今しがたの通話結果のデータ入力を終えたところで、はディスプレイの時計表示に視線を走らせた。午前十一時五十八分。あと二分で昼休みだ。こっそり二分間サボる誘惑が脳裏をかすめるが、そんなことをするとセンターの同僚たちに負荷がかかることになると、五年も働けばそれなりに理解している。
 電話機の受信可能ボタンを押し、外線を待ち受けたところで、SVのランプが点ったのでおやと思ってボタンを押した。スーパーバイザー、つまるところ上司である真田係長からの入電である。
「――はい、です」
「すまぬ、どうしてもそなたにと名指しなのだ。休憩前に悪いのだが」
 オペレーター席はブースで仕切られているため、ここから通話相手の姿を確認することはできないが、童顔の係長の困り顔が眼に浮かぶようだった。
「大丈夫です、繋いでください」
 休憩前とはいえ今が勤務時間中であることに変わりはないのだし、オペレーターの指名は基本的に受け付けないとはいえ、そこはお客様が優先だ。
 ・・・・・・たとえ相手が、会社の方針が気に食わないとかあの商品はこうした方がいいとか、オペレーターを相手に自分の主張を語るだけ語って、それ以上の解決は求めずに満足するようなクレーマーであったとしても。
 真田係長の「すまぬ」という謝罪の声がもう一度聞こえてから、通話が切り替わった。電話機のディスプレイには、見覚えのある電話番号が表示されている。前々から数か月に一度くらいの頻度で実りのないクレームを語るために電話をかけてきていた老年の女性のお客様だ。少し前にが対応したらその対応が気に入られてしまったのか、ここ最近は二週間に一度、に名指しでかけてくる。子どもたちはそれぞれ独立し、ご主人に先立たれてからは話し相手がいないのだろう、そんな事情まで覚えてしまうほど、毎回長時間付き合わされる相手なのだ。時計は十一時五十九分。は半ば自棄のように、にっこりと笑顔を作った。
「お電話替わりました、と申します。・・・・・・はい、いつもお世話になっております。・・・・・・はい、はい、・・・・・・ええ、その件につきましては先日お電話いただいた際にも申し上げましたとおり、――」




 漸く社員食堂のある五階に到着し、は一息吐いてエレベーターを降りた。十七階のコールセンターからの移動は、特に昼休みは、節電のために半数しか稼働していないエレベーターでは時間がかかって仕方がない。腕時計の針はすでに十二時半に差し掛かっている。今日はついてない、そう思いながらは食堂に入り、いつも一緒に昼食をとっている同期を探した。
ー!」
「!」
 混雑する中、丸テーブルを囲んでいた同期のひとりが立ち上がって手を振ってくれたので、はそちらに小走りで向かう。
「お疲れー、遅かったねぇ」
「うん、ちょうど休憩前に電話が鳴っちゃって」
 答えながら腰を下ろすと、はいそいそと弁当とペットボトルのお茶を鞄から引っ張り出した。休憩時間は二十分後ろ倒しにしていいと係長から言われているから急ぐことは無いが、とりあえずお腹が減って仕方がない。
「コールセンターとかよく働いてられるよねぇ、私だったらそんなの絶対無理!」
 食べ終えた食器が載る食堂のトレイを脇に寄せて、化粧直し用のポーチを取り出しながら、同期の一人がそう言って口元を曲げる。
「だって苦情とかも多いんでしょ?一日電話応対ってだけでありえないのに何が悲しくて電話で怒られないといけないのって感じ」
「そりゃあアンタは開発だから、普段電話応対なんてないもんねぇ」
 弁当を食べ終えたらしいもうひとりの同期が、弁当箱を仕舞いながら苦笑した。
「開発に電話応対させたらそれこそ苦情殺到しそう」
「ちょっと開発を馬鹿にしてるー?」
「だって『声と態度がデカい』って開発の典型じゃん」
「わあヒドイ、そういう契約はどうなのよー」
「ウチは支社との電話が多いから、それなりにね。厄介なこと言ってくる人も多いけど、そういうのは課長対応だし」
「片倉課長でしょー?いぃよねぇ、頼りになりそう、てか渋いし!私ひそかにファンだったのにー、結婚しちゃったけど」
「ねー、なんか私たちが入社したときにはもう付き合ってたらしいよ?」
「マジかー、もーほんと、ウチの会社フリーでいい人いないのかなー、徳川さんももー結婚するとか言うしー」
「あのひと入社したときからそれ言ってるらしいけどね、てかほんと、『フリーで』ってとこがマジ重要」
 すでに昼食は終えている同期ふたりの会話を聞きながら、は持参した弁当箱を開く。母親任せだが、中身はいつも彩に気を使っていて実際に美味しい。今日もそのありがたみを噛みしめていると、会話の矛先がこちらを向いた。
「そういやんとこにもいるじゃんイケメン!」
「イケメン?」
 そのまま聞き返すと、化粧直しを始めた同期が頷く。
「そうそう、最近噂無くて盲点だったけど!真田係長、マジイケメンだよね」
「ぅえ、うちの係長?」
 イケメン?ともう一度繰り返すと、もう一人の同期もどこかしみじみと頷いた。
「こないだ新商品の研修で久しぶりに見たけど、改めてあれはかっこいいわ正統派って感じ?」
「コールセンター三年目だっけあのひと。本社来たばっかのころはけっこう若い子がきゃーきゃー言ったりしてたもんねえ、最近はさすがに落ち着いたんだろうけど」
 箸を動かしながら、は首を傾げた。
 の直属の上司であるコールセンターの係長・真田幸村は、確かに外見は整っていると言っていいだろう。はっきりとしたきれいな顔立ちをしているし、体格だってスーツの上から見る分には悪くない。社内では比較的若手であっても、係長級くらいになってくると腹が出始めたり毛髪が寂しくなってきたり、所謂「おっさん」化してくる社員も少なくない中、真田係長にはそういった傾向はかけらも見られないし、童顔のせいかむしろどこか初々しく見えるところすらあって、コールセンターの女性スタッフの、特にそれなりにお歳を召した面々にはとても可愛がられている。
 そう、かっこいいというよりも、むしろ。
「かっこいい、かなあ・・・・・・、かわいいとこはあるかもしんないけど」
「かわいいの!?何ソレどういうこと!?」
 テーブル越しにこちらに身を乗り出してくる同期ふたりに若干気圧されながら、は答えた。
「いやその、困ったときとかさ。こう、項垂れた犬みたいでちょっとかわいいの」
 あんまり頼りにはならないけどね、と苦笑で付け足す。
 先ほどの、休憩前の電話だってそうだ。管理職は直接外線には出ないから、あの電話も最初は誰か他のオペレーターが対応したはずで、おそらくはを指名して聞かないお客様に困ったオペレーターから上位者である係長に対応依頼(エスカレーション)されたものであるはずだ。そこで対応を完了するのが係長の仕事のはずなのに、結局お客様の主張に押されてにお鉢が回ってきたというわけである。
 優しいし、オペレーターたちからも人気があるけれど、こうして頼りにならないようなところがあるのが玉に傷だ。
 の頼りにならないという言葉を聞いて幾分クールダウンしたらしい同期が、しかし頬杖をつきながら言った。
「でもさー、真田係長って営業のときすごかったんでしょ?」
「あー聞いた聞いた!支社出てたとき、三年連続とかで営業成績全社トップだったって」
 口の中の卵焼きを飲み込んで、は眼を瞬かせた。
「・・・・・・まじで?」
「マジらしいよ、ほらウチのサブマネ、真田係長と同期なんだけど、今でもたまに言うし」
「営業で成績良いって聞くと、なんか肉食なカンジがするけど」
 同期ふたりの視線を受けて、は「んー」と唸った。
 肉食?真田係長が?
「いやぁ・・・・・・、あれは草食じゃないのかなあ」
「もしかしたらロールキャベツなのかもね」
「何ソレ」
知らないの?見た目は草食だけど中身は肉食ってこと」
「初めて聞いた」
 素で答えたら、同期ふたりは苦笑した。曰く、たまにズレてるよねえ。心外である。
 時計はもうすぐ十二時五十五分。同期ふたりはそろそろ休憩時間が終わるが、ひとりが「危なっ忘れるとこだった、」とを見た。
「っと、そうだ、今日の合コンだけど」
 その言葉に、は眉を下げる。
「本当にごめんね」
「何々、また合コン断ったの?」
 事情を知らないもうひとりの同期がそう言うので、は眉を下げたままため息を吐いた。
「断りたくて断ってるんじゃないよぅ」
の合コン運の無さときたらなんか憑いてンじゃないかってレベルだからね」
「だって合コンの日に限って、後から会議とか研修とか入るんだもん、夜なのに!」
 同期の言うとおり、ここ数年のの合コン運の無さは異常だ。合コンに出かけて行って、いい男がいなかったという運の無さならまだ理解できる、いい男はそうそう合コンなぞには顔を出さない。
 そうではなくて、の場合はそれ以前の問題なのである。合コンの予定が入ると、必ず後から狙い澄ましたかのように、その日のその時間に仕事が入るのだ。そもそも社会人も五年目ともなれば、合コンの話自体が少なくなってきている。今日もかなり久しぶりの話だったから、喜んで飛びついたのに、例によって例のごとく会議が入ってしまった。
 そういえば来週から顧客対応が一部変更になるから、確かにお客様の窓口であるコールセンターは事前にそれを知っておかなければならず、つまりそのための会議は今週中に行われなければならないわけで、もう時期として運が悪かったとしか言いようがない。
「三年目くらいから、だったかなあ、毎回毎回邪魔が入るようになってさぁ、勘弁してほしいよ本当。おかげで彼氏もできないし」
 そういうわけだから、口調が愚痴っぽくなってしまうのも仕方がないと、は思うのだ。
 頬を膨らませたに、同期がにこりと笑って見せた。
「そんなに朗報ですよー、なんと今日の合コン、向こうの幹事に事情話したら時間遅らせてくれました!」
「嘘!?ほんとに!?」
会議八時までって言ってたよね?店の都合で八時から、までしか遅らせられなかったらしいんだけど、それでもここからならそう遠くないし、少し遅刻くらいなら大丈夫だからさ」
 元々は十八時からの予定だったのだ。二時間も遅らせてくれるだなんて、今回は期待できそうだった。
「わあ、嬉しい!ありがとうっ。しまったもっとかわいい服着てきたらよかったぁ」
「何言ってンの充分でしょ、時間に余裕があるんだったら髪くらい巻いといたら?」
 そう言って同期たちが立ち上がる。は上機嫌で彼女たちを見送ると、残り時間でヘアセットをすべく、大急ぎで弁当の残りを口に運んだ。







 時計を見れば、十三時十五分だった。
「あれ、さん髪かわいいー」
 近くの席から部下の声が聞こえて、他部署からメールで届いたばかりの今日の会議資料を確認していた真田幸村は顔を上げた。
 十二時前の外線対応が長引いたので二十分ずらして休憩をとらせていたはずのが戻ってきている。午前中までと雰囲気が違うのは、幸村の眼にもわかった。シュシュで一つにくくっていただけの髪型が、明らかに華やかになっている。
「ありがとうございますっ。ちょっと時間に余裕があったんで、巻いてきました」
「巻いて、ってことはコテ会社に置いてンの?」
「はい、ロッカーに。御入用でしたら貸出しますから仰ってくださいね」
「さすが若い子は女子力が違うわあ」
「何言ってるんですかそんなに歳変わらないでしょう?」
 部下たちの会話を聞いていた幸村は、手にしていた書類に視線を戻しながら、右手を電話機に伸ばした。管理職には与えられている、内線用の電話機だ。隣の外線用のものでも社内に電話をかけることは可能だが、通話内容が自動で録音されるのであまり使わない。すでに覚えきっている内線番号を押し、受話器を左手に持ち替えて、二コール。電話機に通話中のランプが点る。
「――俺だ。ひとつ頼みたいことがある」







 共有会議室が設けられている十階のエレベーターホールでエレベーターを待っているのはと真田係長、そして会議相手であった各部署の管理職やスタッフたちだ。元々半数しか動いていないエレベーターは就業時間後になるとさらに数を減らして二基しか動いていない。一基は本日の業務を終えた誰かが乗っているのだろう、一階まで降りて行っていて、もう一基が昇ってくるのをじっと待っている状態だ。
 腕時計を確認すると二十時五分。すでに五分押している、はこっそりと息を吐く。
 会議の内容は大切なものだし、その必要性も理解はしているけれど、それにしてもこんな時間にしなくてもいいんじゃないかと、思ったりはする。コールセンター勤務の最大の利点は定時退社が可能なことなのに(コールセンターの電話受付が十七時までだからだ)、もうすでに三時間も残業している。残業代はきちんともらえるわけだから、予定の無い日ならば構わないといえば構わないのだけれど、今日は「予定のある日」なのだ。
 ピンポン、と音がして、漸くエレベーターがやってきた。扉が開くとすでに先客がいて、全員乗れるだろうかと考えているうちに係長が乗ってしまったから慌てて後を追う。
 後ろからぞろぞろと乗り込んできた人たちに押されて、は係長の背中にぶつかってしまった。
「わ」
 それに気づいたからかどうか、係長が身体を反転させて、そこにひとりが収まりそうなスペースができた。後ろからまだ押されているので、そこに入らざるをえない。が係長の前のスペースに身体を滑り込ませたところで、全員が乗れたのか扉が閉まって、エレベーターが動き始めた。まるで満員電車のようだが、稼働しているエレベーターの数が少ないのだから仕方がない。そもそもこの時間でエレベーターにこれだけの人数が集まるのが珍しいことだ。
「・・・・・・、」
 そこまで考えたところで、は気づいた。
 今は係長に背を向けて立っているわけだが、その係長の両腕が背からこちらに回ってきていて、つまり、
 ・・・・・・抱きしめ、られてる・・・・・・?
 いやいやいやいや。そんなわけない。自分のあまりの自意識過剰っぷりには内心ぶんぶんと首を振った。だって今身動きが取れない状態なのだ、それは係長も同じはず。きっと係長のことだ、腕の置き場に困っていることだろう。
 きっと気のせい、あるいは事故。そう結論付けて、はとにかくエレベーターが目的地に到着するのを待つ。
 十三階。扉が開いて、何人かが降りていく。スペースに余裕ができたので、は出来るだけ自然な動きで係長から離れた。どうしてだか、顔を見上げることが、できない。
 十四階。元々乗っていたメンバーが降りていく。残り五人。
 十五階。最後の三人が降りて、エレベーターにはと係長の二人だけになった。十七階のコールセンターまでもう少し。仕事はすでに全て区切りをつけてあるから、後はもうパソコンの電源を落として退社するだけだ。合コンの店は、ここから一駅離れた繁華街にある。エレベーターは一面がガラス張りで、外の夜景が見える。繁華街の方向に視線を向けながら、何分遅刻で済むだろうかと考えて、
 ――ゆっくりと、エレベーターが止まった。扉の上の階数の表示を確認すれば十六階を過ぎたところだ。もちろん扉は開かない。
「・・・・・・え?」
 ふつり、とエレベーター内の灯りが落ちる。
「え、え?停電?」
「いや、外は灯りがついておる」
 係長を見れば、彼も驚いたような顔をしている。係長の視線を追って窓の外へ顔を向けると、ビジネス街の灯りは確かにいつもどおりだった。
 ということは停電ではないはず。
 ・・・・・・まさか、故障?
 ぞわ、と背筋に寒気が走る音が聞こえた気がする。
「・・・・・・ひ、」
 吐息に、掠れた声が乗った。
 ちょうど最近、アクション映画で観たばかりなのだ。故障したエレベーターに閉じ込められた主人公。敵の仕掛けた爆弾でワイヤーが切れて、そのまま落下するエレベーターから間一髪の脱出劇を繰り広げるのだ。
 ここは十六階以上の高さだ。
 もし、この高さから、このエレベーターが落ちたりでも、したら?
「――案ずるな」
 耳鳴りがしそうだったの耳朶を、存外に落ち着いた声が撫でた。
「エレベーターを吊っているワイヤーというものは、そうそうなことでは切れたりはせぬ。万が一切れた場合も、安全装置が働くからそのまま落下するということはない」
「そう、なんです、か」
 とりあえず相槌をうちながら係長のほうを見ると、何やらごそごそと、スーツのポケットを漁っている。
 何してるんだろう、そう思って見ていたら、係長が顔をあげて、目が合った。
 窓の外のネオンしか光源がない、暗いエレベーターの中であったが、真田係長がはにかむように笑うのが、見える。
「というのも、俺も一度、これが落ちたら恐ろしいのではないかと心配したことがあってな、そのとき一通り調べたのだ」
 笑いながら、係長はポケットから手を出した。握っていたのは一粒の飴で、そのビニール袋を破るぱり、という音が聞こえた。
「こういうときはまず、落ち着かねば」
 そう言って、ビニール袋から取り出した飴を摘まむと、に差し出した。
 パインを模した、真ん中に穴の開いた黄色の飴だ。の子どものころからの好物で、今もデスクの引き出しに大袋でストックしている。それと同じものを、係長が自分に差し出しているのだ。
「ほら」
「あ、え、っと、いただけるんですか」
「うむ。落ち着くにはまず、甘味が一番だ」
「はあ、では」
 受け取ろうと両手を伸ばすと、係長は飴を持つ右手をひょいと持ち上げる。
 え、と見上げると、そこに満面の笑顔。
「あーん」
「はッ!?」
「ほれ、あーん」
「・・・・・・っ」
 それなりに年上であるはずなのに、係長の表情はまるで悪戯を思いついた子どものそれだ。
 なんだかからかわれているような気がする。こちらがムキになって反応したら負けるような気がする。何に対しての勝ち負けなのかさっぱりわからないけれど。
 顔を真っ赤にしながら、はおずおずと二歩ほど係長に近づくと、口を開けた。その舌に、飴が乗せられる。
「よい子だ」
 頭を撫でられた。
 ころりと、口の中で、飴が転がる。
 パインの、甘い味が広がる。
「・・・・・・飴なんて、持ち歩いてるんですか」
 なんだかいたたまれないような気分になって、なんとなくそう言うと、係長はの頭を撫でていた手をするりと下ろして、飴を転がす頬に触れる。
「うむ、俺は甘味には眼が無くてな。まだ手持ちはある故、欲しくなったら言うとよいぞ」
 触れられた手のひらの大きさにどきりとした。
 なんてあったかいんだろう。
 頭の中が混乱して、とりあえずパインの甘さに集中する。
 係長の顔は、近すぎて見ていられない。
 なんでこんなことになってるんだっけ。
 頼りないけどかわいい、それがこの係長のスペックであるはずなのに、いや確かにスーツのポケットから飴が出てくる時点でかわいいけれど。
『――はい、こちら警備室です』
 突然男性の声が聞こえて、はびくりと肩を震わせた。頬に触れた手のひらが自然な動きでその肩を軽く叩く。まるで子どもを、あやすように。
「コールセンターの真田だ。エレベーターが止まってしまったのだが」
『はい、こちらでも認識しております。ご迷惑をおかけし、申し訳ございません』
 ちょうど扉の脇に立っていた係長が、非常用のボタンを押したのだと、遅れても気が付いた。そもそもそれを一番初めにすべきだった、どうも頭が混乱している。
「故障か?」
『それが、信号に異常は無く、もう一基も問題なく稼働しているので、制御システムの方に異常があるのではないかということで、システム担当課に確認を取っているところです。至急で対応を行っておりますので、しばらくそのままお待ちいただけますか?』
「うむ、致し方あるまい。よろしゅうお頼み申す」
 パインの甘さが、少しずつ身体に行きわたるようで、漸くは落ち着いてきた。
 初めに考えたことは、
 ・・・・・・どうしてエレベーターが落ちるのではないかとが考えたことを、係長は気づいたのだろう、ということだった。








 どれくらいたったんだろう、もう二、三時間くらいたってるんじゃないだろうか。
 エレベーターが止まったという異常事態に慣れたのか、妙に冷めた頭ではそう考えた。
 腕時計を確認したいが、生憎身動きが思うように取れないのだ。
 というのも、警備室との通話をしながらの肩をぽんぽんと叩いていた係長の腕が、そのままがっちりホールドされていて、の頬と係長の胸元の距離はほぼゼロで、どうしてこういうことになっているのか全くわからないけれど、でも恐らく、というよりも絶対、いや自意識過剰すぎるのかもしれないけれど、でもはたから見たらこれはどこをどう見ても、
 ・・・・・・係長に正面から、抱きしめられている、わけで。
「・・・・・・ところで係長、いつまでこうしてるんでしょうか」
 とりあえず、出てきた言葉が、それだった。
 だって他に何をどう言っていいのかわからない。
 係長にその気がなかったなら、「やめてください」とか言うのもなんだか自意識過剰な気がするし。そうだ、そもそもはパニックになりかけていた自分を落ち着かせるためだったんだろうし、実際落ち着いたからそこは助かったわけで。
「何だ、は嫌か?」
 やはり顔は見上げられない。
 ただ心底意外そうな声が降ってきたので、は言葉を探してうろりと視線を泳がせた。
「嫌というかなんて言うか、・・・・・・、こういうの、セクハラとかに、なるんじゃないんでしょうか」
 とりあえず法令順守(コンプラ)の方に話を振ってみた。そうそう、過度のスキンシップは立派なセクハラの事例だ。管理職は特に、パワハラとかも含めたそういうものに関する研修を、頻繁に受けているはず。
 係長の「ふむ」という声が聞こえた。
「セクシャル・ハラスメントの定義は受け手側が不快に思うということ、だ。・・・・・・は俺にこうして肩を抱かれるのが嫌なのか?」
「・・・・・・っ、」
 何だこのひと天然なのか。いや天然だろうとは思っていたけれど。
 所謂ハラスメント、という言葉は、このご時世管理職なら誰しも敏感にならざるを得ないワードであるはずなのに、どうして平然と会話が進むのだろう。
 しかも、「嫌なのか」と聞かれた、その声色が。いつものあの、項垂れた犬みたいな、もっと言うと「拾ってください」と書いてある段ボールに入っている犬みたいな、どうにも無下にできないあの声色なのだ。
 ぎゅう、とは眼を閉じて、声を絞り出す。
「嫌というより、は、恥ずかしいんですよ・・・・・・!」
「ほう。何故だ?」
「なんでって・・・・・・!あ、当たり前じゃないですか、こんな、近いしっ」
「そうか、しかし俺はに触れていたいしなあ、困ったものだ」
「は・・・・・・!?」
 今なんて言った?
 は眼を見開いて絶句し、そして漸く思い至った。
 このままここにいたら、危ないのではなかろうかと。
「あ、あの!もう大丈夫ですし、エレベーターが落ちないのもわかりましたから、」
 言いながら、足を踏ん張り、なんとか係長と自分の間に腕を入れる。力を入れて身体を離そうとして、
 ――の肩を固定する腕がびくと動かない上に、余裕すらある動きで係長がふいと身を屈めて、の耳元で囁いた。
「落ち着け。いくら安全装置があるといっても、そのように動くと落ちるかもしれぬぞ?」
「ッ!」
 びしりとは動きを止める。
 落ちたら困る、確かに。それに落ちるところまではいかずとも、エレベーター内で暴れると、それをセンサーだか何だかが察知して外部に報せたりする機能が、最近はあるのではなかったかと、テレビで観た知識を掘り返す。今この状態を察知されたらものすごく困る。絶対に困る。
「ほら、飴ならまだあるから、」
 面白そうに笑いながら、係長は空いている方の腕をポケットに突っこんで、パインの飴を取り出した。片腕と歯で器用に袋を破いて、黄色の飴を摘まむとの口元に運ぶ。
 今度こそ、は係長の顔を見上げて、睨んだ。
「飴、もっ、いただけるんなら、自分で食べれるんですがっ」
 精いっぱい睨んだはずだ。
 なのに、係長は穏やかな微笑みを、一ミリたりとも変えなかった。
「俺がこうしたいだけだ、気にするでない」
 飴が、の唇を、つつく。
 他にどうしようもなくて、は口を開き、ころりと飴が転がり込んできた。
 こんなときにも、パインの味が美味しいと思ってしまう自分の胃袋脳にさすがに嫌気がさしそうだ。
 大人しくからころと飴を舐めはじめたを見て笑いながら、係長はポケットを漁り、
「・・・・・・ああ、しまった。今ので最後か。俺も食べようと思っていたのに」
 それはそれは残念そうに、眉を下げた。
 あまりの落胆ぶりに、思わず「すみません」と謝ってしまったの眼を、係長の双眸が捕える。
 ――なんて、切なげで、きれいな眼だろう。
「どれ、。すまぬが返してくれるか」
 我に返るのが、遅かった。
 聞こえた言葉の意味を理解する前に、係長の顔が近づいてくる。
「は、!?・・・・・・ちょ、」
 の肩にあったはずの係長の腕が、いつの間にかの後頭部をがっちり固定していて、つまり逃げ場がどこにもなくて、
 唇、が、
「ッ、ん、・・・・・・ッ、――!」
 「ちょ」と言いかけたままのの唇の間から、当然のように侵入を果たした熱い舌が、の歯列をなぞり舌先を擽り、
「ぅ、ッ」
 そして舐めかけの飴を探り当てるとそれを掬い上げるようにして持っていき、漸く唇が離れて行った。
 愕然と、が見つめるその視線の先で、係長はにこりと笑う。
「ん、馳走になるぞ。やはり飴はこれに限るな」
 の口の中にはいまだに甘い味が残っていて、パイン特有の舌先がかすかに痺れるような感覚があって、
 というか。
 今。
 何を、
「ちょ・・・・・・、いま・・・・・・っ」
 がば、と唇に手を当てる。濡れた感覚に、どきりと心臓が大きく跳ねる。
 今、まさか、いやまさかも何も絶対にそうだけど、係長と、キ――
 ――ぱ、とエレベーター内に灯りが点った。
「!」
 見上げると、消えていた扉上部の階数表示も復活している。
 ゆっくりと、エレベーターが上昇を始める。
「む、もう直ったのか。もうしばしふたりで居りたかったというのに」
 ぽんぽん、との肩を叩いて、係長の身体が離れていく。
 とたん、ひゅう、と肌寒さを、感じた。そういえば停電ではないとはいえ、少なくともエレベーター内の電源は切れていたのだ。空調も止まっていたのだろう。春先とはいえ、夜はまだ冷える。今の今まで、それを感じなかった。
 やがて、エレベーターは十七階で止まり、扉が開く。
 そこには警備室のスタッフが待ち構えていて、と係長に頭を下げた。
「どうも、ご迷惑をおかけしました!」
「いやなに、苦労をかけた」
 係長と警備室スタッフの会話を聞き流しながら、は足早にエレベーターから降りる。
 兎にも角にも、早くその場を離れたくて、それだけが必死で、気が付いたら家までたどり着いていた。

 合コンになど、行けようはずもなかった。










「あっ!昨日大変だったねー!」
 今日は時間通りに休憩に入れた。エレベーターが混みはしたものの、比較的早い時間に食堂に辿りつくと、先に来て席を取ってくれていた同期がそう言って笑った。
「本ッ当に、ごめんね、せっかく時間遅らせてもらったのに、」
 九十度に頭を下げては言う。
 昨夜のことを後から逆算して考えると、エレベーターが止まっていたのは三十分にも満たない時間だったのだ。そこから急げば、合コンに参加できないような時間ではなかった。それでもどうしても、行ける気がせず、帰りながらこの同期にメールで行けない旨を連絡したのだった。一応は、エレベーターが故障して閉じ込められたという事情も添えて。
「だーいじょうぶ、気にすることないよ!ちょうど向こうもひとり欠員が出ててさ、人数的には結果オーラいだったから」
 そういう同期の機嫌はすこぶる良い。もしかしたらいい出会いがあったのかもしれない。
 ――いい、出会い。
 自分で思考したその単語に、何故だか猛烈に恥ずかしくなった。
「あれ、?どした、顔赤いよ?熱でもある?」
「え、ううん、なんでもないなんでもない」
 ぶんぶんと顔の横で手を振りながら腰を下ろし、鞄から弁当箱を取り出そうとして、
 ――その上に、一粒の、パインの飴がある。
 朝出社したら、のデスクにただぽつんと、置いてあったものだ。
 誰かに見られたらまずいような気がして、慌てて鞄に入れた、その飴だ。
 誰が置いたのかは、想像がついている。
 確かめるどころか、今朝から顔をまともに見ることすらできないけれど。朝礼の後すぐ会議に出かけてくれたのは幸いだった。
 ・・・・・・そう、顔は見ることができないけれど、フロアのどこにいるのか、ついつい確認してしまう。
 仕方がない。だってあんなことがあった後だ。避けないといけないから、そのためには常に把握しておかないといけないから。
 上司である、真田幸村という男が、今どこでどうしているのか、と、いうことを。
「あ、お疲れー!」
「お疲れー、聞いてよもうウチのサブマネがさああ」
「ちょ、いきなりヒートアップしてるね、どうしたの」
 遅れてきた同期も揃って、会話が花開く中、は弁当箱を開けて、思わず噎せた。
?」
「げほ、ごめんちょっとお茶が変なとこ入って、ごめん続けて続けてサブマネがどうしたって?」
「それがさー、」
 同期の話を聞きながら、は弁当のおかずを見下ろして、お母さんたまに天才だなと、考えた。
 そこには、弁当箱のほぼ半分の陣地を占めて、
 ――ロールキャベツが、鎮座している。








 そのころ、十七階の休憩スペースで、自販機から転がり出てきたリアルゴールドの缶を取り出しながら、猿飛佐助は言った。
「――で、首尾は上々なの?」
「まあ、それなりにな。お前にも手数をかけた」
 視線をあげれば、紙カップを片手に何やらご満悦そうな表情の幸村の姿。ちなみに紙カップにはコーヒーのブランド名が印刷されているが中身は砂糖入りのカフェオレだ。このひとブラックコーヒーは飲めないから。
「さっきエレベーターんとこですれ違ったよ?相変わらずぽやっとしててかわいーよねえ」
「お前にはやらんぞ」
「なーに言ってんの、アンタのものを俺様が欲しがったことなんて、今まであった?」
「無いが、万が一ということもあろう。何しろ、可愛いからな」
 ふふと笑うその表情を見て、佐助は思う。
 このひとは本当に、怖い御仁だ。
「あ、例のエレベーターの監視カメラの画像だけど。外部には繋いでないしもう消してあるけど、元データはあるから、あとで送っとく」
「おお、すまんな。礼を言うぞ」
「これくらいどってことないよ、お礼ならシステムのテスト検証の結果早くくれないかな。コールセンターはいっつも遅いって、うちの子たちが困ってンだけど」
 わざとらしく呆れたように言うと、幸村は決まり悪そうに視線を逸らした。
「仕方あるまい、量が多いのだから」
「受電システムの総入れ替えなんだから量が多いのは当たり前でしょ。なんならサンに手伝ってもらったら?飴でつってさ」
「人聞きの悪い言い方をするな」
「あはー、ごめんごめん」
 佐助はへらりと笑うと、缶のプルタブを開けた。
「ま、またなんかあったらいつでも言ってよ」
「うむ」
 缶に口を付けながら、終始上機嫌そうな幸村を見て、佐助は口角を上げる。
 ・・・・・・何にしたって、の幸福はもう確定している。
 他の誰でもない真田幸村が、彼女に恋をしているのだから。

(fin.)

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1万打リクエスト、「社会人パロで黒幸村」でした。
小虎様、リクエストどうもありがとうございました。「相手に気取らせないように包囲していく」幸村という素敵すぎるリクエストに、大変心躍りました!黒幸村、いいですよね。その良さが、少しでも出せているといいのですが…!
お待たせして申し訳ありませんでした。楽しんでいただければ、光栄です。今後ともどうぞ、よろしくお願いいたします。

material by はだし
20130411 シロ(シロソラ)