何度も何度も、腕時計を見る。
 午前九時、五十五分。
 あと五分をきった。
 ほんとなんで今日バイト入れちゃったんだろう。
 一ヶ月も前にまとめて決めたシフトだから、今更何を言っても仕方がないのはわかっているのだけれど。
 は落ち着きなくコピー機と事務机の間をうろうろしていた。
 甲斐予備校の一階、職員室は静かだ。
 職員室だけではない。隣の講師室も、職員室に併設されている受付のカウンターから見える一階ロビーも、あまり人影がない。
 受験シーズン、真っ只中だからだ。
 高一・二年生を対象にした春期講習は行われているが、やはり生徒の大半を占める受験生の姿がないのは、どこか寂しさすら感じる。
 はこの予備校のチューター、生徒の進路指導や講師の手伝いのアルバイトをしている。
 他のチューターは春期講習の方の手伝い(プリントを配ったり、黒板をきれいにするという仕事がある)をしているが、の今日の仕事は職員室の電話番だった。
 この数日は、名門大学の合格発表が続く。生徒や保護者から合否の電話を受けるため、この時間のアルバイトはひとり、あとは予備校の事務員である、
?具合でも悪いのか?」
「ぅわ片倉さん、いえ、大丈夫、大丈夫です」
 自席でパソコンをにらんでいた片倉さんから声をかけられて、思わず声がひっくりかえった。
「そうか?そろそろ東都大の発表だな、電話くるかもしれんから座っとけ」
「は、はい、」
 そう言われては仕方がなく、はアルバイトにあてがわれている席についた。
 机の上には保留の使い方や講師席の内線番号を記したふせんがべたべたと貼ってある電話機。
 しかしは、スーツのポケットに入れたままにしている携帯電話が気になって仕方がなかった。


「合格したら一番に電話させていただくゆえ、番号を教えていただきたい!!」


 二週間前、そうあれは東都大も含む、国公立大前期入試の前日。
 前日とあってさすがに予備校で自習する生徒も少なかった。
 その日は自習室の見回りをしていたに、まるで決闘でも申し込むような剣幕で声をかけたのは、何度も進路相談に乗って、も応援していた生徒だった。
 はじめての進路相談は確か夏休みの終わり。自分が通っている東都大学を目指す生徒だから、という片倉さんの判断でが担当した。
 夏の模試ではE判定、完全に圏外。
 それでも彼、真田幸村はどうしても東都大にこだわった。
 一回目の進路相談こそ、勉強法や少しでも合格する可能性が高い学部をアドバイスしたが、それ以降は進路相談を申し込んできては部活やサークルのこと、講義の内容、ふだんの学生生活などを質問してきた。もちろん大学がどんなところかを紹介するのもチューターの仕事だったから、自分の知る限りのことは話したと思う。
 そして秋、冬と彼が猛然と勉強していたのを、は知っている。
 授業が終われば毎回講師室まで質問に訪れていたし、部活を引退してからは授業以外の時間は予備校が閉まるまで自習室にいた。
 参考書も赤本も単語帳も、もうぼろぼろになっていた年末の最後の模試で、ついに彼は合格圏内のB判定をもぎ取った。嬉しそうに判定結果を職員室まで持ってきて、ふたりで大喜びしたのが記憶に新しい。
 
 そして、あの日。
 自習室を出てすぐの廊下で、顔を真っ赤にして、彼はそう言った。
 本当は、生徒とアルバイトの間で連絡先の交換はしてはいけないことになっている。
 実際軽いノリで「ちゃんメアド教えてよ〜」くらい言ってくる男子生徒は何人もいたが(最近の男子高校生はませていると思う)、そのすべてをは笑顔でスルーしてきた。
 でもこのときだけは、断れなかった。
 そこそこ大学に通って、まあまあバイトして、それなりに友達と遊んで、
 そんな自分は忘れていた、まっすぐな眼で、彼はを見ていたから。
 赤外線で連絡先を送ったときの、彼の笑顔が頭から離れなかった。



「お、十時か」
 片倉さんの声で我に返った。
 東都大では、合格者の受験番号が張り出されたはずだ。
 インターネットでも合否は確認できるのだが、彼のことだ、絶対大学まで行っているはず。
 とたんに鼓動が早くなる。
 ポケットの中で携帯を持つ手が、たぶんものすごく汗をかいている。
 大丈夫、大丈夫、大丈夫。
 彼はあんなに頑張った、が知る他のどの生徒よりも頑張っていた。
 だから、
 どうか神さま、


 ――トゥルルルルルルル、
「ッ!!!」
 机の電話機がぴかぴか光って鳴った。びっくりしすぎて、椅子ががたんと音をたてる。
 電話は二コール以内で出なければいけない、即座に手を伸ばし、
「!!」
 ポケットの携帯が、振動を始めた。
 椅子を蹴立てて立ち上がる。
!?」
「すみません片倉さん!トイレ行ってきます!!!」
「え!?あ、こら電話!――ったく」
 職員室を転がるように出るころ、後ろで片倉さんが外線電話の対応をしているのが聞こえた。
 あとで雷が落ちるなと思いながらポケットから携帯を引っ張り出す。
 おろしたてのヒールがかつかつと音をたてる、ロビーを横切って校舎の外に出て、携帯の画面の文字を見る、「真田くん」の文字、
「――もしもしッ!」
『わ、殿?』
 噛みつくような勢いで電話に出てしまったので、驚いたような声が返ってきた。
「あ、ご、ごめ、ちょっと走ってて」
『鍛錬中でござったか、それは申し訳ない、かけなお』
「さなくていいかけなおさなくていい!」
 鍛錬って何だ、と思いながらは息を整えた。
 携帯の向こうはおそらく大学、たくさんの人の声がうしろから聞こえる。
「真田くん、それで」
 黙ってしまった相手に戸惑いながら言う。
 どうしたんだろう、まさか、いやでも、でもまさか、
『――殿』
 ぐるぐると考えていると、携帯の向こうからは存外に落ち着いた声。
「真田くん?」
殿は、その、交際している男性はおいでか』
「・・・・・・は?」
 今、なんて言った?
 交際?
「彼氏?いないけど・・・・・・?」
 間があった。
 何何、なんなの!?
「あの、真田く」
『某、殿をお慕い申し上げております!!!』
 思わず携帯を耳から話すほどの音量で、その声はの耳を突き抜けた。
 それが告白だとわかるのに、たっぷり一呼吸はかかった。
「えっと、あ、ありがとう、」
殿は某を、どう思っておいでか・・・・・・?』
 さっきとは打って変わった不安そうな声。
 自分でも、わかってはいたのだ。
 この半年あまり、ずっと彼のことを見てきた。誰より努力家で、誰より熱血で、――誰よりすてきな笑顔で。
 自分の中にある気持ちに気づいてはいたけど、それも彼が無事合格してこの予備校を去るまで。
 それでおしまい、彼はこれから新し環境で、新しい人生を歩む。きっとすぐ彼女だってできるだろう。
 そう、思っていたのに。
「すき、だよ」
 もう、止められない。
「真田くんが、すき」
 鼻の奥がぎゅう、と痛む。どうしよう、泣けてきた。
『では殿、――いや殿!この、幸村のものに、なってくだされ!」
 涙が止まらない。
「うん」
 としか言えない自分がなんだか情けない。こちらのほうが三つも年上なのに。
 そうして、大事なことを思い出した。
「て、いうか、真田くん」
『幸村とお呼びくだされ』
 ぐず、と鼻をすすった。
「・・・・・・幸村、くん」
 初めて口にすることばが、なんだか口触りがよくていとおしい。
「あの、合格発表、は?」
『――あ、某としたことが、大事なことをお伝えしおりませなんだ』
 ごくり、と唾を飲んで彼の言葉を待つ。
『東都大学、経済学部!某見事、合格いたし申した!』
「――!!」
 ああ、よかった。
 本当によかった。
『・・・・・・殿?泣いておいでか・・・・・・?』
 神さま、ありがとう。
 彼と私を出会わせてくれて、本当にありがとう。
「ううん、も、平気。大丈夫。――じゃぁ、4月からは一緒に大学行こうね」
 でも四月から私四年生だから、一年しか一緒じゃないか、と照れ隠しのように言うと、
『これからずっと、一緒でござるよ』
 と、まるで大人みたいな声で彼は言った。
 もう、初心なんだかませてるんだか、どっちなんだろう。
『この真田幸村、殿を一生かけて!幸せにしてみせましょうぞ!!!』
 え、それまさかのプロポーズ!?
 びっくりして、涙が止まったのがわかった。
 ちょっと待って、そっち大学じゃないの。周りにたくさん人がいるよね!?
 でも、いいか。
 彼のそういうまっすぐで、全力なところが。
「ありがと。――だいすき」



!!
(某にも春が来ました、ぅお館さまあアァァァ!!!)
(え、旦那うまくいったの!?これは赤飯たかないとねー)

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20120525 シロ@シロソラ