そういえば、蝉の声は聞こえなくなったと気が付いた。
 このところほぼ寝る間もなく走り回っていたから、季節の変化に気を払う余裕がなかったのだ。
 いつの間にか、こうして障子越しに入ってくる西日もずいぶんと長くなっている。
 佐助は季節の移り変わりについての詫び寂び云々になどひとかけらの興味も持ってはいない。ただ、夏が終わるのだと、漠然と思う。
 あれだけ喧しかった蝉は、すでに死骸となって地に転がっている。
 一年のうち、今この時期が、最も残酷であるように思う。
 死の、においがする。
 夏が死ぬにおいが。
 そんなことを考えるのは、あるいはこの、眼の前の御仁によるものなのだろうか。
 そう思いながら、佐助は目の前の褥に視線を戻す。
 ずいぶんと痩せた。老け込んだようにも見える。元々若いとは言い難い年齢ではあったが、老いているなどと思ったことはなかったのに。
「・・・・・・、そうか。あやつめ、成し遂げおったか」
 信玄は佐助の報告を聞いて、穏やかに眉を下げてそう呟いた。病に侵された、吐息交じりのしわがれた声だ。
 憑き物でも落ちたかのような、清々したような表情だ。
 脂の乗った張りのある皮膚の下に、有象無象を蓄えていた甲斐の虎でも、こんな表情を浮かべることができるのかと、佐助は考えながら小さく息を吐く。
「結局、何から何まで大将の思い描いた通りになりましたよ」
 昨年の、秋の終わり。相模の北条家との同盟が手切れとなって、娘である黄梅院が戻され、その従者としてがこの甲斐の地を踏んだ、そのときから。
 あるいは、もしかしたら、伊達軍を追って北条領内に侵入した折りに、たった一人で甲斐の虎と対峙した、という若武者のことを知ったそのときからなのかもしれない。
 すべては、信玄の考え通り。
 幸村は見事に「」を甲斐へ引きこむ役目を果たし、は信玄の狙い通りに小田原攻めの役に立った。さらに思い悩む幸村が、真の強さを理解するのにも一躍買った。これまで必死に作り上げてきた男子としての鎧を壊しても、は――は、幸村の傍にある。
「あの二人の祝言には、もちろん仲人をやってくれるんでしょ?そもそも言い出したのはアンタなんだ」
 たったひとつ、信玄が見通せなかったことがあるとすれば、それは己の病だろうか。
 しかしそれをも、幸村の成長の糧に、――武田の安泰のために、利用しようとしているのだから、人使いが荒いにも程があるというものだ。
「ややはやっぱり一姫二太郎かなぁ、ッあーでもおんなのこは父親に似るっていうしどうかなぁ。ていうかちゃんも隠れ熱血体質だし、アンタと殴り合いするような姫様が生まれたらちょっとなぁ・・・・・・」
 自分で言って、佐助は少しげんなりと言葉を濁した。
 ありうる。
 そしてこの御仁は、例え相手が幼子でも容赦はすまい。
「よう言うわ、例えやや子ができたとて、儂には指一本触れさせん気であろうが」
 口角を上げて信玄がそう言ったので、佐助はへらりと笑う。
「やだなぁ、そこまで親不孝者じゃないですよ旦那も、俺様も。顔くらい見せに来ますから、」
 だから、と続けて、佐助は眉を下げる。
「――それまでちゃんと、元気でいてくださいよ」
 信玄はのろりと眼を動かして、佐助のその表情を見上げた。
 ふん、と鼻から息を吐く。
「お主は儂が嫌いであろうが」
「そりゃ嫌いっすよ」
 即答して、佐助は頬を掻く。
「アンタだって俺様のこと、嫌いでしょうが」
 半眼で見下ろせば、信玄は喉の奥で笑ったようだった。
「・・・・・・懐かしいな。あやつがどこぞから拾ってきた子猿が、ずいぶんと立派な忍びになったものよ」
 あれもちょうど夏の終わりだったかと、信玄はつぶやく。
 その脳裏に、幼き日の幸村の、高い声が鮮明に響く。
 ――『猿飛佐助と、申しまする!それがしの従者として、迎え入れ申した!」
 まだ元服前の、弁丸と名乗っていた子どもの、まるで鬼の首でも取ってきたかのような誇らしげな、満面の笑み。
 その後ろで立ち尽くす、薄汚れた恰好(なり)の少年の、凍てつく無表情のなかで爛と光る、人ならざるモノの双眸。
「一言も発さなんだから言葉を知らぬ獣かと思ったが、次に会うたときにはすらすらとしゃべりおったから、白雲の躾はよう出来たものだと感心したわ」
「まぁ、爺様は実際厳しかったですよ。何遍死んだと思ったか」
 忍術の師であった老爺を思い出して、佐助は苦笑する。
「猿に人真似させたら、あの人の右に出る者はいないんじゃないですか」
「己の師を猿曳(さるひき)と称するか」
 その言葉に、佐助は答えなかった。
 ただ、にいと口角を上げただけだ。
「・・・・・・まあよいわ、猿でも狐でも、幸村の役に立つのなら」
「・・・・・・そうやってさ、アンタが旦那を愛してくれちゃってンのも、色んなものの原因だと思いますけどね」
 呆れたような声でそう言っても、信玄は穏やかな表情を崩さない。
「アンタがただの土豪に過ぎない真田の次男坊なんぞに執着したことが、そもそも今の武田の衰退を招いたんじゃないですか」
 その愛情を、少しでも自分の息子に向けてくれていれば。そうすればもう少しまともな後継ぎが育って、武田のお家も盤石なものとなっただろうに。
 そこまで考えてから、ひとつ瞬きをする。
「あァ違った。執着の対象は父上の方だっけ。アンタにとっちゃ、旦那だって『真田昌幸』の替わりでしかない、か」
「それを言えば幸村とて同じことよ。あやつは儂に、亡き父を重ねておるだけだ」
 信玄はそう言って静かに笑む。
 その顔を、佐助は仏頂面で見下ろす。
「・・・・・・本当に、さァ。アンタにしろ旦那にしろ、心の底からそういう風に思ってくれてたら、話はもっと簡単だったのに」
「そうであったならば何とする」
 信玄が幸村を、幸村が信玄を、ただ互いに亡き幸村の父・真田昌幸の替わりと見ていたのなら。
「――さっさとアンタを殺して、別の主家を探すか、・・・・・・旦那なら一国の主として独り立ちもできただろうさ」
「最後だと思って子猿がよく吠えよるわ」
 面白そうに笑う信玄を見下ろして、佐助は嫌そうに口を曲げる。
「旦那があんな面倒に育ったのは、どう考えてもアンタのせいだ」
「いや、アレは父譲りよ。拳の握り方までよう似ておる」
「だからそうなるようにアンタが育てたんでしょ」
「ふん、それならばあやつの内に秘める仄暗い狂気はおぬしの影響よな。あの鬼の深淵は、昌幸にはなかったものぞ」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
 ふたりは口を噤んで視線を合わせる。
 そして示し合わせたように、同時に噴き出した。
「ハ、あれこれ言ってみたところで、俺様もアンタも単に旦那のことが大好きなだけだ」
「罪作りなものよの」
 くつくつと喉の奥で笑って、信玄は佐助を見上げる。
「そうすると佐助よ、おぬしにはの存在は邪魔ではないのか」
 佐助が笑いを納めて、眉を持ち上げる。
「さてね、どんなに大好きでも流石に猿は人とは添えませんから?」
 吹けば飛びそうな薄っぺらい声色だ。
 信玄は口の端を上げる。
「最後くらい本音を吐いたらどうだ」
「えー?俺様わりといつも本音吐いてますけど。・・・・・・まあ、いいんじゃないですか、あの子は」
 佐助がそこで、信玄から視線を外す。
「あれはあれで、旦那には似合いですよ」
 その佐助の表情を見上げながら、信玄は目元を緩める。
「・・・・・・おぬしが、幸村以外の者に絆されるとはな」
「・・・・・・思い込みで話進めるのはやめてくれませんかね、そういうとこホント旦那に受け継がれててすごい嫌です」
 思いつく限りの嫌そうな顔でそう言ってから、佐助は姿勢を正す。
「――じゃ、そろそろ行きます」
「瀬戸内か」
 同じく笑みを消した信玄の声に、佐助は頷く。
「はい。大将を失ったばかりの豊臣が、早速毛利と海戦をするって言うんで」
 立ち上がって、ふと信玄を見下ろす。
 初めて会ってから、もう十年。
「結局俺様は、アンタから主人を取り戻せなかった」
「・・・・・・ふふ。まあそう言うな。こうして儂も、退こうとしておる」
 信玄が小さく笑う。
 佐助はそれを見下ろしてから、踵を返す。
「・・・・・・それでも、」
 その足元から、闇色が滲み出る。
「――アンタは猿には、視えなかった」
 闇色が佐助の全身を包んで、そして消えていく。
 気配もろとも霧散したのを感じ取って、信玄は息を吐く。
 その口元に、どこか満足げな、笑み。
「まったく手のかかる息子どもだ」
 なあ、昌幸よ。
 そなた、今の儂を見たら笑うか。



 細く長く、夕陽が室内を照らす。
 信玄はひとり、呟いた。
「・・・・・・よ、あの二人はそなたに任せるぞ」







  


201201109 シロ@シロソラ