「呼び名?」
 言われた言葉を、は鸚鵡返しに聞き返した。
 言った本人、佐助はにいと笑ってうなずく。
「そ、呼び名。旦那の家臣ってことはさ、俺ら真田忍びを使う側になるってことなんだから、その辺けじめはちゃんとつけないとね」
「・・・・・・つまり、猿飛殿、というような呼び方はよろしくないと、そういうことか」
 穏やかに晴れた躑躅ヶ崎館の濡縁で、は幸村と佐助と三人で腰を下ろして茶を飲んでいた。
 茶を淹れたのはやはり佐助で、は自分の茶との歴然たる差に内心またも闘志を燃やしていたところ、佐助が話を切り出したのだ。
「なるほど、お前の言うことも一理あるな」
 幸村も頷いたので、は眉根を寄せる。
「そうは言っても、わたしは貴方たちと比べるまでもなく新参だ、先達には敬意を表して然るべきだろう」
「だから俺らは忍びなんだってば。草に敬意なんか表さなくていいの」
「・・・・・・幸村殿も、貴方たちのことを草だなどと思っていないのだろう」
 そう言って幸村に視線を移すと、茶菓子の団子を頬張っていた彼はこくりと頷き、口の中の物を飲み込んでしまってから口を開く。
「うむ、佐助も他の者たちも、某にとっては親兄弟も同然にござる」
「・・・・・・いやもう旦那はそれでいいけどさ、」
 なぜか渋面で佐助が頬を掻いている。
「でもさ、武田の、他のご家老衆にも示しがつかないでしょ、サンが俺らを敬称付きで呼んでたらさ」
 平時であれば、が信玄の家臣たちと顔を合わせることはそうないのだが、戦場においては、なるほどそういうこともあるのかもしれない。
 場合によっては、幸村の、真田家の沽券に関わることとなろう。
「・・・・・・、では貴方のことは何と呼んだらいいのか」
「何って、普通に敬称抜きで呼び捨てにしてくれれば」
 はしばし考え、
「――猿飛」
 佐助が一瞬固まった。
「――、いや、そうだけどそうじゃなくて、うわあ今俺様サンとの間にすっごい溝を感じた」
「何を言う、貴方とわたしは信頼しあった仲だろう」
「ッ、だから言葉を選んでってば」
 こちらの意図が心底わからないのだろう、小首をかしげるの隣、助けを乞うように幸村を見てみても、彼は何やら満足げな笑みを浮かべてこちらを見るばかりだ。
 ここで嫉妬のひとつもしてくれれば話は早いと言うのに、この主はそんなことは毛ほども思っていないのだ。
 信を置く部下と、大切な御仁の間に信頼関係が生まれたことを心から喜んでいるのだろう。
 佐助は内心溜息を吐いて、に言う。
「だからね、下の名前。佐助って呼んでくれたらそれでいいから」
「・・・・・・、佐助」
 うわ。
 何その顔。
 もしかして照れてんの!?
 何これ、このかわいい生き物は。
 ――じゃなくて。
 思わず緩みそうになった顔の筋肉に力を入れる。
 この顔はさすがに幸村には見せられない、この主は人の感情の変化の機微にどこか聡いところがある。
 そう考えていると、はすぐにその表情を消して、
「――しかし、そうならば、」
 幸村に視線を動かした。
「貴方に対する呼び方も、変えねばならんな」
「某、でござるか?」
「わたしは貴方の家臣となるのだから、『幸村殿』と呼んでいてはそれこそ武田の家老衆方に示しがつかぬのだろう」
「むう」
 の言葉に、幸村が唸る。
「何と呼べばよいか、・・・・・・ここはやはり、『幸村様』か?」
 佐助の眼には、幸村の表情が、少なからず沈んだのが見える。
 さもありなん、幸村としてはせっかく近づいたとの距離が遠く離れるように感じたのだろう。
「いや、『真田様』か」
「ちょ、サンそれ追い打ち」
「?」
 首を傾げるの向こう、幸村の表情が暗くなっているのがわかる。
「・・・・・・、その、某としては、もう少しくだけた呼び名の方が、呼ばれ慣れてもおるのだが」
 やっとのことでそう絞り出すように言った幸村をはしばらく見つめ、そして佐助に視線を動かす。
 やけにまっすぐとしたその視線に、佐助はひく、と眉を動かす。
「・・・・・・何かな」
「貴方はいつも、『旦那』と呼んでいるな」
「うん、そうだね」
 は佐助から視線を外し、しばし思案する。
 その様子は、どこまでも、至極真面目だ。
 やがて意を決したように、幸村に向き直った。

「――『旦那様』」

 幸村が、口を付けていた茶を、盛大に噴いた。
「だ、大丈夫か、」
 激しく咳き込んだ幸村の背を、慌てふためいたがさする。
 その様子を佐助は笑いをかみしめながら見守る。
 何をどう考えたのかは容易に想像がつく。
 幸村がくだけた呼び名がいいと言ったから、ふだんくだけた様子で接している佐助を参考にしようとしたのだ。
 しかしながら流石に呼び捨てることには抵抗を感じて、「様」を付けようと思ったのだろう。
 ――それが奇しくも、世の奥方が自分の夫に使う呼称と同じであることは、露ほどにも意識していないに違いない。
「イイじゃん、旦那様。俺様もそう呼ぼっかなァ」
「げほ、ッ、佐助ェ!その減らず口を閉じぬなら減給いたすぞ!」
「え、ちょ、それは勘弁してよー」
 漸く咳が収まった幸村は、息を整えて、を見る。
「すまぬ、茶に噎せてしまって」
「大事ないか、」
 眉を下げるを安心させるように、幸村は微笑む。
「ああ。――その、呼び名だが、やはり某のことはこれまでどおりとしていただけぬか」
「・・・・・・幸村殿、でよろしいのか」
「うむ、そう呼ばれるほうがこう、しっくりくるゆえ」
「そうか、・・・・・・よかった」
 そう言って、は目元を緩める。
「無礼ではあろうが、貴方を様付けで呼ぶのは、貴方が遠く感じられるて、少し残念だったのだ」
 それは、ささやかな、笑顔だ。
「・・・・・・ッ」
 己に向けられたそれに、幸村は言葉を失って、その顔を朱に染める。
「幸村殿?いかがなされた」
「いッ、いや、なんでもござらぬ、」
「そうか?お顔が赤いようだが風邪でも」
「だだだ大丈夫でござる!」
 その二人のやり取りを聞きながら、佐助はどこからか取り出した手拭いで、先ほど幸村が噴きこぼした茶を拭いている。
 その口元に、穏やかな笑みが宿っていることに気づいたのは、木の影からその様子を窺っていた佐助の部下たちで、長のあんな顔見たことないとか色めきだっていたものの、それを指摘などした日には比喩でもなんでもなく本当に殺されそうなので、黙っていることにしようと暗黙の裡に頷き合っていたのだった。



(その名の響きを、いとおしいと思えるのは、もうすこし先のこと)



  


20120730 シロ@シロソラ