「アホちゃうか」 何を言われたのか理解するために、家康はゆっくりと瞬きをした。 そして、眉を下げる。 「・・・・・・阿呆とは、ずいぶんな言い方じゃないか?」 「あほう、なんて言うてへん。アホやぁ言うた」 「・・・・・・どう違うんだ」 「そんなん自分で考えぇ」 身も蓋もない返事に、家康はやれやれとばかりに鼻から息を吐いた。 どうやらずいぶんと機嫌を損ねてしまったらしい。 どうしてこんなことになったのだったか、考えながら、ぷいときびすを返して数歩分前を歩くの背を見つめた。 白い半袖のシャツと、腰で折って短めに穿いている紺色のスカート、夏休みだというのに制服姿なのは、今日が登校日だったからで、同じ理由で家康も制服を着ている。蝉時雨も全盛期は過ぎ、時折混じるのは寒蝉(ツクツクボウシ)の鳴く声だ。陽が傾いて、彼女の影がここまで届くのを、なんとなく踏まないようにして歩く。人気の無い道路の、錆びの目立つフェンスの向こう、一時間に三本しかない電車が二両で走っていく。 残暑は厳しく、むわりとコンクリートの焼けたにおいがする。 そのにおいが、ふいに脳内で、火薬のにおいにすり替わった。 ――徳川家康には、古い記憶がある。 握った拳を見下ろせば、今よりも一回りは大きかった、傷にまみれた拳が、視界に被るように、見える気がする。 戦乱の世を、ひとの絆で終結させた、ひとりの男の、記憶。 それは物心ついたころから当然のように、家康の頭に入っていた。たくさんの死と、それ以上の生を、見つめ続けた、記憶だ。 どうしてそうしようと思ったのか、実のところよくわからないのだけれど、今世では誰にも言ったことがなかったそれを、家康はに話した。夏の終わりの空気が、そうさせたのかもしれない。掴んだ指の隙間からすり抜けて行ってしまうような、はかなげな危うさ。その空気を、に重ねたのかもしれなかった。 ただ傍にいてほしくて、そのための枷にでもするつもりで、話したのかもしれない。 前世などというオカルトじみた話を、しかしは信じると、家康は疑わなかった。は、聡い女の子だ。何を信じるべきか、どれを嘘と看破するか、いつもきちんと判断していて、その眼はまっすぐと、物事を見つめている。そして自分は、の信に足る男だと、家康は自負している。 ただ、いかに信じてくれようとも、さすがに驚くだろうとは、思った。はたして話を聞いたは、もともと大きな眼を、転がり落ちるのではないかと心配になるほど丸くした。 だから、最後にひとこと、付け加えた。 「大阪人といえば、どちらかといえば太閤贔屓なのだろう?そして、比較的ワシは人気が無い。に嫌われないことだけを、祈るばかりだ」 苦笑しながら冗談めかした、その言葉に対するの反応が、冒頭のの一言だ。 曰く、アホちゃうか。 「・・・・・・まいったな」 先を行くには、こちらを振り向く気配もない。 軽く、頭を掻く。短く揃えた髪の根本に、じわりと汗をかいている。 がここまで決定的に機嫌を損ねるのは珍しい。大阪育ちの彼女の言葉はときにきつく聞こえることがあるけれど、本当に怒ることはそうあることではないのだ。 もう一度言う、は聡い女の子だ。こうなってしまえば、下手な甘言は火に油である。好物の甘いお菓子で吊るのも同様。何が彼女の癇に障ったのか、きちんと理解した上で話をしなければ、その機嫌は絶対に直らないということを、家康はもう理解している。 では、は何に、気を悪くしたのだろう。 自分が急に、前世の記憶をカミングアウトしたからだろうか。――それは、違うだろう。話の脈絡は確かに無かったけれど、はそういうことに腹を立てるようなことはしない。 ならば、大阪人は太閤贔屓と決めつけるようなことを言ったからだろうか。――それは、あり得るかもしれない。偏見ととられても文句の言えないことだ。だが、そういうことに関してならば、はそうとはっきり言うだろう。言葉を濁して機嫌を損ねる理由としては、少し弱い。 そうすると、一体、 ――だいたい、の使う「あほ」という言葉は、汎用性が高すぎる。家康の頭は少々脱線して、そんなことを考えた。「あほ」という言葉の意味は、家康の知る「馬鹿」という言葉との意味と、必ずしもイコールではない。家康はそう思う。 ときに関西人は、「あほ」はほめ言葉だとすら言うではないか。 「・・・・・・ああ、」 そうか。 家康は、足を速めて、の背を追う。 「、」 名を呼ぶ。 がぴたりと立ち止まった。 それでも、彼女はこちらを向かない。 「、すまない。ワシが悪かった。の信頼を、裏切るようなことを言った」 そう。 失言だったと、家康は気が付いた。 が、自分を嫌うなどということは、起こりえないことだ。 それを、他でもないが、これまでずっと証明してくれているのに。 「すまなかった」 その小さな背に漸く追いつく。 腕を回して、後ろから抱きしめる。 「家康」 「うん」 「暑い」 「うん」 の首筋に鼻先を埋めれば、柑橘類の香りがした。が使っている、制汗スプレーの。 「家康」 「うん」 いえやす、という言葉の連なりを、こうも好きだと思えるのは、の口が、そう紡ぐからだと思う。 その言葉のために、が喉を震わせてくれるから。 は言葉を探すように一度口を閉ざして、そして躊躇いがちに、言った。 「・・・・・・、アホ」 家康は、笑う。 「ああ、ワシも、のことが、すきだ」
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material by フリー素材*ヒバナ * * 20130819/シロ@シロソラ |