がぼろぼろと落ち始めた。
 何を言っているのかはさっぱりわからなかったが、何が言いたいのかはだいたいわかった。
 愚かなことだ。
 何の為に生きるかなど、不幸の塊たる己の傍にいるだけでもはや考えることすら無駄だと言うのに。
「――あれが見えるか、
 ゆるりと腕を持ち上げて、天を指す。
 明るい月、散らばる星々。
「あれ、とは」
 着物の袖で涙を拭いて、が吉継の指の先を目で追う。
「あれだ。不幸を呼ぶ星。われには見える。あれが天に満ち、地に降るのを待っておる」
「不幸を呼ぶ、星・・・・・・?」
「左様。われの望むは世に等しく不幸を降らせること、すべての者の不幸よ。ゆえにぬしの悩みは意味を成さぬ。生きる意味など世にはない」
 どうだ、わかったか。
 これが大谷吉継、ぬしの夫よ。
 どうする。
 逃げるか?
 が一度眼を伏せ、そしてこちらを見上げる。
 その瞳が、まっすぐと己の眼を見つめる。
「ひとの不幸が、吉継さまの幸せなのですか」
 さきほどまでの慌てふためいた様子はどこへ行ったのか、ただ静かに、嘲るでも恐れるでもなく、まるで幼子が大人にものを訪ねるような、問いかけ。
 吉継は鷹揚に頷いて見せる。
「そうよな」
「それでしたら、」
 その是の返事を聞いて、
 ――は、笑った。
「わたし、漸くわかりました、吉継さま」
 それはまるで、花の咲くような。
「何を?」
「このにはじめてかけていただいた言葉を、わたしは今も覚えております。『この世で最も不幸な花嫁に』と仰いました。つまりわたしは、吉継さまを幸せにするために大谷家に嫁いだのでございます」
 何が楽しいのか、笑顔でそう言うに、吉継は包帯の下で眉を顰め、そして自嘲の笑みを口に張り付けた。
「・・・・・・ヒヒ、ぬしはなかなか面白いな。われに、しあわせとは」
「だって、わたしがこの世で最も不幸になれば、その分吉継さまはこの世で最も幸せになれるのでしょう」
 己に向けられる笑顔など、特に女の笑顔など見たことがなかった。
 唐突に思う。
 この腕の中の生きものは、何だ。
 子犬か、それとも。
「ああよかった、これでわたし、堂々と吉継さまのお傍にいられます!」
「・・・・・・話を聞いておったか。われの望みはすべての者の不幸。世を、この夜の闇に閉ざすことよ」
 が可笑しそうに笑う。
「まあ。吉継さまったら物知りなのにご存じないこともおありなのですね」
 揶揄のような言葉だが、このに悪い感情が微塵も感じられない。こんな人間がいるのか。
 鈴の転がるような声。
「明けない夜なんて、ないんですよ?」
 そう言って、は己の両腕を、吉継の背に回した。
 

信じることがすべて
Love  is  so sweet.



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甘い刑部甘い刑部・・・!と念じながら書きました。
そもそも書くことになった理由はこちら

material by イチゴヒメ
20120902 シロ@シロソラ