「ワシが大人になったら結婚してくれ!」
 もう十年も前の話だ。
 アルバイト先の塾の生徒から、真面目くさった顔でそう言われたのは。
 正直なところ、その唐突にして突拍子もないプロポーズに、何と答えたのかすら覚えていない。
 中学一年生の男の子の、大人になればどうせ忘れるだろう、初恋にも届かない何かなのだと、思ったから。
 だから、結局そのすぐ後、単にもっと時給のいい所を見つけたという理由でその塾を辞めて以来、はそのことをすっかり忘れていたのだ。
 今年の四月一日、上司に呼び出されて「面倒を見るように」と紹介された、入社式を終えたばかりのぴかぴかの新入社員が、まるでお日様みたいな笑顔で、こう言った、あのときまでは。
「やっと会えたな、!さあ、ワシと結婚しよう!」

 エイプリルフールだと、思いたかった。




 このあたりでは、十二月にしては珍しく、窓の外では雪がちらついている。今朝の天気予報のお姉さんは爆弾低気圧なんて言葉を使っていたと、は結露の付いた窓の向こうを眺めながら思い出していた。
「なるほどねェ、噂には聞いてたけどなかなか面白いじゃないの、ソレ」
「アンタが言うと本当に薄っぺらいわね、なんか腹立つ」
「えーだって他人事だもーん」
 悪びれもせずにそう言いながらタバコの煙を吐き出した同期の猿飛佐助を、は睨む。
 社内の喫煙ルーム、時刻は午前九時半、さすがにこの時間なら誰もいないだろうとわざわざ一つ下の階に降りてまでやって来たのに(このビルには偶数フロアにしか喫煙ルームがないのだ)、先客がいたものだからは眉をひそめたが、眠そうにぼんやりと紫煙を燻らせていたのが話し相手としてはそれなりに悪くない佐助だったので、Uターンせずにタバコを吸うことにしたのだ。
「で、サン的にはどうなの、それ?徳川クンだっけ?俺様はあんまりよく知らないけど、見た感じ割とかっこいいんじゃないの?」
 しかし、にやにやと笑いながらそんなことを聞かれるくらいなら、Uターンした方が正解だったのかもしれないと、は思い始めていた。
 無意識に噛んでしまって、メンソールに歯形ができたのを見下ろしながら言う。
「かっこいいかどうかじゃないでしょうが、相手は新人くんよ?」
「十二月にもなって新人も何もない気がするけど、それに愛があれば歳の差なんて何とやらだろ?」
「ちょっと慶次みたいなこと言わないでよ」
 煙の混じった溜息を吐いて、は佐助をじとりと見つめた。
「じゃあアンタだったらアリなわけ?十年も前、当時まだこんなちっさかった男の子によ、前触れもなく結婚してくれとか言われてさ、その子が今また目の前に現れてまたもいきなりプロポーズしてきたら。普通からかわれてるって思うでしょ?」
「んー、可愛い子だったらアリかな」
「・・・・・・アンタに聞いたのが間違ってたわ」
 げっそりと嫌そうにそう言って、はタバコを咥えた。メンソール独特の清涼感が口に広がって、それで少し落ち着きを取り戻す。
「ま、そういうわけで。同じ課だし、うちは他に若手がいないから私が面倒見ざるをえなかっただけで、噂になってるような付き合ってるとか、そういうことはまっったくないから」
「ふーん」
 聞いてきたのは自分のはずなのに、いかにも興味なさそうな顔で、佐助は器用に輪の形の煙を吐き出した。
 ――サン、若い男を食っちゃってるんだって?
 同じ聞くにしても他に言い方があるだろうと、は思った。同期の間でも一、二を争う愛想のよさを誇るこの男は、その実他人にさしたる興味がなく、結果気を許した相手にほどあけっぴろげな言葉を使う。六年近くも同期をやっていれば、いいかげんもいちいち真剣に腹を立てたりはしない。
 佐助の言ったそれは、今年度になってからというもの、終始に付きまとってきた噂だった。
 曰く、は新入社員に早々に手を出した。
 全く迷惑極まりない噂である。
 それもこれも、当の「新入社員」、その名も徳川家康という彼が、何かと目立つのがいけない。
 配属初日に衆目の前でプロポーズをやってのける神経の図太さもさることながら、容姿端麗品行方正、立ち居振る舞いのひとつをとってもおよそ非の打ちどころなどなく、社内にも隠れたファンは多い。彼女らが「隠れた」ファンなのは、初日の一件がこの本社ビルの若手の間では周知の事実であるからで、そのファンからどういうつもりなのかと問いただされたことも一度や二度ではなく、そもそも身に覚えのなさすぎるとしてはそれこそどういうつもりなのかと逆に問いたかった。
 つまるところ、は被害者なのだ。少なくともはそう、思っている。
 さすがに人のうわさも七十五日をゆうに越えた師走も中旬を過ぎれば、表立って噂するような輩は消えたのだが(皆それほど暇ではないはずだ)、そんな折に久々に顔を合わせた同期からどストレートに核心を問われて、これが被害でなくて何なのだと、は思うのだ。
「でもさ、別に嫌いってわけじゃないんだろ?」
 二本目(あくまでが一緒に吸い始めてからの二本目だ)のタバコに百円ライターで火を点けながら、佐助がこちらを流し見た。
 は灰皿に灰を落としながら、眉を跳ね上げる。
「は?」
「だってサン、嫌いだったり苦手だったりする人間には極力関わらないでしょ、でも徳川クンの面倒はちゃんと見てあげてるみたいじゃない」
「そんなのうちの課の後輩なんだから当たり前でしょ」
 当前のようにがそう答えると、佐助はタバコを咥えた口の端に薄い笑いを張り付けた。
サンのそういうマジメなとこ、俺様けっこう好きよ」
「あらそうどうもアリガトウ」
 の棒読みの返事に、佐助がへらりと笑って煙を吐き出す。
 ちょうどその煙がの方に流れてきて、は鼻の頭に皺を寄せた。
「・・・・・・ていうか、さっきから何吸ってンのそれ?においすっごいんだけど」
 は正直なところ、喫煙ルームでタバコを吸うのは嫌なのだ。何をどうしても、タバコのにおいが身体じゅうに染みつくから。
 もちろん愛煙者の端くれとして、タバコそのもののにおいが嫌いなわけではない。香ばしかったり甘かったり、そのにおいが鼻の奥いっぱいに広がるとなんだか安心する。
 ところが、そのにおいが髪や服に付くと、途端に臭くなるのだ。同じにおいなのに不思議だと思う。とはいえ年々喫煙者の肩身が狭くなるこのご時世、外に出たところで堂々と喫煙できるような場所などなく、そもそも雪がちらつくような極寒の野外でタバコを吸おうという気にはなれず、仕方なしに喫煙ルームでタバコを吸っては、消臭スプレーを頭からかぶって仕事に戻るのだ。
 そんな、の努力が空しくなるほど、佐助が吐き出す煙のにおいが、ひどい。
 「好き嫌いの分かれる香り」とは、しばしばタバコに使われる表現だが、モノには限度がある。つまるところ、の好きなにおいではなかった。
 問われた佐助はきょとりと目を丸くしてから、スーツのポケットを漁り始めた。
「っとー、なんだっけ」
 覚えてないのかよ、と心の中で突っ込んだの視線の先、佐助は口の端にタバコを咥えたまま、取り出したブルーの箱を目線の高さに持ち上げて、眼を細める。
「んー、ゴロワーズ?」
 一般的にコンビニで手に入る銘柄ではない。はじとりと半眼で佐助を見つめた。
「アンタ銘柄こだわらないんじゃなかったっけ?」
「うん吸えればなんでもいいよ?これはこないだ鬼の旦那がくれてさァ、なかなかがっつりしてていいよー、これで女の名前がついてるなんて、フランスの女はカッコイイねェ、サンみたい」
「カッコイイ言うな」
「あはー、ごめんごめん、おんなのこはかわいいって言われる方が嬉しいんだよね?かーわいいよ、ちゃーん」
 軽薄としか言いようのない声色で茶化すように言う佐助をは思い切り睨むが、そんなものは暖簾に腕押しである。
「なんならサンもどう?一本いかが?」
 不機嫌を隠さないに、へらりと笑った佐助が、箱の底を指先でトンと叩いて器用に一本抜き出して見せたが、は首を横に振った。
「いらない」
「そう?にしても、サンはしばらく見ない間にずいぶん軽いの吸ってンだね、前赤マル吸ってなかったっけ。そんなんじゃ吸った気にならなくない?」
 佐助の指摘の通り、その昔、も佐助の言うところの「がっつり」したタバコが好きだった。しかし今右手の指に挟んでいるのは、見た目も華奢な1ミリのメンソールである。
「慣れればこれでもやってけるわよ」
 吸いながら答えると、佐助が小首をかしげた。
「ふーん?サンタバコやめたいの?」
 は眉根を寄せて、ふうと煙を吐いた。
「そうね、そろそろやめどきかな、とは思ってる」
「へぇ、なんで?」
「健康に悪いし。そろそろ若くもないしねー」
「ケンコー、ねぇ」
 佐助がにいと口角を上げてそう言うのを見て、これは信じてないなとは悟る。
 健康に悪いから。タバコをやめるのに、これほどまっとうな理由は他に無い。喫煙が呼吸器系に悪影響を及ぼすなんてことは今時高校生でも知っている知識だろう。
 テーブルに肘をついて、佐助がこちらを見上げた。
「どっちかって言うと、徳川クンなんじゃないの、理由は」
「はァ?」
 佐助の言葉に、は口元を不機嫌に曲げる。
「何がどうしてそうなるわけ?」
「さてねー、強いて言うなら、俺様の勘?」
「何ソレひとつも信用ならないじゃない」
 わぁヒドーイ、とまるで女子高生みたいなうっとおしい口調で肩をすくめる佐助を睨みながら、は煙混じりの息を吐く。
「ほら、噂をすれば」
 人差し指と中指でタバコを挟んだその手で、佐助がの背後を指すのと同時、喫煙ルームの透明アクリル樹脂の壁をこんこんと叩く音が聞こえた。
 は振り返り、
「ッ、」
 落としそうになったタバコを慌てて持ち直す。
 の視線の先、手を振りながら笑うのは、件の徳川家康そのひとだ。
「わざわざ別フロアまで迎えに来るなんて、ホントに付き合ってないの?」
「だから言ったでしょ、からかわれてるだけなんだから」
「ふーん?」
 そう言ってタバコを咥える佐助の表情はどう見ても納得しているとは思えなかったが、これ以上の説明は面倒だし時間もない。は灰皿にタバコを押し付けて火を消す。
「じゃあね、あ、猿飛、年明け実施のテストデータ、今日上がるって言ってなかった?」
 振り返りざまに言うと、佐助が煙に噎せた。
「うげ、だって俺様今日二徹明け・・・・・・」
「検証今週中だっつってたじゃない、今日の六時までには上げて頂戴、じゃないとこっちも無理よ」
「ハイハーイ、がんばりますよ、っと」
 やる気のなさそうな間延びした声だったが、は納得したらしくそのまま喫煙ルームを出ていく。迎えに来た後輩と二、三言会話して、歩いて行くのを佐助はぼんやりと見送った。
 その佐助に、「後輩」が一度振り返る。
 学生時代は柔道か空手でもやっていたのか、しっかりと筋肉のついた体格の良い男で、それがわかるほどスーツは彼の身体にぴたりと合っている。ということは、若者らしいダークグレーのスーツはオーダーで作ったものなのだろう。さっぱりとした短髪、溌剌とした表情、その出で立ちには確かに非の打ちどころが無い。
 にこりと笑ったその男が、こちらに折り目正しい礼をしたので、佐助はタバコを挟んだ右手をひらひらと振る。
「・・・・・・あれが、ねェ」
 の後を追って歩いて行く後ろ姿を見つめながら、佐助はが言うところの「ひどいにおい」の煙を燻らせた。




「今日はまた一段とすごいにおいだな」
 家康がそう言うのを、そちらを見もせずには答えた。
「うんごめん、ちょっと我慢してくれる、あとでもっかい消してくる」
 あの後化粧室に寄って消臭スプレーを頭からかぶったが、ゴロワーズのにおいはしつこかった。コノヤロウ猿飛今度会ったらしばく、そう思いながらはいらいらとキーボードを叩く。企画書はほぼできあがってはいるが、部長の承認はそう簡単には下りない、今回は何回打ち直しで済むだろうかと頭の隅で考えた。
 週の半ばではあるが、商品開発を主な業務とするこのフロアは基本的に騒がしい。血の気の多い輩が多いせいなのか、ほとんど怒鳴り合いみたいな会話もしばしば聞こえてくるが、ほたるはもう慣れっこだった。開発に配属されると声も態度もでかくなるとは社内でまことしやかに囁かれる周知の事実だ。
「しかし、何度も言うが、タバコはもうやめたらどうだ」
「何度も言うけど徳川、先輩を呼び捨てすんな」
 たん、とエンターキーを叩き込んでから、じろりと隣の席を睨む。
 こちらは延々と続く資料の数字をエクセル表に打ち込んでいる家康が、朗らかに笑った。
「そうだったな、すまない殿。だが、ワシはあなたの健康が心配なのだ」
「本当にアンタ五月蠅いわね、私が肺がんになろうが早死にしようがアンタには関係ないでしょ」
「そんなことはないぞ!なぜならワシはあなたと、」
「――ああ、そこ。手打ちするくらいなら関数使いな」
 家康の言葉を遮って、は彼のパソコンの画面を覗き込む。有無を言わさずキーボードに割り込んで、ショートカットキーといくつかのキーを叩くと、ずらりと画面に数字が並んだ。
「ああ、なるほど」
 感心したように頷いて、家康は脇に置いていたメモ帳に今が叩いたキーをメモした。けっこうなスピードで打ったのに、すべて正確に読み取っているのを、もそのメモ帳にちらりと視線を向けて確認する。モンブランのスターウォーカーがすらすらと綴る文字は、走り書きなのに綺麗で読みやすい。
 そう、この男は、小憎らしいほどに優秀なのだ。
 呼称をはじめとするに対する態度以外のすべてについては、一度教えたことは忘れない。それも、単純に一度聞いたらすぐ覚えるような天才なのではなく、今のようにきちんとメモをとって一つ一つを理解していくのだ。さらに、こちらが一言えば十を理解して、それを十二にして返す応用力も併せ持つし、かといってその能力に胡坐をかくことはなく、若手ビジネスマンの基本のキである「報告・連絡・相談」を怠ったこともない。
 四月から約九か月足らず、最も傍で面倒を見てきたは、それをよく理解し、評価している。今はも先輩風を吹かせて色々と教えてはいるが、そのうちなど飛び越えてどんどん昇進していくことだろう。開発は比較的閉鎖的な部門なので、もっと他の部署で視野を広げるといいと思うし、その後開発に戻って来てくれればきっと欠かせない戦力になると、は十月の中間報告で上司に報告した。
 だからこそ、ありえないと、理解できないと、思うのだ。
 彼のような男が、何故自分に、構うのか。
「さすがはだ、これなら断然速いな」
「・・・・・・だから、私一応アンタの先輩なんだけど。ちょっとは敬意を表しようよ」
 言ったそばからの呼び捨て(しかも下の名前)に、は呆れたような息を吐いた。
 もちろん、家康にそれを気にするような気配はない。
「もちろんいつだってワシはを尊敬しているぞ!の仕事運びは速くて正確でいつも清々しい、に仕事を教えてもらえるワシはとても幸運だ」
「・・・・・・」
 真っ直ぐと見つめられてそんなことを言われたら、には返す言葉がない。
 優秀なのに、何を考えているのかわからない。はそれを、世代が違うからという一言で納得している。きっとあれだ、ゆとり世代とかそういう。ゆとり世代の定義はさておいても、とにかく自分たちとは異なる考え方をする人間なのだとカテゴライズして、自分の中で結論付けているのだ。
 それ以上取りあわずに、自分のパソコンに視線を戻す。どこまで書いたっけ、考えながら無意識に左手の指が口元に伸びる。
「・・・・・・そう、タバコだが、
 せっかく話題を逸らしたのに、わざわざ家康がその話題を戻してきたので、は内心舌打ちした。頭の作りからしてどこか優秀にできているのであろうこの男に対して、誤魔化しや言い逃れは基本的に意味をなさない。
「前々から思っていたのだが、のそれはニコチンに対する中毒というより、考え事をしているときやストレスが溜まったときなどに口寂しくなる癖ではないのか?」
 家康の言葉に、は動きを止めた。
 確かに今、右手はマウスを操作しながら、左手の人差し指の爪を噛んでいる。も自覚している悪癖で、お世辞にも行儀が良いとは言えないし、爪も割れるから気を付けようとは思っているのだが、無意識なのでなかなかやめられないものだった。
 決まり悪く、は左手を降ろして、両手でキーボードを打ち始める。
「だったら、何」
 先ほどまでよりキーボードを叩く指先が乱暴だ。家康が、眉を下げて苦笑する。

「だから何って聞いて、――ッ」
 打ちかけの企画書から家康の方に顔を向けた瞬間、薄く開いた口に何かが突っ込まれた。
「ひょっ、」
 変な声が出た。
 慌てて口からそれを引き抜く。途端、舌先に感じる、べたりと甘い味。
「何すんのよ!」
 棒のついたキャンディだった。平たい楕円の、子供向けの。
 オレンジ色の、そのキャンディ越しに、家康がにこりと笑う。
「口寂しいならそういうものを食べていた方が、タバコよりずっといい」
「・・・・・・」
 言葉を見失ったは、とりあえずキャンディを口に突っ込んで、企画書に向き直った。




 結局、企画書は三度目の打ち直しを食らった。
 その日、外食する時間を惜しんで、昼食を自席で済ませたは、黙々とパソコンの画面を睨んでいた。
「よぉ、景気悪そうなツラしてンじゃねぇか!」
 ばん、といささか乱暴に肩を叩かれた拍子に手が滑って、企画書に変なアルファベットの羅列が並んだ。
「痛ッ、相変わらず馬鹿力ね長曾我部」
 じろりと見上げると、「声と態度がでかい」開発の典型である同期、長曾我部元親がにいと笑って立っている。
 ちなみに、元親のその性格は、開発で培われたものではなく生来のものだ。まさに適材適所、我が社の人事は優秀だとは冷めた心で思う。
「・・・・・・って、お前なに咥えてンだよ」
 の口から突き出た白い棒に、元親がひょいと眉を持ち上げる。
 アルファベットの羅列を消してから、は舐めかけのキャンディを口から出した。
 ピンクと白のマーブル柄の球形を見て、元親は驚いたように眼を丸くする。
「また可愛らしいモン食ってんなぁ、つうか、お前飴なんか好きだったか?」
「まあ、慣れれば」
 短く答えて、再びキャンディを口に放り込む。がりがりと歯をたてるが、球形のそれはちょっとやそっとでは割れない。初めのうちは平たいキャンディを舐めていたのだが、すぐに噛み砕いてしまうので、大きめのものを舐めはじめたのだ。ストロベリークリームの甘ったるい味が、口いっぱいに広がっている。
 デスクでの、特に勤務中の飲食については、部門によって規制が異なる。恐らくは各部門の部長の性格によるものだろう。開発ではかなり自由が許されていて、ガムを噛みながら仕事をする人間もいるくらいだ。
「はあ、甘いモンなんてそう美味いとは思わねェけどなァ」
 収まり悪く髪の伸びた頭を掻いてから、元親がシャツの胸ポケットからタバコの箱を覗かせた。
「久々にどうよ?」
 はそれを見上げて、口の中でキャンディを転がす。からん、と口の中で音がした。
「あー・・・・・・、やめとく、悪いけど。持ってないし、今、タバコ」
「あぁ?珍しいな、俺のやろうか?」
 元親のシャツのポケットから覗くブルーの箱に見覚えがあった。
「・・・・・・いらない、ていうか、それにおいひどいよ」
 半眼でが言うと、元親は大きな声で笑う。
「はッは!まぁそう言うな、黒タバコったらコレだろうがよ」
「アンタは好きそうよね、そういうの。私はもう強いのは無理だわ」
「なんだ、もしかして禁煙してンのかよ?」
「まあ、ね」
 がキャンディを口から出して頷くと、元親は神妙な顔つきで言った。
「そうかい、そりゃあ悪いこと言ったな。それで飴なんか舐めてンのか、・・・・・・つうか、それ、棒つきの意味ってあんのか?」
「意味?」
 は首を傾げる。
 が舐めているキャンディは、全て家康が買ってくるものだ。タバコをやめようかと考えて以来、自分でも買ってはいたのだが、仕事中に口寂しくなると絶妙なタイミングで家康がキャンディをくれるので、何とはなしにそれを舐めていた。平たいキャンディではすぐ噛み砕いてしまうことを一日で見抜いた家康が、翌日から買ってくるようになったのがこの球形のものだ。どちらにしろ、いつもスティックが生えている。
 言われてみれば確かに、世に出回るキャンディーの多くはスティックの無いものだ。としては、スティックがあった方がタバコの形状に近い気がしていたのだが、別にスティックなしの物でも問題はない。
 ふと、昼休み中で不在の家康のデスクを見てから、はキャンディを舐める。
「さあ・・・・・・、特に意味は、」
「ないんなら、棒付きはやめとけ?なんつうか、」
 元親がその場で屈んでの耳元に顔を寄せた。
「なんつうか、エロい、それ」
「・・・・・・ッ!!??」
 がばりとが元親の顔を見る。
 元親が、声の調子を落として言う。
「せめて、口に入れたらもう出さないで食っちまえ、出したり入れたりしてんのがよくねぇわ」
 な?と元親に言われ、顔を真っ赤にしたはキャンディを口に放り込んだ。噛み砕いてしまおうと、まだ大きさの残るそれをがりがりと歯で削る。
 上体を戻してを見下ろした元親が苦笑したその時、ふたりの背後から家康の声が聞こえてきた。
「ああ、元親じゃないか!」
「ぃよぅ家康、元気か」
 肩を揺らして、元親が振り返る。休憩帰りの家康の手にはコンビニのビニール袋が下げられていた。
「ワシは元気だ、元親も元気そうだな?」
 元親はの同期であり、つまり家康からは先輩にあたるのだが、この元親に対しても家康は敬語を使わない。元親もそれを許している様子で、ふたりは友人のように仲がいいのを、も知っている。
「っと、すまない、話し中だったか?」
 と元親を見比べて、家康が眉を下げると、元親はかかと笑った。
「なァに、をタバコに誘ったらよう、禁煙中だって断られたとこだ」
「ああ、そうなんだ、替わりに飴をとワシが勧めたんだが順調で何よりだ」
 そう言って、家康はコンビニ袋を持ち上げてみせた。
 半透明の袋の中身が、透けて見える。
 結構な量の、スティック付きのキャンディが。
「・・・・・・」
 元親が笑みを浮かべた表情を固めたまま、キャンディと家康の顔との顔を順に見る。
 仏頂面でパソコンの画面を睨みつけながら、高速でキーボードを叩き続けているの口から、キャンディの割れるがりごりという音が漏れた。

 それ以降、は家康から、頑としてキャンディを受け取らなくなった。




 爆弾低気圧は過ぎ去ったのか、珍しく積もった雪ももうほとんど解けたが、深夜に近い時間ともなれば、身を切るような寒さで露出した耳が痛いと感じた。
、何を怒っているんだ?」
 背後から付いてくる家康の声を無視して、は足を速める。
 その日、企画書が漸く通って年内の仕事の山場は越えたのだが、事後処理に時間を取られて、結局こんな遅い時間まで仕事を続けてしまった。
 会社から地下鉄の駅まで、ビジネス街ではあるが時間が遅くて人通りのない道を、は大股で歩いている。
、」
 のイライラは頂点に達していた。
 元親の指摘を受けて以来、はキャンディを舐めるのをやめた。新たに買ってはいないからタバコは手元になく、爪を噛む癖もなんとか押しとどめているが、その分口寂しさはストレスに変換されている。
 後ろから追ってくる家康が、目障りだった。
 先に帰れと言ったのに、の仕事を手伝ってこんな時間まで残業して、どこへ帰るにしろ地下鉄に乗る必要があるから最寄駅までの帰り道は同じで、つまるところその家康と一緒に歩かなければならないことが、厭だった。
 いったい、この男は、どういうつもりなのだ。
 その考えだけが、頭の中をぐるぐるとめぐっている。
!」
「五月蠅いッ、――!?」
 ぐいと右腕を引かれて、バランスを崩して後ろに倒れ込みそうになるのを、家康の身体に支えられた。驚きに眼を見開いたの鼻先を掠めるように、けたたましいクラクションを響かせて、一台の車が走り去る。
 歩道の信号は青だった、つまり今の車が信号無視をしていたのだ。
「ふう、危なかったな。怪我はないか?」
「ッ、ありがと、離して」
 抱き留められているような恰好であると気付いて、は家康の方を見ずに身を離す。
 しかし、家康は掴んだ腕を離さない。
「ちょっと、」
。何をそんなに、怒っているんだ?」
 腕を振りほどこうとして家康を見上げたの視線と、そのの双眸を真っ直ぐと見つめる家康の視線が、正面からぶつかった。
「別に、怒ってなんかないわ」
 右腕が、びくとも動かない。
「それは、嘘だな」
 家康の声色は、穏やかだ。
 そう、この男はいつも、その年恰好に似合わない落ち着いた声で話す。
 耳に心地いいその声が、今のには途方もなく煩わしい。
「何か、ワシに至らないところがあるなら言ってほしい。そうやって黙って怒っているのは、身体にも良くないぞ」
「・・・・・・うるっさいわね・・・・・・!」
 の口から、唸るような声が漏れた。
 何だというのだ。
 この男が。
 何を考えているのか。
 わけが、わからない。
「ひとをからかうのも、いい加減にしなさいよ・・・・・・!」
 感情を紡ぐ糸が、一本残らず絡まっていく気がする。
「からかう?ワシが、を?」
「そうじゃなかったら何だっていうのよ!」
 ああだめだ。
 爆発する。
 でも、止められない。
「いきなり現れてプロポーズまがいなことして、私がどれだけ迷惑蒙ったと思ってンの!?年上のくせに子供じみてるからって、からかうのもいい加減にしてよ!大人しくタバコやめて飴舐めてるのを、笑って見てたんでしょう!」
 できうる限りの力を籠めて、は家康の双眸を睨んだ。
 ・・・・・・実のところ、は、家康に弁明してほしかったのかもしれなかった。
 どうしても、自分で認めたくはなかったから。
 自分が、家康に、――何かを、期待していることを。
 頭の隅を掠めたその考えを振り払って、は家康を睨みつける。
 さあ、何か言って。
 この、絡まった感情を、解いてみせてよ!
 深夜とはいえビジネス街を照らす淡い光の中、こちらの剣幕に圧されたようだった家康がふわりと笑うのを、は見た。
「・・・・・・ああ、ワシは笑った」
「――ッ、」
 その瞬間、の心に、ひどい落胆が、降ってきた。
 思ったとおりだった、やはりこの男は自分をからかっていたのだ。
 わかっていたことだったのに、どうして。
 ――どうして、心臓が、こんなにも、痛むのだろう。
 瞬きすら止めたを見下ろして、家康は口を開く。
「やはりタバコは身体に悪いからな、がやめてくれたことは本当に嬉しく思って、ワシは笑った。それに、無心に飴を舐めるはとても可愛らしかったからな」
 何を言われたのか、言語としての意味は理解できても、頭の理解が追いつかなかった。
「・・・・・・は・・・・・・?」
 ぱちりと瞬きをして、は我に返る。
 何を、言っているのだ。この男は。
 うろうろと視線を動かして、無意識に左手が、口元に伸びる。
 そのの左手を、家康が掴んだ。
「!」
 右腕も掴まれているので、両手の自由がきかないを、家康は引き寄せる。
「ちょ、」
 驚いたの、唇に。
 家康は、己の唇を、重ねた。
「――〜〜〜〜〜ッ!!」
 がもがく、しかし両手を掴んだ家康の腕は少しも動かない。
「ん、ッふ、――む・・・・・・ッ」
 ゆっくりと、家康が唇を離す。
 息を止めていたは、解放されて肩で息をする。
 今。
 何が起こった。
 頭も心も真っ白で、思考が空転する。
 家康が、を、笑みを宿した眼で、見つめた。
「飴が嫌なら、。口寂しくなったらワシの口を使うというのはどうだろう」
「は・・・・・・?」
 言われたことを、頭の中で咀嚼して、
「・・・・・・ッ」
 頬が熱くなるのが、自分でもわかった。
「ば、ッかじゃないの!?なんなのもう、わけわかんない・・・・・・ッ」
「ああ、今は、わからなくてもいいんだ」
 家康が、微笑む。
が納得いくまで、いつまでだって、何度だって、ワシは語ろう」
 先ほどのキスで、絡まった糸ごと吹き飛んだ心の中は、ただ空白だ。
「ワシは、、あなたが、すきなんだ」
 その、空白に、耳に心地いい、家康の声が、落ちてくる。
「初めて会ったのは、もう十年も前か?あのとき、ワシに向けてくれた笑顔を、今もワシは忘れていない。あのころからずっと、これからもずっと、すきだ」
「・・・・・・、」
 が、茫然とした眼で家康を見上げて、言葉を探すように何度か口を動かす。
「・・・・・・な、だって、徳川、アンタ私のことなんかほとんど知らないじゃない・・・・・・!確かに十年前に会ったけど、そこからこれまで、ひとつも顔なんか合わせなかったし、」
の言うとおりだ、これからまだまだあなたのことを知りたいと、ワシは思っている。それに、はほとんど知らないと言うが、ワシはワシなりに、あなたのことを理解しているつもりだ」
 不安気に揺れる、の瞳を、家康は真っ直ぐと、見つめる。
「人一倍頑張り屋なこと、ワシのような後輩や弱い立場の者を守ろうとすること、誰に対しても物怖じせずに自分の筋を貫けること、口ではいろいろと手厳しいことを言うけれど、本当は誰よりも優しいこと」
「・・・・・・ッ、」
「それに、笑顔がとても、素敵だということ」
「も、もういいわよ!わかったから!」
 放っておくと延々と続きそうだったので、はそこで遮った。
 褒められることには、慣れていない。
 なんだかとてつもなく、恥ずかしいような、くすぐったいような、そんな気分になる。
「もういいのか?他にもまだたくさんあるぞ?」
「いいっつってんでしょ!だいたいアンタ、そういうことはもっと早く、っていうか最初に言いなさいよ・・・・・・!」
「最初、とは言っても、あの頃はまだ中学生でこのこころの正体などわからなかったからなぁ」
「今年の話よ!四月一日!」
 もういや、なんなのこいつ、は頭を抱えたかったが、いかんせん両手は家康によって封じられたままだ。
「・・・・・・そういえば。言っていなかったのか」
「言ってないわよ!アンタときたら最初っから『結婚してくれ』だったじゃないの!」
「もちろんその言葉に嘘はないぞ?」
「そんなのわかってるわよ!!」
 怒鳴るように言ってしまってから、は我に返って、視線を逸らした。
「っと、その、」
 何これ、格好悪い。
 家康はあくまで穏やかな調子を崩さないというのに、これではまるで自分の方が子どもみたいだ。
 家康が、漸く、の両手を離した。
 その右手を持ち上げて、そうっとの頭を撫でる。
「いいんだ、の納得のいくまで、ワシは待つから」
 はむすりと、家康を見上げた。
 納得のいくまで、つまりが「納得する」ことが前提だ。
 何故そこまで自信に満ち溢れているのか、にはさっぱり、理解できない。
 ――理解しようと、しなくても、いいようだ。
 これからたくさん、話をして、そのうちわかるときがくるかもしれない。
 それでいいのだと思えば、不思議とのこころが、凪いだ。
「さあ、絆を結ぼう、
「・・・・・・しょうがないわね」
 家康の言葉に、はそう言って、小さく口の端を上げた。




「・・・・・・つまりよぅ、時間の問題だと、俺は思うわけよ」
 年末だというのに代わり映えのない喫煙ルームで、煙を吐き出しながら、元親はそう言って、の禁煙と家康に関する一連の話を締めくくった。
「なるほどねぇ」
 同じくゆっくりと煙を吐いて、佐助は相槌を打つ。
「だとすれば、やっぱり徳川クンは相当の策士だねぇ」
「あぁ?何でそうなるんだよ、家康ほどいい奴はそういないぜ?」
 怪訝そうな視線をこちらにむける元親を、佐助は薄く笑って見上げる。
「や、別に悪い意味で言ったんじゃないから、気にしないで」
 そうか、と言う元親を見てから、こっそりと呟く。
「・・・・・・鬼の旦那も、基本的に人を疑わないからなァ・・・・・・」
「何か言ったか?」
「いーや、何も」
 言って、タバコを吸う。
 と、元親の話を統合して、考える。
 例えば、問題のプロポーズ事件、徳川家康があのときプロポーズではなく、普通に好きだとに想いを伝えた場合。
 その当時のにはその気はなかったのだろうから(何しろほとんど初対面のような状態だ)、その場で「ごめんなさい」と断られて終了する話だ。
 それを、突然のプロポーズでの気を引いて、なおかつ周りの男に対する牽制をして、それでここまで引っ張って、見事を落とそうとしている。
 佐助に言わせれば、これが策でなくて何だというのだろう。
「・・・・・・ま、何にしろ、タバコ仲間が減ったのはちょいと寂しいもんだね」
「まあなァ」
 佐助の言葉に、元親はわずかに眉を下げて、頷く。
 ふたりが吸っているのは元親がカートン買いしたからまだまだ在庫があるゴロワーズで、その独特のにおいが喫煙ルームに充満している。
 それを嫌がるは、ここにはもう来ない。
 今頃は、家康が買ってきたスティックの付いていないキャンディを口の中で転がしながら、通ったと見せかけて四度目の手直しを命じられた企画書と睨みあいをしているころだろう。
「『陽気な女ゴロワーズ』、ね」
「ま、アイツも大事なダチだ、笑ってくれりゃあそれでいいさ」
 そう言って、元親は笑う。
 佐助は同意して、ぷかりと輪の形の煙を吐いた。

(fin.)

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1万打リクエスト、「現パロで押せ押せ家康」でした。
ゴーイング権現ウェイないえやっさんを目指してみました。
晶さま、リクエスト本当にどうもありがとうございました!
(いつも来てくださってるとのこと、本当にありがとうございます。今後ともどうぞ、よろしくお願いいたします!)
material by ふるるか(閉鎖済/ありがとうございました)
20121220 シロ(シロソラ)