『もうアンタ今年二十八になるんやで?ほんまにわかってるん!?』
「わかってるよ。――仕事中だから。切るよ」
 携帯の向こう、母親はなおもまだ何か言っているようだったが無視して通話を終了した。
さーん、彼氏ですかぁ?」
 後輩がにやにやと聞いてくる。
 は携帯をかばんに放り込んでグラスに残っていたハイボールを一気に飲み干した。
「んーん、母親」
「え、お母さん?大丈夫なんですか切っちゃって」
「いーのいーの、いつもの見合いコールだったから」
 節電のご時世、空調が弱く蒸し暑いオフィスは十九時で自動的に全館消灯。
 いつもならば卓上ライトの光だけで仕事を続けるところだが、今月は営業の数字も出てるし今日くらいいいかと、チームの後輩を連れて飲み始めてすでに二軒ハシゴした。
 三軒目ともなると付き合ってくれるのは一番年が近い後輩ひとりだけで、それでもバーカウンターでのんびり飲むにはいい気分だった。それが見合いコールでぶち壊しだ。
さんカレシいたんじゃなかったんでした?お見合いするんですか?」
「あれりっちゃん言ってなかったっけ。あの銀行マンなら別れたわよ」
「え!?いつですかぁ!?」
「半年くらい?前?」
 酔っているのだろう、後輩のリアクションが大きい。
「えー!それって付き合って一、二か月しかたってなくないですか!?背が高くてイケメンで収入も安定しててかつ優しい真面目な銀行マン!しかもメガバンク!最高の物件だったんじゃないですか!」
 そういえばそんなことも言ったっけ。
「真面目すぎてちょっと堅苦しいってのもあったんだけどー、それに向こうは全国転勤あってさ、もし結婚するんだったら私が辞めなきゃいけなくなるでしょ」
「やだーさん辞めたら私やってけないですよぅ」
 抱きついてくる後輩の頭を「よしよし」と撫でながら、はもはや何杯目かよくわからないハイボールを頼んだ。
 新卒で東京に出てきてもうすぐ七年。会社はを裏切らず、やればやるだけ結果が出て評価してもらえたから、仕事は充実していた。この春からはひとつのチームを任されて、部下を動かすやりがいも感じ始めた今日この頃。
 何人か付き合う人はいたけれど、どいつもこいつも何か物足りなかった。いい歳してコドモっぽかったり、の方が収入がよかったり、――そして「結婚」でを縛ろうとしたり。
 地元の両親も一人娘が嫁き遅れていると感じているらしく、何かにつけてよくそんなにあったものだと思うほどのお見合いを勧めてきた。
「でもぉ、私さんに辞めてほしくはないんですけどぉ、でも幸せになってほしいんですよぅ」
「しあわせ?」
「だってー、さんいっつもひとりで背負い込むじゃないですかぁ。そういうの受け止めてくれる、器のでっかーいオトコ、いませんかねぇ」
 カクテルグラスの氷をマドラーでくるくると混ぜながら、後輩が言う。
「ほんっとどこの男もちっちゃいですよねぇ」
「あ、でもね、これは内緒だけど」
 わざとらしく人差し指をたてる。新人のころから面倒をみているこの後輩は、こういった秘密には口が堅いことをは知っていた。
「最近さ、同棲してるんだ」
 後輩が目を丸くした。
 きょろきょろと周りを見回し、知り合いがいないことを確認してから満面の笑みになる。
「ほんとですかぁ!カレシですか!?どんなひと!?」
「彼氏って、いうか・・・・・・、所謂ニートなんだけどね」
 後輩が引いたのがわかった。
「っえ、それってもしかしてダメ男パターンなんじゃ」
「いーえ、何度もそんな手にひっかかるサンじゃなくてよ」
 確かに何年か前、自称俳優の卵に貢いだ時期もあったのは後輩も知るところだ。
「道端で行き倒れてたのを拾ったんだけど、家事全部できるし料理すっごくおいしいし、なんていうか、癒し系」
「もちろんイケメンでしょ?」
 食いついた後輩に、にやりと笑って親指をたてて見せる。
 後輩ははふー、と息を吐いた。
「いいじゃないですか、いいじゃないですか!もーそのひとと結婚しちゃいましょうよ!」
「え、結婚?」
 どこからそんな発想が。
 が思わずハイボールのグラスを置くと、後輩はバッグをごそごそと漁り、一枚の紙を引っ張り出した。
「あぁ、ちょっと折れちゃった、まいっか、さんこれあげますから!」
 バッグに押し込まれて妙な折れ目のついた紙を広げる。
 左上の文字。
 婚姻届。
「・・・・・・りっちゃんなんでこんなもん持ってんの?」
「今月号のザクシィの付録ですよ!買ったら結婚できるかもーって佐藤ちゃんたちが買ってて、つられて買っちゃいました。でも私はまだ結婚はいいかなって思ってるし、さんにあげます」
「りっちゃん酔ってる?今言ったけど彼ニートよ?稼ぎないよ?」
「いーじゃないですか、さんが稼げば!そんで彼が専業主夫になれば!何の問題もないですよ!」
 そんな簡単に。
 専業主夫なんて、昔ドラマで見たくらいで、現実的に考えてそんなの――
「・・・・・・あんまり問題は、ないわね」
 あるとすれば世間体を気にする両親くらいだ。でもどうせ離れて暮らしているのだからそう問題があるとも思えない。
「一家の大黒柱とか、さすがさん!私も見習って、世界を救う!!」
「ちょっとりっちゃん」
 どうやら飲ませすぎたようだ。
 後輩が救世主宣言をしてカウンターに突っ伏してしまったので、は二人分の会計を済ませると、後輩の肩を支えて店を出た。




「ここまでこの子運んでください、よろしく」
 後輩のバッグから免許証を探し出し、一万円札と一緒にタクシーの運転手に渡して、後輩を後部座席に突っ込んだ。
「さて、と」
 タクシーのテールランプがネオンに消えるのを見送って、は歩き出した。
 マンションまで本来なら地下鉄を使うが、終電はとっくに終わってしまったし、歩いて歩けない距離じゃない。
 真夏の夜風がぬるく、でもなんだかいい気分だ。
 鼻歌混じりに歩いていると、ポケットの携帯電話が鳴った。
 画面に表示されている名前は「さすけ」。
「もっしもーし」
『ちょ、ちゃん!今どこ!?』
「今ー?港区?」
『ざっくりしすぎ!もー、会社の近く?どーせまた飲んで歩いてるんでしょ!?今何時だと思ってんの!女の子のひとり歩き危ないから!俺様迎えに行くから!』
 五つも年下の同棲相手は一方的にそうまくしたてた。
 カレシ、と言うのだろうか。
 が住むマンションの前で、文字通り行き倒れていた男。発見したときは驚いたが、存外いい男だったので思わず拾ってしまい、そのときは熱を出していたから看病したらなぜかなつかれて、同棲生活が始まってしまった。
 いったい今まで何をして生きてきたのか、彼にできないことはおよそ無く、毎朝より早く起きて朝食を用意し、が出勤してから掃除・洗濯・買い物を済ませ、が帰宅すると必ずおいしい夕食が待っている。虫が出たと騒げばすぐに退治してくれるし、宗教や新聞のうるさい勧誘も視線だけで撃退してみせた。寝付けない夜はが寝るまで頭を撫でてくれたり、キスも、それ以上のことも、する。
「大丈夫よ、ひとりで帰れるもん」
『だめ、迎えに行く。今からいくから電話切らないで、危ないから』
 電話の向こうでばたばたと足音、鍵を閉める音、エレベーターの音。
『飲むんだったら連絡ちょうだいね?せっかく一緒に食べようと思ってごはん作って待ってたのに』
「え、待ってたの!?ごめん・・・・・・」
『いーよ、でも明日朝食べてね。ビーフストロガノフだから』
「うッおいしそう、でも朝は無理かも」
『だめ。食べさすから』
 電話の向こうで、ちゃりちゃりという音。たぶん佐助に持たせた携帯につけているストラップが揺れる音だ。
『あとちゃん、今日『秘密の辛子ちゃん』予約忘れてたよ?』
「うっそ!」
『ちゃんと録っといたから。今週ちゃんの好きなナノくん出てたよ』
「わぁありがとう佐助だいすき!」
『うん俺様もだいすき』
 あっさりと帰ってきた返事に、なんとなく頬が熱くなるのがわかった。
 彼はこういうことを照れもせずによく口にするので、もう慣れているはずなのに。
 ちょっと酔ったかしら。
「ねーさすけぇ」
『なーに?』
 例えば学歴とか。職歴とか。佐助の過去を、は何も知らない。
 でもこんなにそばにいて心地がいい人を、はほかに知らない。
「結婚しようって、言ったらどーする?」
『ん?いーよ?』
 即答だった。
 さすがにびっくりする。
「え、ちょっとちゃんと聞いてた?結婚だよけっこん!」
『うん結婚でしょ?いいよ?』
「なんで!?」
 頭が悪い男ではない。むしろ良い方だと思っている。勉学ができるかどうかとかそういうことではなく、しっかり考えてものが言える男だ。
「なんでって・・・・・・ちゃんすきだし、一緒にいるの楽しいし。ちゃんがばりばり稼げるように俺様がサポートすれば、とりあえず生活にも困んないでしょ」
 あっさりと返ってきた言葉に、はバッグから少し顔を出している先ほどの紙を見た。
「・・・・・・そう。――実は今日、後輩から婚姻届もらったの」
『えぇっ、誰と結婚するのちゃん!!』
「いやだから佐助とするのよ。私とあんたでこれ書くの」
『あーよかったぁ』
 どこまでも、佐助は驚いたり引いたりしていないようだった。
 結婚って、こんな簡単に決めるものなんだろうか。
『あっでも婚姻届って印鑑押すとこあるんだよね?俺様持ってないや、買いに行かなきゃ』
「そういえば佐助、苗字なんていうの?」
 もう四、五か月は一緒にいるような気がするのに、そんなことも知らないことに気づいて、はなんだかおもしろくなった。
『苗字はねー、猿飛ってゆーの。ちょい珍しいから、印鑑フツーに売ってないかも。ネットで注文しよっか』
「猿飛か・・・・・・変な感じ」
『じゃー佐助にしよっか?そっちのが語呂がいいかもね』
 電柱にぶつかりそうになった。
 やっぱ私酔ってるかも。
「本気で言ってるの?あんたそれ、婿に入るってことよ?」
ちゃんってば色々難しく考える癖があるよねぇ。俺様はちゃんと一緒にいられるんなら、苗字が変わろうが名前が変わろうが、なんだってかまわないんだよ?』
 そっか。
 佐助の言葉が、すとん、と心に落ち着いた。
 そんなに、簡単なことなんだ。
 は立ち止まる。
 見つめる先、街頭に照らされた、よく見知った姿。
『見つけたよ、おバカさん』
 簡単なことだ。
 あんな紙切れ一枚で、この世でいちばんすきなひとと、ずっと一緒にいると誓える。
 歩み寄る、大きな掌がの手をとった。
「おうちに、かえろ」
 



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<注釈>
※「ザクシィ」・・・・・・結婚情報誌の定番。
※「辛子」・・・・・・日本が誇る男性5人組アイドルグループ。
20120527 シロ@シロソラ
(20121127 一部修正)